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2006年5月 9日 (火)

近代能樂集

 三嶋由起夫は能舞體を新しい戯曲として捉へ『近代能樂集』として脚本を執筆してゐます。その中で比較的よく上演されるのが、《葵上》《卒塔婆小町》でせう。作家と関係の深い美輪明宏主演による、2002(平成14)年にパルコ劇場(再演)は秀逸でした。

 ご存知の通り、《葵上》は『源氏物語』の〈葵の巻〉が基となつた芝居です。大企業の御曹司、若林光(光源氏)は、妻の葵(葵の上)が原因不明の病氣に罹つたことを知り、慌てて出張から戻り、病院へ直行します。すると、結婚前に附き合つて、もうとうに捨てた年上の女性、六条靖子(六條御息所)の生き靈に取り憑かれてゐた、と云ふ話です。

 舞臺正面に葵の眠る寝臺が在り、其の背後には羽織が掲げられ、光琳の流水紅梅圖の掛布團。葵が夢の中で闘つてゐるからか、病室のソファーがダリの描いた超現實主義(シュールレアリズム)の歪んだ時計であつたりして、象徴的な装置が渾然一體となり、既に怪しい雰圍氣が醸し出てゐます。

 看護婦たちは「毎晩、夜中になると必ず現れるお見舞ひの人が氣味惡い」と噂して、其の人の車の光が病室から見えると、それを合圖にして皆下がつてしまひます。病人の他、一人殘された光(宅麻伸)が仕事か旅の疲れからか、病室のソファで寝入ると、背筋をすっくと伸ばした真っ黒い衣装の六条靖子(美輪明宏)が現れます。客席中央上手の扉から何時の間に現れたのか、客席の間を、しずしずと舞臺へ上って行きます。客席の非常灯も落とした真っ暗闇の中で、衣擦れの音だけが響きます。そして通り過ぎてから、服に焚き込めた香の薫りだけが漂ひ、恐ろしさが突然込み上げて來るのです。視覺だけに頼つて生き靈を見てゐたつもりが、突然、嗅覺を刺激され、其の壓倒的な存在感に一氣に呑み込まれて行きます。これはもう、テレビでは絶對に味はへない演出の妙でした。
 自分の服に香を焚き込むなんて、如何にも舊家のお金持ちの未亡人と云ふ感じもよく出てゐます。そして、最期には、葵はこの生き靈に殺されてしまふのです。途中の回想場面で、ハチャトゥリアンのバレヱ《スパルタカス》より〈スパルタカスとフリーギアのアダージョ〉の音樂が情感たっぷりに盛り上げます。

 一方〈卒塔婆小町〉は小野小町と深草少將の悲戀物語が基となつてゐます。舞臺は現代に移され、公園に居るホームレスの醜い老婆(美輪明宏)に興味を持つた詩人(宅麻伸)が尋ねます。すると、百歳を越えた老婆が、實は昔、舞踏會の華と慕はれ、「小町」と呼ばれた美しい女性だつたと云ふのです。皺苦茶でぼろを纏ひ、惡臭ただならぬ老婆からは全く想像できないものの、昔話を聞くうちに夢の世界に引き擦られ、何時しか絶世の美女に戻つた老婆と華麗なワルツを踊り、百夜通ひを成し遂げられず死んだ深草少將と同じやうに、最後には「君は美しい」と言つてしまひ、息絶えて行きます。このワルツもハチャトゥリアンの組曲《假面舞踏會》から取られ、しつこい旋律の繰り返しが頭に附きます。一瞬通俗的にすら見える其の奥で、たいへん計算尽くされた世界だ、と氣附かせない技が光ります。

 誰もがそのベンチに近寄ることすら憚る、臭さの根元であつた老婆から、微かにコロンの香りも心地よい、素敵なドレスに身を包んだ淑女への早變はりは吃驚しましたね。美輪明宏さんは只者んぢゃありません。鼻と耳の記憶に殘る芝居でした。以來、ハチャトゥリアンは普段聽く曲の仲間入りです。




ハチャトゥリャン: 管弦楽作品集 ~剣の舞


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近代能楽集


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