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2006年2月22日 (水)

東西冷戰

 86、87年、89年と住んでゐた西伯林のシャルロッテンブルク地區は米軍管轄地でした。少し離れた公園と云つてもだだっ廣い管理された森なのですが、散歩してゐると、後ろの人の氣配を感じ、草群の音に吃驚して振り向くと、匍匐(ほふく)前進で訓練中の米兵たちを見たとか、或ひは、歌のやうな掛け聲を掛け乍ら整列して走り回る彼等も見掛けました。

Grenze 當時の伯林市は第二次世界大戰後、自治権はありましたが、戰勝四箇國(米英佛露)により事實上統治されて居りました。進駐軍と云ふ奴です。壁際には「あなたは米國管區を出るところです」と云ふ看板が立つてゐました。壁はやや東側に引っ込んだ所に在りましたので、この看板と壁の間の數米は既に東側だつたのです。

 ブランデンブルク門から西側の勝利の塔へ續く「6月17日通り」には、伯林へ一番乘りした蘇聯の戰車が飾つてあり、蘇聯兵士が立つてゐました。86年の初夏に突然の俄雨で私は傘も持たずに出掛けたので、大きな木の下で雨宿りしましたが、彼等蘇聯兵は雨の中でも歩哨せねばなりません。雨合羽を着た交替が來て、横へ引っ込む時に走り込んでゐました。それを見た、我々觀光客は大笑ひしたものです。「奴等も同じ人間だ!」と。

 この6月17日通りを米英佛三軍の行進が年に一回あり、戰車だとかも通ります。田宮の軍装模型(プラスチック・モデル)が好きだつた青年には、兵隊や武器は取り分け格好良く見えます。勿論、自分が戰場へ赴くなど考へたこともなく、北朝鮮や蘇聯の赤の廣場の軍事行進は恐ろしかつたですが、陸路が寸斷され伯林封鎖されれば、また「伯林空輸作戰」の二の舞です。西側三軍の彼等に守つて貰つてゐると思ふと心強かつたりもしました。

 東側へ行くと、鐵道驛の上には自動小銃を擔えた國境警備兵が居ます。服装が傳統的な軍服に黒革長靴でした。軍装模型で親しんだ私には、曰く近寄りがたいものの、懐かしくも、親しみ易い軍服です。東獨逸崩壊後はアメ横でこの軍服をよく見掛けました。こんな古めかしい軍服に身を包んだ軍人の監視の目は嚴しく、周りを見渡せば、流行服を着た人は勿論居ませんし、地味な格好ばかりです。廣々とした表通りは寒々しく、裏通りは市街戰の後も生々しい彈痕が殘り、崩れた煉瓦塀だとか仄暗くて寂しい街燈だとか、鉤十字の旗は翻つてゐませんが、まるで獨逸國家社會主義勞働黨(ナチス)政権下の1930年代の伯林へ來たのではないか、と錯覺する思ひがしたものです。

 さて、88年にフランクフルトで働いてゐた頃の話しです。伯林の日本人の元同僚ともよく電話で連絡し合つて居りましたが、時折、雑音が酷くて聞き辛いことがありました。そんな時は、電話線が東獨逸を通る際、途中で盗聽されてゐて、日本語の場合は北朝鮮の兵士に翻譯させて記録してゐたと云ふ話しでした。
 其の時も居り惡く矢鱈と雑音がザーザー混ざり、「盗聽されてゐる」と感附いた私は、散々東側の惡口を言ひ、北朝鮮の獨裁政権をなじり、友達と散々惡態を就いてゐたら、途中でブチッと切られてしまつたのです。その時はさすがに蒼かったです。

 幾ら西側の都市に住んでゐたとは云へ、30分以上は話し込んでゐましたから、きっと逆探知も可能であつたことでせう。コッポラ監督、ジーン・ハックマン主演の《盗聽》と云ふ映畫がすぐに頭を過切りました。プロの盗聽専門家が次々と頼まれた他人の秘儀を盗聽し、最後には自分が盗聽されてゐると云ふ強迫觀念に陥り、孤獨と恐怖に苛まれて行くお話しです(1974年にカンヌ國際映畫祭でパルムドールを授賞してゐます)。

 突然、スパイ容疑で拉致でもされて、東に送られ、しまひには西比利亞(シベリア)送りにでもなつたら、と考へると心細く、寝臺の上で毛布を被りひとり小さく丸まったものです。數分たつて、その友達と再度電話が繋がると、お互ひに無事を確認して、ほッとしましたが、その晩は安心して寝入ることが出來ませんでした。




カンバセーション…盗聴…


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販売元:ジェネオン エンタテインメント

発売日:2002/07/25

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尚、文中の畫像は「ベルリンの壁」から許可を得て掲載してゐます。

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