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2006年6月30日 (金)

カサンドル

 ウクライナ出身のアドルフ・ムーロン・カッサンドル(1901 – 1968)のポスターからも大きな影響を受けました。バロック、ロココ、アール・ヌーヴォーに至つた私の似非ポスターも装飾に疲れ、次第に簡素で力強いものに憧れ、自然とアール・デコの作品に目が移つて行きました。そこで發見したのはカッサンドルです。後にイヴ・サン・ローランの書體も考へた巨匠です。今で云ふグラフィック・デザイナーの先驅けでせうか。

Normandie1 極端に單純化したり、ぼやかしたり、或ひは抽象化したキュビズムの影響を受けたカッサンドルの商業廣告は力強さが信頼や安心を生んでゐます。1927(昭和2)年の「北方特急」、1931(昭和6)年の「大西洋號」、翌年の食後酒「デュボネ」、1935(昭和10)年の「ノルマンディー號」等大作が續々と作られました。

 見て下さい!この豪華客船「ノルマンディー號」の安定感。初めて展覧會でオリヂナル・ポスターを原寸大で觀た時に衝撃は忘れられません。「船がでか~い」のひとこと。これ以上單純化できない程すっきりとした構圖。畫面いっぱいに船首が描かれ、その大きさを強調する爲に白波と左下、右舷下の方に鴎(カモメ)を13羽極小に描いてゐるのですね。緑色の大海原、浮世繪のやうにグラデーションが附いて上部に行く程深い碧色になる空模様。既に廢棄されてしまつた船ですが、飛鳥IIよりもこちらの船に乘つてみたかつたですね。そんな思ひも込めて、ベルランでは昨夏の特別企畫としてこの「ノルマンディー號」の料理を再現しました。

Etoilen 時代の寵兒となつて持て囃され、流行の先端を行つてたカサンドルも何時しか、時代の潮流に乘り遅れ、次第に人氣に衰へが出て、戰後は全然パッとしません。あれ程輝いてゐた1930年代の作品のやうな力が失はれてゐました。回顧展で順繰りに見ると、それは今の我々にも明らかで、本人は氣附いてゐなかつたのでせう。不遇が續いた爲に1968(昭和43)年に巴里で拳銃自殺してしまひました。

Ams85 大學4年の最後の演奏會〈救世主(メサイア)〉では、カッサンドルの「北極星號」の主題材北極星を真似て、基督生誕の星の導きとしてポスターを描きました。相變はらず下手なのですが、自分としては學生生活を締め括る大きな仕事のつもりでした。

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2006年6月29日 (木)

ロートレック

Lautrec アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864 - 1901)も19世紀を代表する畫家として知られ、多くの商業廣告、ポスターを描いてゐます。それまで斷片的にポスターを見たことはありましたが、1987(昭和62)年でしたか丁度伯林で一大回顧展があり、じっくり見ることができました。兎に角澤山の素描やパステル畫があり、入念に作品を描いたことがよくわかりました。
 それに、1952(昭和27)年に名匠ジョン・ヒューストンの撮つた『赤い風車』と云ふ優れた映畫もありましたね。哀れさを強調したところもありますが、儀禮や外面だけの貴族社會より、弱い人間を温かく見つめ、場末の踊り子や、娼婦、酒場の人間模様を氣に入つた藝術家と描いてゐます。ロートレック役の性格俳優ホセ・ファーラーの演技もピカ一でした。

 カール大帝にまで遡ることのできる名門貴族の長男として生まれたロートレックは、病弱で發育不全であつた爲、狩獵好きな父親には拒否され、母アデール伯爵夫人には溺愛され、母親が別居後、母の買ひ取ったボルドーのマルロメ城で夏を過ごすのを何よりも樂しみにしてゐました。虚弱體質を理由に1875(明治8)年に巴里の學校を退學させられてから、南佛の湯治場や故郷で靜養し、大好きな繪ばかり描いて過ごしたのです。

 1878(明治11)年の5月30日、故郷アルビで惡ふざけで左脚を骨折、翌年にはバーレージュの湯治場で散歩途中、ふと轉んで右足大腿骨を折り、遺傳性の骨の病氣「硬化性異骨症」に罹つてゐたことが判明しました。これは、廣大な私有地を持ち、狩獵や社交だけに明け暮れ、働くことをしない貴族同士の血族結婚が續いた結果でした。それ故、ロートレックは成長が止まり、大人になつても152糎しかなく、「私の足がもう少し長かつたら、繪を描かなかつたでせう」と本人が言ふやうに、彼の人生を大きく變へるできごとでした。

Mr 17歳になつて畫家を志し、レオン・ボナ(1833 - 1922)の門下生となつて基礎を學び、モンマルトルにアトリエを構へる頃、因襲に囚はれないモンマルトルの酒場やキャバレーに入り浸ります。1891(明治24)年には有名なキャバレー「ムーラン・ルージュ(赤い風車)」を描き、このポスターが貼り出されるや否やすっかり有名人となりました。彼は周到に準備を重ね、踊り子グーリューと鉤鼻のヴァランタンの素描から習作を重ね、水彩、パステルで描き色の重なりから配色まできっちり計算して石版畫に仕上げてゐます。背景畫と文字がしっくり合ふやうに、自らインクの調合もし、刷り上がると原版は破棄して複製を豫防する念の入れやうでした。

 ロートレックは生涯に350枚の石版畫を殘してゐますが、そのうち30枚がポスターで、遠くからみて誰にでも判り易い繪を描き、好評を得るどころが人類の遺産とも云ふべき作品を殘してゐます。大の酒好きで、ボルドーの中州、アントル・ド・メールに在る母のシャトー・マルロメのワインを愛し、得體の知らない混ぜもの(カクテル)でもアブサンでも何でも飲みました。また、社交好きでもてなし上手なロートレックはオマール海老が大好きで自ら庖丁を握り、生きたまま調理し、牛肉の煮込み料理等料理本がある程のグルメでもあつたのです。2003(平成15)年の夏にベルランでは、この料理本から料理を再現しました。

 身體の弱かつたロートレックには活力漲る踊り子や騎手に惹かれ、夢中になつたその氣持ちをキャンバスにぶつけたので、誇張はあるものの説得力のある表現が得られたのでせう。36歳を目前にして亡くなつたロートレックの生き様は、憂いのあるポスターに蔭となつて現れてゐる氣がします。



DVD

ムーラン・ルージュ 赤い風車


販売元:レントラックジャパン

発売日:2004/11/26

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トゥールーズ~=ロートレック著『ロートレックの料理法』 モーリス・ジョワイヤン編輯 美術公論社

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2006年6月28日 (水)

ミュシャ

Gismonda モラヴィア出身のアルフォンス・ミュシャ(1860 - 1939)はアール・ヌーヴォーを代表する畫家でせう。幾何學模様と草木装飾過剰な背景に美しい女性が全面に立つ多くのポスターや挿繪は何処かで見たことがある筈です。優雅な歐州への憧れを強調し、サラ・ベルナール(1844 – 1923)の舞臺ポスターや自轉車や煙草の宣傳等、商品を賣ることが主としても多色刷りの石版畫は夢を多く語ります。

 舞臺女優サラ・ベルナールは當初喜劇と道化芝居ばかりでしたが、1880年代にまづ巴里で名聲を勝ち取り、全歐州、亞米利加へと舞臺を廣げました。1894(明治27)年の年の瀬に、まだ正月公演の宣傳廣告が決まつてゐませんでした。殆どの畫家が基督降誕祭休暇の爲居らず、ようやく見附けたルメルシエと云ふ印刷所で働いてゐたまだ無名の挿繪畫家ミュシャにポスターを依頼します。ひとり殘つてゐたミュシャでさへも、それまでポスターは描いたことはありませんでした。何とか納期に間に合ひ短期間に仕上げられたこの作品は、元旦から街中に貼られ、4日からの公演も大成功に終はります。ベルナールが特に氣に入つたのは言ふまでもなく、以降幾度も依頼するやうになり、この一枚「ジスモンダ」がミュシャを巴里中に知られる賣れッ子ポスター畫家に押上げたのですね。アール・ヌーヴォーと云へば、まづミュシャが思ひ浮かぶ程です。

 ベネディクティンやモエ・エ・シャンドン・ホワイト・スター・シャムパーニュ、リィナール・シャムパーニュ等食後酒や發泡酒を飲むだけで女性が輝いて見えるポスターも素敵です。歐州の街中に在る廣告塔に貼ることが前提だとは思ひますが、通常のA版サイズより縦長で、日本の掛け軸を彷彿とさせます。細かな装飾に微妙な淡い色遣ひ、人物は大膽に描寫したところにも、浮世繪を感じさせます。

Ames 1983(昭和58)年のヘンデルの《救世主(メサイア)》の公演にこのデザインを拝借して描いたことがあります。細いペン畫故迫力に欠け、一色刷りなので随分頑張つたのですが、今見ると稚拙な技術にがっかりします。

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2006年6月27日 (火)

アール・ヌーヴォー

Agenso2 倶樂部の住所録の表紙、定期演奏會の廣告ポスターにチラシ、當日の立て看板等パート譜面以外にもやることは澤山ありました。上手な先輩が居た爲、尚更それ以上に描いてやろうと闘志を燃やし、率先して引き受けたものです。文化祭では、好き勝手に演奏を聞かせる喫茶店をやる爲、廣い音樂室の装飾もせねばなりません。1980年代中頃はアール・ヌーヴォーの畫家の展覧會が重なり、まともに影響を受けました。

 空間恐怖とも云ふべき、草木の曲線が絡まる装飾が畫面一杯に廣がり、獨特の文字を重ねるとそれらしい雰圍氣が出ます。學生のやることですから、お金は掛けられませんが、時間は掛けられます。じっくり描いて、切り抜いて、舞臺背景や壁に強調する模様を貼り、それなりのものが出來上がりました。自分一人では量が多いので、描いたものを同じ係の人にやって貰ふのですが、こちらの拘りは通じませんので、安直に仕上げられたり、指定した色がないからと薄っぺらの安いもので濟ませたり、なかなか巧く行かないものです。小さな表紙なら紙面に限りがありますが、大きな空間となると三次元でもあり、違ふ要素が色々必要になるものですね。

 小さな空間に多くを語らせる立體廣告としては、東京メトロ銀座線の銀座驛を一番前に降り、松屋デパートまでの地下通路に飾られた松屋の商品廣告はとても素敵です。ごちゃごちゃ並べることなく季節を先取りした小物、上品な佇まひ、小さな値札と商品名が實に品がよく粋に飾られてゐます。大きなマネキンと男性服、女性服も目を見張るものですが、小さな小窓に商品が並んだものの方が實はじっくり見るものなのですね。

 白耳義のブリュッセルに殘るオルタ博物館はヴィクトール・オルタの私邸を公開したものです。19世紀末に、産業革命により身近になつた鐵や硝子と云つた新しい素材を曲げて暖かみを出し、過剰装飾した獨特のスタイルは非常に美しく「新しい藝術」の名に相應しいものでした。ポスターだけでなく、佛蘭西の地下鐵入り口、建物にも採用され一時代を築きました。併し反面、完結し過ぎてゐる爲、自宅の場合新しく家具を入れる等手を加へることが全くできません。それ故、設計したオルタ自身も長く住みませんでした。巴里の街角にも、アール・ヌーヴォーのカフェやレストランも數多く殘りますが、お茶漬け好きな日本人には、長く座つてゐると居心地の良さを通り越して、くどく、しつこく、うんざりしてしまひます。その後の流れとして、當然のやうにすっきり見せることがアール・ヌーヴォーの後出て來たのかも知れません。

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2006年6月26日 (月)

商業デザイン

 すっかりパソコンも定着して、手書きで書くことが少なくなりました。以前は献立表のデザインから文字書き(レタリング)まで全て手書きで、微妙な行の變換は複寫して切り貼りする以外に手はありませんでした。特に文字書きは専門書を横に置いて見乍ら、一字一句鉛筆で下書きしてから、やっとペンで墨を入れて行く時間の掛かるものでした。その作業をしてゐたからこそ、微妙な差が出て味はひがありました。現在の樂な作業ですと、短時間で非常に綺麗に仕上がる反面、人間味の感じられない冷たいものになつてしまつてゐます。

 最初に文字書きに興味を持つたのは中學生のことです。友人のお父さんが挿繪畫家で、その子の持つて來たカセットテープの曲名が實に見事に書かれてゐたのに吃驚したのが最初です。まだ、ラヂオにカセットテープが一緒になつた「ラヂカセ」が流行出した頃で、FM放送を好き勝手に録音し、自分好みのテープを作つてゐた頃です。彼のインデックスには手書きだと判らない位に美しい字が並んでゐました。人にできるなら、自分でも安直に考へて、自分でも細いペンを買つて來て、書いてみると時間は掛かるものの書けるものです。

Ahigh それ以降、人に見せるものはカセットテープの曲名だけでなくノートの表紙だらうと、時間を掛けて綺麗に書くことを心掛けました。但し、出來上がりの美しさだけに囚はれた爲、漢字の書き順が疎かになつてしまふ弊害もありました。ノートの中身はたいしたことはありませんが、それでも、高校2年生の時に文化祭のポスターに應募したところ、當選しました。繪と共に文字を書いたのがことの他喜ばれたのと、基督教の學校に合ふやうな内容であつたからかも知れません。獨逸のロココ時代の教會の寫眞を元に描いたもので、二本の柱にアーチの天井があり、その間に文字を書き入れたものです。それなりに素描も重ね、稚拙乍ら緻密な作業の結果です。

 人に認められると嬉しいもので、卒業アルバムの表紙文字も手掛け、大學に入るとオーケストラ部のパート譜の製本と表紙に凝り出しました。自分のだけでは飽き足らず人にも描き、最後は人から有料で描くほど熱中しました。それ故、商業デザインには格別の注意を拂ふやうになつたのです。今週は商業デザインのお話しをしませう。

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2006年6月23日 (金)

ドルニエ Do X

  「ツェッペリン伯號」が世界一周へ飛び立つた頃、民間輸送機は精々10名運ぶのがやっとでしたが、100名を超す人を乘せて飛行機を飛ばそうと考へた人がゐました。それが、クロード・ドルニエ(1884 - 1969)です。彼はツェッペリン飛行船會社から獨立して、同じボーデン湖畔で、飛行艇の開發に勤しみました。大型飛行機では芝生の滑走路にめり込んで進めませんが、水上なら大型化が可能でしたから、飛行艇の研究が一歩先へ進んだのです。

Dox 何とも憎めない飛行艇「ドルニエDo X」は1929(昭和4)年7月12日に初飛行、10月21日には、169名も乘せて世界記録を打ち立てました。定員の乘客150名、乘務員10名、それに密航者が9名も居た爲、定員オーバーが逆に世界最多となりました。

 ご覧の通り、目立つのは翼上の6列のエンジンでせう。ジーメンス・ジュピター9型エンジン12基が附けられましたが、馬力不足で後に610馬力のカーチス・コンカラー水冷式V型12氣筒エンジン12基に替へられ、やっと大西洋横斷へ向かひます。全長40.05米、全幅48米に56噸とかなり重い爲、なかなか高く飛べませんし、速度も出ません。但し、客船の設備を基本に考へてゐた爲、乘客100名が旅中飽きないやうに、ラウンジ、喫煙室、シャワー室、食堂まで完備し、「ツェ伯號」を上回る設備でした。乘務員は通常14名程で、操縱室、機長室、航海室、機關室それに通信室まで調ひ、豪華なホテル並です。前後6列12基のエンジンは重い割に効率が惡く、設計上のミスもあり頑張つても速度が出ません。理想だけが先に行つてしまつた感じです。

 献立表は生憎殘されてをらず、厨房の寫眞も見たことがないので、冷たい料理が供されたこと以外詳しいことはわかりません。豪華なワインと共に珈琲、紅茶が沸かせたとしても、キャビアにフォア・グラのテリーヌ、3食共サンドヰッチだとしたら、何日も飛ぶのには耐へられませんね。それに艇内は防音が完備してゐませんので歩き廻れたとしても、かなり五月蠅かつた筈です。

 1930(昭和5)年11月2日に和蘭のアムステルダムから葡萄牙のリスボン、伯剌西爾のリオ・デジャネイロ、亞米利加のマイアミ、そして紐育へ華々しく向かふのですが、高温多湿の大氣では、通常の馬力も得られず、一度着水すると離水も出來ない始末。装備を減らし、内装を外し、乘員を減らして何とか飛び立ちますが、氣温の高い日中は精々高度3米、夜間でも50~80米しか飛べません。夢ばかりで鈍重なところが逆に愛らしい。6列エンジンは他の飛行機にはないだけに、私は好きです。故障も多かつた爲、ルフト・ハンザの印を附けて定期航路に就けず、博物館行きとなりました。Do Xの後繼艇のDo 24は實用化されましたが、定期航路には就かず獨逸空軍省で救難飛行艇として使用されました。
 パンナムの古いポスターで見たことがある程度で、詳しいことは知りませんが、飛行艇は1930年代に主に北米で活躍したやうです。

 この度、エア・バス社がボーイング社の「ジャムボ・ジェット」を越える世界初の総2階建て、超大型旅客機A380(最大853席、通常555席)を製造するとのことですが、どうなりますかね。空の上の豪華な食事は今も憧れの的です。

Dornier Do X

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2006年6月22日 (木)

空の女王

 水素は酸素と反應して水になりますので、環境汚染を解決すべく燃料電池への應用が期待されてゐます。併し、水素は空氣中の酸素に触れると爆發を起こします。それ故、風船に入れられるは瓦斯はヘリウムを使ひます。安定した元素なので爆發の危險はなく、最近では「風船の餌」として罐に入つて販賣もされてゐます。LZ129「ヒンデンブルク號」が飛び立つた頃、既に獨逸國家社會主義勞働者黨(ナチス)に危機感を抱いた亞米利加政府は唯一のヘリウム産出國でしたが、飛行船の軍事利用を恐れて輸出を禁止し、「ヒンデンブルク號」は仕方なしに水素を氣嚢一杯にしました。ヘリウムより水素の方は浮遊力が大きい爲、急遽重しの爲に特製のグランドピアノを載せ、釣り合ひを取り大西洋横斷へと向かひます。

Hbspeise 1936(昭和11)年3月31日、全長245米、最大直徑41.2米、最高時速135粁、空の女王「ヒンデンブルク號」が南亞米利加へ処女飛行を行はれました。フランクフルト・アム・マインに空港が新設され、北米航路ではニュージャージー州、レイクハースト海軍基地まで片道61時間38分、歸へりは48時間22分で結び、3日で亞米利加へ渡れることを宣傳にも使つてゐる程、速い乘り物でした。そればかりか、客船では一週間掛かり高いのに比べ、「ヒンデンブルク號」は片道400弗と破格です。「ツェッペリン伯號」でも北米航路片道1250弗もしたのに、その3分の1の値段です。これは、飛行船が大型化し、一度に50名も(後に改装して70名)運べるやうになつたからです。

ゴンドラ部分は操舵室だけになり、客室は船體部分下へ移り大きく使へるやうになりました。中央部に2段ベット式の客室、両翼に展望サロン、食堂、讀書室、シャワー室、厨房、バー、それに劃期的なのが喫煙室の増設です。靜電氣の引火を恐れ、「ツェ伯號」は禁煙でしたが「ヒンデンブルク號」には煙草を吸えるところがあり、これは當時の人々に非常に喜ばれました。但し、もしもの際にこの喫煙室だけ切り離されて落下する仕組みであつたことなど誰も知りません。

Hbsp2 食堂はバウハウスを引き繼ぐやうなモダンなもので、廣々として、白いリネンが映え、特製の銀器や磁器も真新し、く改良の加へられた厨房により豪華な食事が供されました。1936年8月21日(金)の献立表を見てみませう。中身の文章は船内でタイプ打ちされて謄寫版(ガリ版)印刷されたやうです。晝食と夕食が併記されてゐますので、一日一冊配られたのでせう。  晝食を見てみると、

コンソメ・スープ パンケーキの浮實
印度風鶏 カレーソース 御飯と豆添へ
苺 生クリーム添へ
珈琲

とあります。獨逸の街角のソーセージ屋で一番人氣がCurry Wurst(クリー・ヴルスト)なのですが、焼いたソーセージにケチャップを掛け、そこにターメリックの効いたカレーパウダーを掛けただけの實に單純な料理です。これにゼンメル(Semmel)と呼ばれる小さく丸い佛蘭西パンが一緒に附き、大きく口を開けて頬張ります。日本語風に「カレー・ヴルスト」と發音すると全然通じません。戰前からこれがあつたかわかりませんが、カレーソースはピリリとした辛さが異國を感じさせたことでせう。そしてワインと一緒に樂しめると考へると、今の飛行機の2等席のやうな感じなのでせうか。但し、2人用個室の寝臺でゆっくり眠れますし、殆ど揺れません。飛行船の方が優雅ですねえ。

 7月26日(水)にヒンデンブルク號の料理を再現致しますが、材料の關係により、この料理ではなく1936年8月17日の献立を使ひます。 

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南米航路

 第一次世界大戰で負けた獨逸は賠償金の一部として飛行船は接収され、格納庫は日本へ移譲され霞ヶ浦の海軍基地に組み立てられました。1929(昭和4)年のLZ127「ツェッペリン伯號」世界一周の際に利用されたのは言ふまでもありません。1924(大正13)年に亞米利加へ送られたLZ126は後にZRIII「ロス・アンゼルス號」と名を變へて米海軍で活躍しました。

 「ツェッペリン伯號」は世界一周で長距離飛行の安全性を世論に廣く訴へ、南米航路が開設します。獨逸のフリードリヒスハーフェン、西班牙(スペイン)のセヴィリア、伯剌西爾(ブラジル)のペルナンブコ、首都リオ・デ・ジャネイロを結び、後に獨逸から伯剌西爾まで直行し、多くのビジネスマンを運びました。リオから飛行機の接續で、亞爾然丁(アルゼンチン)のブエノス・アイレスまで飛ぶことも可能で、歐州から南米まで最も早い航路でした。この南米航路の献立表も幾つか蒐集してゐます。特に1935(昭和10)年邊りに使はれたものは、多色刷りで大きな椰子の木と夕日に「ツェ伯號」が描かれ、旅情を盛り立ててくれます。
Suedamerika
 例へば、ペルナンブコからフリードリヒスハーフェン間の1935年5月20日(日)の晝食
  クリーム・スープ アグネス・ソレル風
  若鴨のソテー 豆、馬鈴薯、林檎のコムポート添へ
  加州産黄桃 ライス添へ
  珈琲

と云ふのが載つてゐます。濃縮したコンソメはそれまで一般的でしたが、この頃になるとクリーム・スープも出され、船内で調理された温かい食事は特に魅力であつたことでせう。デザートのライスは甘く煮込んだライス・プディングのやうなものだと思ひます。食べてみたくなりますね。そのうちにベルランで再現する機會を作りたいと思つてゐます。

 飛行機には1919(大正8)年に倫敦・ブリュッセル間で初めて機内食が出されてゐますが、ランチボックスでサンドヰッチに果物、チョコレートが附いて3シリングと別料金でした。珈琲と紅茶は魔法瓶で、1930年代に歐米にこのランチ・ビックス形式が廣がります。2003(平成15)年に伯林からフリードリヒスハーフェンへハーン・エアライン社で飛行船に乘る爲に直行したのですが、ドルニエの18人乘り小型飛行機であつた爲、ライ麦パンにハムの挾んである獨逸らしいサンドヰッチとチョコレートがひとつ、それにポットから珈琲を入れてくれました。器こそ違ふものの、70年前と變はらない形式ですね。

 

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2006年6月21日 (水)

遊覧飛行

 アルミニウムと云ふ丈夫で輕い金屬の枠組みの中に風船を入れ、それにゴンドラを提げて飛ぶ、硬式飛行船LZ1は1900(明治33)年にフェルディナント・ツェッペリン伯爵が私財を投げ賣つてやつと成功しました。根っからの軍人であつた伯爵は軍事利用を考へてはいたものの海軍から註文も入らず、郵便と客船として飛行船事業を考へざるを得ませんでした。そこで世界初の航空會社「獨逸飛行船運輸會社(DELAG = Deutsche Luftschifffahrts-Aktiengesellschaft)」が1910(明治43)年に設立されてゐます。

 まづ、LZ7「獨逸號」が就航しますがエンジン故障で事故を起こしますが、「獨逸二世號」は30回もの國内遊覧飛行を行つてゐます。狭いゴンドラ内には向かひ合はせになつた籐椅子が並び、輕食も頂けました。LZ10「シュヴァーベン號」はバーデン、ゴータ、伯林、ポツダム、フランクフルトを巡回し安全で快適な飛行を見せ附けてゐます。1912(大正元)、13(大正2)年の2年間に250回の飛行はめざましい進歩でした。

Schwaben そこで何が出されたかが氣になります。アルベルト・ザムト元船長の自傳『飛行船に尽くした私の人生(Mein Leben fuer den Zeppelin)』 Verlag Pestalozzi Kinderdorf Wahlwies に「シュヴァーベン號」の色刷の美しい献立表が載つてゐます。それを見ると、キャビア・ベルーガ、ストラスブール産フォア・グラのパテ、佛蘭西産肥育鶏、サラダ、ピーチ・メルバが載つてゐます。ボトルワインは6種類、それに食後酒とミネラルウォーターもあります。調理場はありませんので、地上で皿盛りにしたものを幾つか載せたのでせう。暖かい料理はないにしても、現在の遊覧船も似たやうなものです。獨逸の觀光船でライン下りをした際に見た献立よりも高價な食材です。それは、誰もが乘船できなかつたことを意味し、富裕層を狙つたからです。それをきちんと最初から商賣にしてゐて、黒字經營であつたのも立派なことです、ワイングラス片手にキャビアやフォア・グラなんて、さぞかし美味かつたことでせう。

Nt_1 現在、南獨逸のフリードリヒスハーフェンを基點としてツェッペリンNT號が遊覧飛行をしてゐますが、こちらは12人乘りで食事はありません。戻るとゼクトで乾杯は致します。日本にも同じ型の飛行船が廣告にのみ使はれてゐますが、2003(平成15)年に乘つた時、確か335ユーロでしたので凡そ1時間の遊覧飛行で5萬圓と決して安くはありません。併し、それだけ拂っただけのことはあります!のんびりとボーデン湖の上を飛ぶのは非常に氣持ちいいものです。ただ、「窓や窓枠もプラスチックなので手を掛けないで下さい」との注意放送には吃驚しました。「確實に落ちます」なんてはっきり言はれると、自己責任の國なのだなあと思ひました。それ故、日本では遊覧飛行に使はないのでせうか。

ボーデン湖遊覧飛行

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2006年6月20日 (火)

優雅な食事

 飛行機は1903(明治36)年のライト兄弟初飛行以降で暫くは操縱士ひとりと云ふ單獨飛行かお客ひとりで、遠くまで飛べませんでしたから食事が出ません。1927(昭和2)年に大西洋單獨無着陸飛行を成し遂げたチャールズ・リンドバーグもサンドヰッチとミネラル・ウォーターだけでしたから、空の上で兩手の空いた人しか食事は無理ですね。

 1783(天明2)年に佛蘭西のモンゴルフィエの作つた人類初の熱氣球有人飛行では25分間巴里上空を飛んだだけですから、食べてる暇もなかつたでせう。そこで登場するのが伯剌西爾(ブラジル)の珈琲王から遺産を引き繼ぎ、伊達男として知られたアルベルト・サントス=デゥモンでせう。1898(明治31)年に日本産の絹と竹の籠を使ひ氣球を飛ばしてから、すぐに空での食事を思ひ附きました。勿論、慣れない大空での食事なので、訓練が必要だと考へ、高さ1・8米の卓子とそれに合ふ椅子を拵へてそこで食べる訓練をしたのです。最初は食堂の天井から卓子と椅子を吊したらしのですが、當然天井が落ちたので、こんなことを考へたのですね。

 「飛行にはシャムパーニュ附の贅澤な晝食が必要」だと考へてゐたので、固茹での玉子、冷製ローストビーフとチキン、チーズ、アイスクリーム、果物、ケーキにシャムパーニュ、珈琲、シャルトルーズ(食後酒)まで載せて、「かうして氣球に乘つて雲の上でとる晝食より美味いものはない」と言つてゐます。只上空に揚がるだけでは滿足せず、移動する手段を考へます。特に輕量で單純なガソリン内燃機関(エンジン)を使ふことを閃き、石疊よりも震動が少ないことを喜び、どんな反對にもめげずに獨自に飛行船を設計したのです。アンリ・ジファルによる蒸氣機關による飛行船の實驗が既に1852(嘉永5)年に行はれてはゐますが、實用化はされてゐませんでした。

 1898(明治31)年の「1號機」から數へて、1901(明治34)年の「6號機」で制限時間の30分間エッフェル塔の周りを廻る飛行に成功し、名譽ある「ドゥーチ賞」を獲得してゐます。サントス=デュモンは自分で航空機を設計し、自分で費用は賄ひ、自分の發明で特許を取ることもせず賞金の10萬フランの半分は助手たちに與へ、殘りは巴里の職人達が質入れした道具の買ひ戻しに使つてゐます。大金持ちだつたからこそできることでせう。この時は記録への挑戰が優先されて、晝食は食べなかつたと思ひます。

 「9號機」の〈バラドゥーズ(散歩人號)〉は全長33米の「6號機」に比べる3分の1の11米と小型で、命名通り空中散歩に使はれ、ブローニュの森のレストランへ行く時に、或ひはカフェのテラスに降り立ち、食前酒を一杯飲んだり、随分と優雅なことをしたものです。但し、これも一人で操縱する爲、空中で食事をしたのかどうかはわかりません。

 小柄であつた爲「プティ・サントス」の愛稱で呼ばれた彼は、お洒落で常に襟の高い(high collar)シャツを着てゐた爲、日本では後にお洒落な人を「ハイカラ」と呼ぶやうになつたさうです。また、飛行中懐中時計ではポケットから出していちいち時間を確かめるのが煩はしいと聞いたルイ・カルティエが腕時計を考案して贈つてゐます。それが角形で羅馬數字の有名な『サントス』です。これは1978年に金の龍頭、ステンレススティールのベルトで復活を遂げ、ご婦人用も賣り出されてゐますね。

 大空での優雅な食事は最初から、誰もが味はひたいと思ふものなのでせう。



空飛ぶ男 サントス‐デュモン


Book

空飛ぶ男 サントス‐デュモン


著者:ナンシー ウィンターズ

販売元:草思社

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2006年6月19日 (月)

空の食事

 お客さんを連れてワイナリーやチーズ、それにお酢等の食品工場を訪ねる旅を年に一度企畫してをり、昨年の新西蘭は例外ですが、大抵歐羅巴へと旅立ちます。10年計畫で始めたこの旅行も今年で、既に6回目に當たり10月にトリュフを食べにピエモンテを訪ねます(只今參加者募集中です)。

 歐州航路は直行便で凡そ12時間。半日座りっぱなしなので疲れます。併し、就職して歐州へ向かふ冷戰の最中の1986(昭和61)年、蘇聯上空を飛べなかつた頃はアラスカのアンカレッジ經由でしたから、もっと辛かつたですね。8時間乘ると日本時間の深夜に起こされ、機體整備の爲空港に降りると眩しい明るさに時差ボケが進み、日本語の上手な二世のおばちゃん相手に何故か饂飩(うどん)をすすったり、お土産の燻製鮭(スモーク・サーモン)を買つたりしたものです。そして、再び乘り込んだ飛行機は6時間掛けてやつと歐州上空へ到達するのでした。その經驗があるので、12時間なんて決して長いとは思ひません。

 當時はまだ全面禁煙ではありませんでしたから、喫煙席すぐ後ろの禁煙席の場合、ふわーっと煙がやって來るので閉口したものです。銘柄なんか勿論知りませんが割合ひきつい煙草で、歐州人の吸ふものは日本のおじさんたちの「ハイライト」とは香りが全然違ひ、優雅な舶來ものだと感心したものです。聞き慣れない外國語が飛び交ひ、外國へ行くと云ふ實感がふつふつと沸き上がりました。通路を挟んで斜め前に座つた、でっぷり太つた佛蘭西人のおじさんの高い鼻穴からフーと紫煙を吐き出すところが、初代ゴジラ(1954年公開)を彷彿させました。頭の中ではすっかり伊福部昭の旋律が渦巻き、卓子の上に並んだ食べ殘しがミニチュアの町並みに見えて、「嗚呼、やられる」と云ふ氣分で退屈を紛らわしたのです。書き初めて、久し振りにその情景が目に浮かびました。「ジタン」だつたのかも知れませんが、灰が胸の上に落ちても差程氣にも留めず、旨そうに吸つては、鼻から大量に紫煙を吐き出す姿はゴジラそのものでした。

 それまで、布哇くらいしか行つたことがなかつたので、歐州系航空會社の食事の違ひは目を見張りました。「フィッシュ・オア・ミート」と順番に訊かれるのに、どんな調理法かもわからないのに決めねばならない苦痛と、自分で聲に出して英語で意思表示をする心配で舞ひ上がるものなのですね。そして、音樂を聽く爲のイヤホンや酒類はタダでしたし、ワインも種類があり、食後酒まで勸められたのにはさすが吃驚しました。味はどうと云ふことはありませんでしたが、昭和一桁の父親に嚴しく殘さず食べるやうに躾られた爲、食べ切るともう滿腹過ぎて、胃はムカムカするし、アルコールも利いて來て、時差ボケも重なり、折角の最新映畫を見損なはないやうに目を開けてゐるのも必死でした。氣にせず寝てもいいのですが、映畫好きとしては見逃すのは大損に思へて、つひ頑張つてしまひました。そして、また幾時間かすると食事が出て、食べ續けてゐると段々フォア・グラにされる鵞鳥の氣分にもなつて來るものです。

 飛行機で遠くへ移動する際に最も樂しみなのが實はこの「食事」なのですねえ。今週は大空の食事のお話しです。

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2006年6月16日 (金)

グルメなロッシーニ

Rossini 作曲家の中で、一番の美食家と云へばジョアキーノ・ロッシーニ(1792-1868)でせう。「モオツァルトの再來」として騒がれ、24歳の時に歌劇《セヴィリアの理髪師》で大當たりを取つてから、數多くの歌劇を書いたもののモオツァルトを越えられる譯ではなく、37歳で歌劇《ウィリアム・テル》を發表後は、さっさと筆を折り印税だけで生活する樂隠居をした人です。ロッシーニが最も得意としたオペラ・ブッファの流行が下火になりつつあることを敏感に察し、最先端となるグランド・オペラは畑違ひと感じ、十分働いたからと引退したらしく、巴里で世俗の快樂に走つたのでせう。

 年間3~4本もオペラを書いた爲、作曲が間に合はなかつたのか、使ひ回しも實に多いので吃驚させられます。例へば、有名な歌劇《セヴィリアの理髪師》序曲は、指揮者の試驗にの使はれる緩急、大小音の揃つた變化に豐んだ親しみ易い曲ではありますが、元々《パルミーラのアウレリアーノ》の序曲であつたものを、《英國女王エリザベッタ》の序曲に再利用し、更に丸々《セヴィリア》にも使ふ横着なところがありました。今なら著作権だとか、獨創性からして物議を醸し出すことでせうが、ロッシーニとしては大衆さへ喜べばそれで良しとした勸があります。

 暇に飽かせて美食の道を突き進んだのですが、自ら厨房に立つだけでなく、自ら新しい料理を考案し、「ロッシーニ風」と名附けた料理は今でも我々は食べることができます。本當に彼が實際に編み出したものかは定かではありませんが、名前が附いて後世まで殘るのは非常に稀ですから、作らせたとか、調理人にヒントを與へたとかのが真相かも知れません。

 クルトンの上に牛フィレ肉とフォア・グラを載せ、トリュフの入つたソース・ペリグーを掛ける「トゥルヌド・ロッシーニ」、フォア・グラ、トリュフ、ヨークシャー・ハムをクリームにして、マカロニに詰めた「注入したマカロニ  ロッシーニ風」、骨髄を使つた「リゾット ロッシーニ風」… ありとあらゆる食材にロッシーニ風が附いてゐます。詳しくは水谷彰良著 『ロッシーニと料理』 透土社 をご覧下さい。

 また、演奏旅行の度に行く先々で地元のワインを飲み、すっかりワイン通となつたロッシーニ家の地下藏には、佛蘭西、伊太利、獨逸、西班牙、葡萄牙ばかりか、南米のワインまで秀逸ワインが集められ、然も氣輕に客人に振る舞つたさうです。初めて口にしたのは、7歳の時に教會のミサ用ワインを味見したのが最初だとか。私の父は酒を飲まない人ですが、母方は酒豪揃ひで、私も物心附いた時からこっそり味見したものです。

 ロッシーニはワインの味もわかる男と云ふ評判も立ち、それ故、王侯貴族との附き合ひの幅も廣がりました。1864(元治元)年の或る日、ロートシルト男爵から屋敷内の温室で採れた美味しい葡萄一箱が、ロッシーニ家に贈られて來ました。「飛び切りの葡萄に感謝します。ただ、一口分のワインとは少々寂しいですなあ」と當て擦りの返事を送りましたが、機知に富んだ言葉に気附いた男爵は「シャトー・ラフィット・ロートシルト」の小樽を直ぐにロッシーニの元に届けさせたと云ふ逸話もあります。1本2萬圓はするボルドーの最高級赤ワイン、「シャトー・ラフィット・ロートシルト」が一箱贈られれば、そりゃあ誰でも大喜びするでせう。生憎、私はロートシルト男爵の友達ではありませんし、機知に富んでゐる譯でもなく、未だそんな機會に恵まれません。當たり前かあ。

 晩年に作曲した《老ひの過ち》と題した小品集が有りますが、160曲の内12曲の洋琴(ピアノ)曲に食べ物の名が附けられてゐます。死後《セヴィリア》と《ウィリアム・テル》以外すっかり忘れ去られ、1970年代になつてやっと再評價されたロッシーニ。晩年は明けても暮れても料理のことしか頭になかつたのでせうから、仕方ありませんね。


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2006年6月15日 (木)

庶民派ブラームス

Brahms 自由都市ハンブルクの貧民窟に育つたヨハネス・ブラームス(1833-1897)は家族愛に支へられましたが、家計を助ける爲に13歳にして酒場で演奏して生活費を稼がねばなりませんでした。ご覧の通り、青年時代は亞麻色の長い髪に、碧眼のイケメンですが、やや背が低かつたことを氣にして貫禄を附けようと努力し過ぎたのか、後年は肥滿體、髭面、むさ苦しいおじさんになつて仕舞ひました。

 18歳で名の知られたピアニストになりますが、何と言つても20歳の時シューマンに『音樂新報』の中で「新しい道」と紹介されたことが大きく、この恩を忘れることなく、未亡人になつてもクララ・シューマンとその子供たちに大いに愛情を注いでゐます。當然、クララ自らの手による料理を樂しんだことでせうが、洋琴演奏家と知られたクララが料理の作り方を殘した譯ではないので、何が好きであつたかわかりません。

 若い頃は鉛の兵隊を随分集めたやうです。今で云ふとプラモデルやフィギュアと云ふ奴です。彩色を施し、大將から騎兵隊、歩兵まで澤山持つてゐて、シューマンの子供達に自慢の兵隊で閲兵式を披露したやうです。他に趣味としては作曲家の手書き総譜や直筆原稿の蒐集がありました。これらは没後、遺言通り維納樂友協會に遺贈され、モオツァルトやベートーヴェン等の貴重な譜面の數々が散逸せずに殘つてゐます。

Rotigel 酒好き故肝臓癌で亡くなりましたが、美食家ではなく、生涯獨身を通した爲、維納の庶民派レストラン「赤い針鼠」に入り浸つたことが知られてゐます。それ故、こんな漫畫も殘されてゐる譯です。葉巻を噴かし、足取りも輕く「赤い針鼠」へ向かふご機嫌なブラームスが描かれてゐます。街中で出遇うへば、たちどころに「嗚呼、ブラームスだ」と判る位有名であつた筈ですが、煌びやかな生活よりは庶民的な生活を好みました。
 此処は既に廢業して在りませんので、詳しいことは判りません。以前、維納のブラームス博物館に問ひ合はせところ、肉団子入りの澄まし汁(コンソメ)、維納風カツレツ、洪牙利風グーラーシュのやうな現在でも食べられるごく普通の維納料理を食べたことだらうとの返事でした。もしも、ブラームスが日本人だとしたら、近所の定食屋へ通ひ、さしづめ鯖の味噌煮定食やカレーラーイスにハンバーガー等を食べたことでせう。

 家族思ひで知られたブラームスですが、 彼の父親は貧乏生活に甘んじて息子の施しを決して受け入れませんでした。それでもブラームスは「音樂は大きな慰めを與へてくれるものです。ヘンデルのオラトリオ《サウル》の譜面を置いて行きますから、困つた時には樂譜を手に取つてみて下さい」と言つて総譜を置いて行きました。幾年かして、さすがに貧乏生活に耐えられなくなり、ふと息子の言葉を思ひ出した父親は《サウル》の譜面を開きました。すると、各頁毎に紙幣が挟み込んであつたと云ふのです。さりげない心配りのできる人だつたのでせう、さすがです。

 苦勞を重ねた所爲か、大金を手にしても贅澤とは無縁で、着る物に金も掛けず、葉巻で穴の空いた上着やちんちくりんのズボンでも全く氣にせず、お腹いっぱいになればそれで滿足したのでせうね。當時の流行作曲家のヨハン・シュトラウスとも仲が良い割に、抜けるやうな青空を感じさせる曲はなく、どんよりとした曇り空を思はせる北獨逸の心象風景や、深い憂いや惱みを打ち明けるやうな大人向けの曲を書いたブラームス。普段はのほほんと暮らしたのでせう。

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2006年6月14日 (水)

大食漢のバッハ

Bach_1 ヨハン・セバスティヤン・バッハ(1685-1750)は就職先の仕事により作曲内容も随分と違ひ、ワイマール時代(1708-17)にはオルガン曲の傑作が多く、ケーテン時代(1717-23)には管弦樂、器樂曲が集中して書かれ、ライプツィヒ時代(1723-50)にはプロテスタントの立場でカンタータを初めとする教會音樂が數多く作曲されました。當代きつての最も優れたオルガニストとしても名を知られたバッハは、特に即興演奏の大家としても有名でした。

 1716(正德15)年4月17日~20日に掛けてバッハはハレを再訪し、聖母教會の大オルガンの改造が完成した爲、ライプツィヒのトマス・カントルのヨハン・クーナウ(1660-1722)とクヴェドリンブルクのカントル、クリスティアン・フリードリヒ・ロレ(1681-1751)と共に試奏に招待されました。3人にはそれぞれ16ターラーの禮金と共に旅費や食事が提供されたことが判つてをり、其の時の祝宴メニューが殘つてゐます。辻靜男著 『料理に「究極」なし』  文春文庫に「バッハの食生活」と題した、素敵な随筆があり、料理家から見た食事に就いて書かれてゐます。この時、3人の音樂家はハレ市當局により手厚く歡迎されました。

 「牛肉の煮込み、鱒のアンチョビ・バターソース添へ、スモークハム、ソーセージとほうれん草、羊のロースト、仔牛のロースト、えんどう豆、馬鈴薯、茹で南瓜、アスパラガス、レタスと赤蕪、揚げ物、檸檬の皮の砂糖漬け、フレッシュ・バター」

 平素簡易な生活に慣れてゐたバッハにとつては、とても豪華な食事に見えたことでせう。後々にもそれが自分の食べた一番の御馳走であつたと語る程でした。獨逸人の食事は今もかなり質素で、朝はパンにハムと珈琲、晝に暖かいもの、例へばソーセージと馬鈴薯、そして夜は火を使はない黒パンにチーズとハム、それにワインか麦酒なんて感じです。1986(昭和61)年に初めて渡獨して、2箇月獨逸語の學校へ通つたのですが、或る晩大家が「Abendessen」に招待してくれました。「夕飯」なので、さぞかし御馳走が出るものと、期待してきちんとネクタイを締め、背廣を着て出掛け、こちらは會話に四苦八苦し乍らも、黒パンに載せられたハムやチーズの前菜の後にどんな素敵な料理が出て來るものかと、ワクワクしました。ところが、1時間たつてもそのままで、何も出て來ず、結局それでお仕舞ひでした。獨逸の夕飯がどんなものか、知つてゐれば過度な期待はしかなつたのですがねえ。獨逸の夕飯と云ふと、空腹で寝られなかつた晩を思ひ出します。

 さて、ロレは自分の老齢を考へて食事も飲み物も控えめに取り、クーナウは飲食どちらも當然とされる限度を超えないやうに氣を附けましたが、31歳のバッハはそんなことには丸切り頓着せずに、口に合ふものを好きなだけ、弟子にも分け與へず平らげ、大いにワインも飲み干したと傳へられてゐます。そして美食が絶倫な精力源となつたのか、2人の奥さんとの間に20人もの子供を殘しました。併し、大食から來る肥滿(肖像畫からも伺へます)は健康にも影響し、高血壓で糖尿病だつた可能性が高いと云はれてゐます。

 料理が一人前ずつ切り分けて盛られ、一皿ずつ出されるやうになる(露西亞式の給仕)のは、佛蘭西でも19世紀半ばを過ぎだ頃ですから、この頃はまだ一時に澤山の御馳走が所狭しと食卓の上に並べられ、前菜やデザートの區別もなく、肉も魚も全部一緒くたにナイフ一つで手掴みで食べたのです。立食ではありませんから、基本的に自分の手の届く範囲ものしか口にできませんが、もしかすると、バッハは弟子に卓子の反對側まで取りにやらせたかも知れませんね。現在の我々から見れば、熱いも冷たいもなく、随分と野蛮な印象を受けますが、さぞかし豪快な食事だつたことでせう。



Book

料理に「究極」なし


著者:辻 静雄

販売元:文藝春秋

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2006年6月13日 (火)

ベートーヴェンのオムレツ

Btv ベートーヴェンが維納に住んだのは1792(寛政4)年から1827(文政10)年の死に至る迄の約35年間でしたが、實に80回以上も引越しを繰り返しました。家主や女中との喧嘩、無遠慮な隣人、ナポレオン軍による砲撃や稜堡の爆破の騒音等に耐へかねて市内に住む弟カールに助けを求めたこともありました。それでも、現在は「ベートーヴェン記念館」として一般に公開されてゐるヨハン・F・パスクワラーティ男爵(1777-1830)の大邸宅に一番長く住んだのです。1988(昭和63)年に訪れた時は磨り減つた石の階段を、今にも嚴(いか)めしい顔をして後ろに手を組んだベートーヴェンが歩いて下りて來さうな感じがしたものです。

 1802(文化2)年に「ハイリゲンシュタットの遺書」を書き殘し、自分が聽覺を失つてゐることを文章として打ち明け、情緒ある人として他人と接することができない絶望を表しました。難聽は周囲の世界との隔絶も意味し、内面を掘り下げ深く追い求める作曲にも繋がつた反面、直情径行型の性格が災ひして、身の回りのことにはとんと無頓着、整理能力はまるで無く、むさ苦しい身成のベートーヴェンの住まいを

 「古臭いグランドピアノの上は埃だらけの上、印刷物や樂譜が山と積まれ、ピアノの下には異臭を放つおまるが置きっぱなし。ペン先にはインクがこびり附き、床や籐椅子の上には食べ殘しの食器、脱ぎっぱなしの服が散亂してゐた・・・」

ベートーヴェン宅を訪問したド・トレモン男爵が惨憺たる部屋の様子をかう述べてゐます。引越しの理由を考へると實は汚し放題、作曲中には奇聲を發し、盥に水を張つて着衣のまま頭からそれを掛ける等、常人には考へられない行爲により階下の住人からは苦情が相次ぎ、家主から追い立てられた可能性の方が高いのです。

 無茶苦茶な生活をしてゐただけあつて、決してグルメではなく單なる酒飲み(アルコール中毒の父親の遺傳?)で食事も不摂生になりがちでした。どうも他人に對する勞りに欠けるのか女中に對しては何時も辛辣で、何をしても氣に入らず、馬鹿だと罵り、買物の小錢を盗んだのではないかと疑ひ、横暴の限りを尽くした爲、早いと1日で、長くても精々20日程度でどんな女中も辞めて行きました。女中に逃げられた時は仕方なく自炊もしたと云ひます。胃腸が弱い所爲か、マカロニ、パン、スープ、魚料理、仔牛の肉、牛舌、當時貴重であつた玉子を好んで食べました。特に玉子に對する執着は異常で、鮮度を確かめる爲に光に透かしてみたり、女中にオムレツを10個も作つて並べて吟味したり、料理中の女中の後ろでウロウロしたり、そして氣に入らないと女中の背中に卵を投げ附けて大聲で怒つたと云ふのですから、たまつたものではありません。

 珈琲とワインだけは欠かしたことがなく、夕方には麦酒かワインを飲みながら煙草(晩年は葉巻)を吸ふのがひとつの樂しみであつたやうです。珈琲に關しては自ら豆を一粒一粒数えて、いつもきっちりと同じ數だけ挽いて入れないと氣がすまない拘りもありました。當時は味はひが丸くなると鉛をワインに混入することが多く、ベートーヴェンの難聴も鉛中毒が原因だつたやうです。
 1994(平成6)年、ベ-ト-ヴェンの遺髪8束が競賣に掛けられ、ベ-ト-ヴェンの死因を探る爲遺傳子(DNA)鑑定に出された結果、通常の人の凡そ100倍の鉛が検出されたのでした。お腹をこわして醫者にワインを止められても決して止めなかつたので、ますます鉛中毒が進んでしまつたのでせう。



ベートーヴェンの遺髪


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ベートーヴェンの遺髪


著者:ラッセル マーティン

販売元:白水社

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2006年6月12日 (月)

モオツァルトの好物

 6月號の『レコード藝術』に特別企畫があり、「モオツァルトを食べる」なんて記事がありました。今年は生誕250周年に當たり、特に墺地利は鼻息が荒く、ワイン業界でも盛んに業者向け試飲會を開いてゐます。SP時代のモオツァルトは非常に不遇で、歌劇作家として歌は認められてゐても、交響曲は非常に少なかつたのです。因みに喇叭吹き込み時代の管絃樂のレコード型録を見ると、ベートーヴェンやヨハン・シュトラウスは分厚い頁を割いてゐるのに對して、モオツァルトは何と薄いこと。19世紀に人氣が陰り、20世紀になつてやっと歌から盛り上がつて來たのでせう。

 『レコ藝』にはバター好きであつたことから、當時の焼き菓子(グーゲルフプフ、カルディナール・シュンニッテン)が載つてゐて、好物はチョコレートだとのことです。18世紀のチョコレートはホットで飲むもの(ココア)でした。勿論、非常に高價なものでした。見せ物のやうにして父レオポルトと宮廷巡りをした時は、餘興に招き入れられるだけですから、貴族と同じ食卓に就くことはありません。それでも、流行りもの故、倫敦では口にしたやうです。以前『Campanella』と云ふ雑誌に作曲家と料理に就いて、連載をしたことがありました。料理を再現して寫眞を撮り、關はりに就いて随分と調べたものですから、今週は作曲家の料理に就いて書きませう。

Conti モオツァルトは通常、召使ひたちと一緒に裏方で食べました。身分の違ひは服装だけでなく、食事もかなり差があつたことでせう。軍隊でも一兵卒と士官では未だに別食堂で別メニュです。ルーヴル美術館にオリヴィエ畫の『コンティ公宮殿での茶會』と云ふ油繪が有ります。1766(明和3)年に倫敦、和蘭から歸へる途中、巴里に立ち寄り、コンティ公爵家に招かれ、幼いモオツァルトがチェンバロを彈いてゐる圖柄です。
 左に大きな窓があり、その前でレオポルトが譜面を睨み、コンティ公が椅子にちょこんと腰掛けたモオツァルトの後ろに立つて茶會を見渡し、隣に名歌手ジェリオットがギター伴奏をしてゐます。お客はと云ふと椅子に腰掛けてお喋りに興じ乍らチラリとモオツァルトを見る者、ビュフェの料理を取らうとしてふと耳を峙(そばた)てる者、お皿を持ち乍ら感心して聞き入る者、或ひは酒をねだり、料理に夢中な殿方や、給仕に忙しい召使ひ等が描かれ、優雅なお茶會の様子がよくわかります。

 このコンティ公爵は、かのポムパドゥール夫人とブルゴーニュの葡萄畑の所有権を巡り爭ひ、 8萬ルーヴルと云ふ大枚を叩いて、やっとロマネ村の秀一畑を手に入れました。そこで採れた葡萄から自家用のワインを造らせ門外不出とした爲、コンティ公のワインは此処へ招かれた者しか飲めませんでした。それこそが現在でも垂涎の的「ロマネ・コンティ」なのです。1.8ヘクタールの畑に、作付面積 は1.63ヘクタールしかなく、ピノ・ノワール種だけで、年産凡そ3,700リットル、つまり4,900本。1本(750ml)少なくとも20萬圓以上、當たり年なら50萬圓もします。

 餘興好きなコンティ公爵が幼いモオツァルトにも飲ませたかどうか記録はありません。勸められなければ勝手に飲めない筈ですから、嚴格なレオポルドは、そんな高價なもの要りませんと斷はつたかも知れませんね。



レコード芸術 2006年 06月号 [雑誌]


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レコード芸術 2006年 06月号 [雑誌]


販売元:音楽之友社

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2006年6月 9日 (金)

古典なんかわからない

 平素から歴史的假名遣ひと正字で綴つてゐますから、文語文でも割と平氣で讀めるやうになりました。森鴎外の『獨逸日記』なんか、こてこての漢文讀み下し文ですから、かなり難澁しますが、それでも根氣さへあれば讀めるものです。ほんの100年前の明治の人は、どれだけ漢文の素養があつたのか驚かされます。一番、親しみ易いのは昭和初期の作品です。全然違和感なく讀めますので、「お前はおかしい」と言はれてしまふのでした。

 畫家の安野光雅さんと、『国家の品格』で一躍注目を浴びてゐる藤原正彦さんとの對談集 『世にも美しい日本語入門』 ちくまプリマー新書 の中で、鴎外の『即興詩人』こそ推薦圖書だとありましたが、生憎まだ讀んでゐません。翻譯にも拘はらず、原作よりも優れ、文語體が日本語の良さを存分に表してゐるさうですから、夏休みにでも是非讀んでみたい一冊です。

 その點、橋本治著 『これで古典がよくわかる』 ちくま文庫 は、橋本さんらしい語り口で一緒くたに語られる古文をばっさりと切り、和漢混淆文の誕生を軸に、日本語が生まれ育つた背景や、我々が現在使ふ日本語までの道筋を大まかに示してくれます。

 奈良時代は外國語の漢字でしか、日本語が表記できず、『日本書紀』や『萬葉集』は書かれたのですが、讀み難いので「片假名」の振り假名を附ける工夫をしたのです。橋本氏曰く、「カンニング」ださうです。それに對して、平安時代の貴族の女性達は自分たちだけで日記を回し讀みして平假名を創作したのです。平安時代は一緒に使はれることはなく對立してをり、男は漢字の文章、女は平假名と決まつてゐたのですね。

 そして、初めて男の紀貫之が女の振りをして平假名で『土佐日記』を書いたことは、これは畫期的なことでした。そして國家が作つた和歌集は、自分たちの心の動きを外國語ではなく、日本の女性たちが自ら編み出した「平假名」でこそ描けるものだと考へ、紀くんは平假名で序文を書いてゐます。それをまた時の政府が承認するのが面白いですね。
 女性に戀を語るのに、漢字ぢゃもてないから平假名で書いたと云ふ發想も分かり易く、平假名で書かれた「物語文學」は漫畫だと思へ、と随分飛躍した發想です。『源氏物語』は複雑な少女漫畫なのだと云ふのです。成る程、目のキラキラ光る少女漫畫に親しんでゐないので、理解できないんだと安直に考へても、橋本氏は怒るどころか、「そうだよ」と言つてくれさうです。

 主人公「光源氏」は漫畫なんか勿論、絶對讀みません。格好よくて、モテモテの教養ある人ですから、基本は漢詩や漢文であり、女を口説くのに和歌を詠んでも平假名物語は女の漫畫だと思つてゐるのです。何と分かり易いことでせう!私も小學館發行の週間漫畫誌 『ビックコミック・スピリッツ』 に、連載中の江川達也著 『日露戰爭物語』 は樂しく讀んでゐますが、女性漫畫には全然興味も湧きません。谷崎潤一郎譯の『源氏物語』も全巻揃へて持つてゐても、「桐壺」の途中で幾度となく挫折してゐます。

 そんな調子で橋本氏特有の話し言葉で書かれたこの本は、實は高校生向けに書かれたやうですが、40過ぎのおじさんでも十分納得できるものです。聲に出して古典を讀むとか、競爭原理を導入した「百人一首」を覺へるとか、「へー」と言つて感心しただとか、またひとつ日本の古典、古文が身近になりました。



これで古典がよくわかる


Book

これで古典がよくわかる


著者:橋本 治

販売元:筑摩書房

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独逸日記・小倉日記 ちくま文庫―森鴎外全集〈13〉


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独逸日記・小倉日記 ちくま文庫―森鴎外全集〈13〉


著者:森 鴎外

販売元:筑摩書房

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Book

世にも美しい日本語入門


著者:安野 光雅,藤原 正彦

販売元:筑摩書房

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即興詩人 (上巻) ワイド版岩波文庫 (18)


著者:アンデルセン,森 鴎外

販売元:岩波書店

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即興詩人 (下巻) ワイド版岩波文庫 (19)


著者:アンデルセン,森 鴎外

販売元:岩波書店

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2006年6月 8日 (木)

死の形

 「明日、大地震が來たらどうする」と云ふ會話をよく小學生の頃しました。丁度、小松左京著『日本沈没』が映畫化され、テレビドラマにもなつてゐた頃です。今年再映畫化されるやうで「英語やっときゃよかった」と英會話學校の宣傳と共に放映されてゐます。関東大震災以來、東京には全然大きな地震が來ませんので(30年も前からそろそろと言はれ續けて、今ですから)、どうなりますかねえ。政府は1週間は水道電氣瓦斯(ライフライン)が停止しても生きられるだけの對策は自分で考へろと言つてますが、それぢゃ、その間助けが來ないと云ふ意味なのでせう。高層マンションにお住まひの方はどうするのでせう。もしも昇降機に閉じ込められたら… 考へるのも嫌になりますね。

 さて、「死」に就いて考へたことがありますか。突然そんなことを言ひ出したら、「こいつ頭がおかしくなつた」「病氣になつたのか」「鬱病か」勝手なことを云はれるでせう。人間誰もが一度體驗する筈でも、その後の世界がわからないので、漠然と恐いと思つてゐる筈です。
 挿繪畫家(イラストレーター)の 寄藤文平著 『死にカタログ』 大和書房 は、最も身近な筈で、隠され續けてゐる死を正面から捉へ、多くの挿繪で色々な死に就いて考へさせてくれます。土地や宗教により死の印象が違ひ、統計から何処で死ぬのが一番多いのか、有名人や映畫の中の死を挿繪として澤山見せてくれます。

 山や海より、交差點で交通事故で亡くなる人が多いのは仕方ないかも知れませんが、現在、日本人の8割は病院で、癌により死んでゐると云ふ現實を示されると、たじろがざるを得ません。だから、保險屋の宣傳も不安を煽つてゐるのですね。「癌保險」に入れば死は免れるやうな印象さへ受けますが、決してそんなことはありませんし、入つたからと言つて保障が附くだけで確實に誰もが死ぬのです。

 毎日樂しいことだけで濟めばいいですが、普通に生きている以上、嫌なことも避けられず、それを乘り越えるなり避けるなりして、適當に折り合ひを附けてゐるものです。「明日死んだらどうしよう」と考へて寝られなくなるより、せめて恥ずかしくない人生を送りたいものです。深刻に考へるのではなく、當り前に誰にも起きる死なので、たまには明るく考へてもいいと思ひます。



死にカタログ


Book

死にカタログ


著者:寄藤 文平

販売元:大和書房

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2006年6月 7日 (水)

溢れる感情

 自由に生きることを問ふ不法占拠の若者を描いた『ベルリン物語』、そして壁崩壊後の『新・ベルリン物語』を書き、常に相手を同じ人として捉へ、同じ目線で話すことのできる人、橋口譲二さんに注目してゐました。丁度、橋口さんが伯林に住んでゐた頃、私も前後して伯林で働いてゐましたので、どんな人にも優しい視線を投げかける人なんだと吃驚しました。無人アパートを不法占拠したパンクのお兄ちゃんたちに聲を掛けるなど、普通に生活してゐる者にはとても考へられない行爲でしたが、語り口は淡々としてゐますが、暖かいものに包まれてゐます。ああ、この場所知つてゐると云ふ自分も歩いた街角が出て來るとワクワクしたものです。
 寫眞集『BERLIN』も壁崩壊前の記録寫眞として、廢墟や空き地、練炭の焼ける匂ひ、冬の伯林の空氣が白黒寫眞から強烈な記憶として蘇つて來ます。

 それ以前にも、彼方此方の17歳をそれぞれを描いた寫眞集『17歳』、や暴走族を正面から撮つたものなど、市井の人を撮影して、社會問題を浮かび擧げる名手でした。ふと本屋で橋口作品を見掛けて手に取つたのが、橋口譲二・星野博美著 『対話の教室 あなたは今、どこにいますか?』 平凡社 でした。

 アシスタントとして働いた星野博美さんとの共著ですが、スライドと朗讀と云ふ「スチルムービー」を行ひ、それと同時に參加者が自主的な活動方式で行ふ講習會(ワークショップ)の記録です。それも全く同じ内容を印度と日本で行ひ、參加者たちの反應の違ひが如實に出て來て、副題の通り各々が「あなたは今、どこにいますか?」と問ひ掛け、人間が生きようとする感情を記録してゐます。

 最初このワークショップの意味が解らず、思はず辭書を引いてやっと解つた次第です。恥ずかしい。カタカナに滅法弱いですね。同じ寫眞機と同じ枚數のフヰルムを渡し、好き好きに歩いて撮つて貰ひ、その中で1枚を選び最終的に、參加者全員が1作品を人前で發表するのですが、心に描くこと、考へも全く違ふのですから被寫體も違へば、撮り方も全然違ひ、出鱈目の方向に向かつてゐるやうでゐて、自然と自分の内面と向き合ふのが不思議でした。そして話し合ふことで自分を發見する素晴らしさがあるのです。

 揺れ動く感情のまま、寫眞を撮ることも大事なのですね。旅先には必ず寫眞機を持つて行きますが、結構、格好良く寫るやうに意識し過ぎたり、考へ過ぎて出来上がつてみると詰まらないものばかりのことがあります。餘計な智惠の附いた大人だからこそ、素直に自分の感情を寫眞にぶつけてみたい。今度はいい寫眞になることを期待せずに、どんどん撮つてみませうか。



対話の教室―あなたは今、どこにいますか?


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対話の教室―あなたは今、どこにいますか?


著者:橋口 譲二,星野 博美

販売元:平凡社

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ベルリン物語―Tokyoの次の手がかり


著者:橋口 譲二

販売元:情報センター出版局

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新・ベルリン物語―消えた国境と新しい「壁」〈上〉


著者:橋口 譲二

販売元:情報センター出版局

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新ベルリン物語 下 ― 勝手な時代と彼らの「選択」


著者:橋口 譲二

販売元:情報センター出版局

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2006年6月 6日 (火)

食品添加物

 普段なにげに食べてゐる袋詰め食品は、大量に作る爲安くて氣輕に買ふことができます。6月の『ベルラン通信』でも取り上げたのですが、その分色々な藥材が使はれて、最も廉價で簡單に作る方法が選ばれてゐます。効率優先ですから、安全や健康は二の次です。勿論、法律に則つた食品添加物の使用量以下しか使はれてゐません。併し、所詮は實驗用動物がこの量で死んだので、人間の體重の量にするとこれ位と云ふところで最大使用量が決まつてゐるさうです。

 食品添加物の商社で日本一のセールスを誇つた人が、自分が賣つてゐたものは家族に食べさせたくないものであつたことに気附き、安全な食品に就いて書いた 阿部司著 『食品の裏側』 東洋経済新報社 を讀むと、結構恐ろしい現實に目をやらねばなりません。

 「白い粉」だけでとんこつスープができる事實を知つてからは、袋詰め食品の裏側に記された「内容」を氣にするやうになりました。大手製造業者だから、大きなスーパーマーケットで賣られてゐるから、とそれだけで安心してゐませんか。添加物だけが惡い譯ぢゃありません。昔からある膨らし粉(ベーキングパウダー)やお豆腐に使ふ「ニガリ」なども添加物ですから、全部を否定はしてゐません。現代社會に生きる以上、時間と手間より便利を取る時は結構あるものです。

 朝早く起きて出掛ける時に、暗いうちから起きて辨當を作れとはとてもかみさんに言へるもんぢゃありません。途中、コンビニでサンドヰッチやおにぎりでも買へば、家庭も圓滿です。それと、純米酒でないと本當の酒ではないやうな書き方もされてゐますが、これは明らかに間違ひです。

 酒粕から焼酎を造り、それを醸造用アルコールとして僅かに純米酒に添加すると酒が旨くなると云ふ古式に則つた醸造方法「本醸造」があるからです。確かに、戰時中は目一杯アルコールを添加して増量を圖つたこともあるでせうが、戰後60年、未だに全醸造所がそんな造り方をしてるやうに目の敵にしては氣の毒です。癖が強くて飲み難い純米酒を、炭素濾過して味も香りも失せたにも拘はらず「純米酒」と云ふ表示だけを信じて本物だと稱する方がおかしいのです。大手醸造所は既に米ではなく、糠(ヌカ)からも酒造りをしてゐるのですから、そちらの方がどうかと思ひます。

 昔乍らの方法で造る醤油にしろ、味醂にしろ、皆高いです。新橋の店の近くに德嶋縣と香川縣の物産を賣る店がありますが、此処には色々な「饂飩(ウドン)」があります。高いもの程「小麦粉、塩、水」だけが原料ですが、安いものは「酒精」「増粘多糖材」だとか添加物がどんどん増えて來ます。勿論、安いものほど日持ちもしますが、よくわからない添加物を恐ろしいと感じるのは、きっとこの本を讀んだ方々だけでせう。

 毎日口に入れるものだからこそ、氣を附けたいものです!如何でせうか。




食品の裏側―みんな大好きな食品添加物


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食品の裏側―みんな大好きな食品添加物


著者:安部 司

販売元:東洋経済新報社

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2006年6月 5日 (月)

頭で味はふ

 今週は最近讀んだ本のご紹介でもしませう。仕事柄、食べ物関係や料理の歴史の本や、音樂家の自傳やレコードの歴史、飛行船の本、文語體の本なんかをよく讀みます。他に氣晴らしにミステリーや探偵、それにホラー小説も大好きです。

 「おいしい」とは何か?本來口の中で、舌の器官「味蕾」で得られた情報が腦に送られて、初めておいしさを感じる筈なのですが、現在は食べる前の情報に左右されてゐます。伏木亨著 『人間は脳で食べている』 ちくま新書 には、おいしさを科學で説明しようと云ふ試みがされ、既存學問のひとつでは解明できませんから、幾つかの構成要素に分解して考へてゐます。それが、身近な話題なだけにフムフムと納得することしきりです。

 まづ、「靴のまま寝臺に倒れ込む」「洗面槽に水を溜めて顔を洗ふ」「鍋で下着を洗ふ」「實驗用ビーカーでお茶を飲む」等「清潔」の感じ方は國や地域により違ひ、科學だけでは割り切れない人間くさい要因が色々隠されてゐると、知ることとなります。
 例へば、亞米利加からの牛肉の輸入再開問題にも触れてゐます。日本人はBSE全頭檢査と云ふ事實を基に情緒的安心感を構築してゐる爲、亞米利加流の科學的根拠に基づく略式檢査では、日本人の情緒として傷附くので、消費者は大きな聲で「NO!」を叫ぶのですね。日本人の清淨感は科學では割り切れないものです。
 7月に獨逸の飛行船LZ129「ヒンデンブルク號」の料理を再現するのですが、私の持つてゐる當時のオリヂナルメニュの夕食には、「Porterhouse Steak」と云ふのが出て來ます。これは所謂「Tボーンステーキ」ですから、簡單に再現できるものと思つて肉屋に問ひ合はせたら「BSEの危險部位の背骨附の肉は賣れません」と云ふのです。單に亞米利加産の牛肉に限らず、安全を目指す觀點から國産和牛でもこの状態に、嬉し悲し。

 自分の舌で判斷できないので、表示に頼り切つて食材管理をするしかありません。テレビで氾濫するグルメ番組も、他人の評價を受け入れる下地があるからで、プロが奨める味だとかに弱いのです。まづ、「おいしさ」を4つに分類し、具体的に腦のどの部分で感じてゐるか、を解り易く話してくれます。詳しい内容は是非、お買ひ求めになつて讀まれることを強く薦めます。

 そして最後に、生きるか死ぬかの嚴しい環境と違ひ、現代は快感や刺戟を求めることが優先されて、生命維持とは関係のない方向へ進んでゐると著者は警告してゐます。快樂に齒止めがありませんからね、人類の危機なのかも知れません。



人間は脳で食べている


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人間は脳で食べている


著者:伏木 亨

販売元:筑摩書房

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2006年6月 2日 (金)

《アルチェステ》序曲

 1942(昭和17)年まで、殆どのナチスに関はりのある演奏會は全て斷り續けて來ましたが、いよいよ病欠も通用せず、4月19日、ヒトラー誕生日の前夜祭で〈第9〉を指揮する羽目になりました。そして、演奏直後、宣傳相ゲッベルスが舞臺に驅け寄つた爲、握手させられ、然もその映像が殘されてゐます。只、よく見るとその後、すぐに汚いものに触れたかのやうに手を拭ふ姿まで記録されてゐます。愛想笑ひの下で、どんなに嫌な氣分であつたことか、短い記録映像からもわかります。

 戰前、最後に維納フィルとブラームスの《ハイドン主題による變奏曲》を1943年に録音はしてゐますが、戰爭の激化による爲かSP盤として市販はされませんでした。それ故、前年10月28日に入れたグルックの歌劇《アルチェステ》序曲(Telefunken SK3266)が、戰前最後の録音となりました。この時は、10月25,26,27,28日と伯林フィルの演奏會でこの曲を取り上げてをり、最終日に録音されました。

 勿論、古樂器演奏などない時代ですから、通常の樂器により、大編成で典雅に演奏してゐます。現在のレパートリーには殆ど入らない曲ですが、獨逸の音樂を一人背負つたフルトヴェングラーとしては、ベートーヴェンの前にも立派な音樂家が居たことを示し、率先して紹介したかつたのではないでせうか。愛する祖國獨逸への忠誠心とでも云ふべき心情であつたのかも知れません。當時、獨逸へ殘つた人々に音樂による慰めをどれだけ與へたことでせう。生真面目に演奏する巨匠の姿が思ひ浮かびます。

 戰後の「非ナチ化裁判」で無罪になつたにも拘はらず、戰前戰中を通じてナチスの巧みな宣傳により、ナチス協力者の印象は未だに拭へず、現在でも、巨匠の作品を演奏しようとして抗議を受けることがあるのです。それに比べて、二度も黨員になつたカラヤンの何と世渡りの上手なことか。音樂一筋の不器用な巨匠の演奏は、心に訴へて來るものが、とても大きいと云はざるを得ません。

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2006年6月 1日 (木)

ブルックナーの7番 第2樂章

 ブルックナーの交響曲第7番ホ長調より〈アダージオ〉は、ワーグナーチューバの悲しげな和音で始まります。ゆったりとしたテムポで山を登るが如く上昇音形が續き、頂點を迎へ、また靜かに終はる、私の大好き曲です。初めてフルトヴェングラーのこのSP盤を蓄音機で聽いた時、クナッパーツブッシュの宇宙を感じさせる鼓動に慣れてゐた所爲か、クレッシェンドと共にアッチェルランドしてどんどん早くなる速度の揺れや、針の擦れる音が氣になり、樂しむどころか違和感一杯でした。こんなブルックナーもありか、程度の受け入れ難い解釈でした。

 1941(昭和16)年3月、墺地利のザンクト・アントンでスキーの際、フルトヴェングラーは大怪我をして、17箇所出血し、然も、右腕には神經障害が殘り、8箇月もの間治療とリハビリに専念せねばなりませんでした。墺地利の片田舎で寝てゐると、ラヂオ放送で自分のブルックナーの7番の放送されると聞いたフルトヴェングラーは、繃帶でぐるぐる巻きにも拘はらず、すぐさま、近隣の村々を訪ねて高感度のラヂオ受信機のある家を探しました。そして、普段はダンス音樂を流す店をやっと突き止め、有無を云はさずチャンネルを合はせ、聞き入つたのです。1939(昭和14)年に開發實用化された「マグネットフォン(磁氣テープ)」により、長時間録音が可能となつてゐました。

 演奏が始まると、このテムポでいい、ここはもう少し膨らました方がいい、この歌はせ方ぢゃ駄目だ。いちいち批判し乍ら、この戰時に次回は何時この曲が指揮できるであらう。もっと良い演奏ができるだらうか。色々と思索したに違ひありません。文句を言つてゐた、その場に居合はせた村の人たちも最後には涙を流し聞き入つたさうです。

 そして、指揮活動に復歸した翌年、1942(昭和17)年4月7日、伯林の舊フィルハーモニーホールで録音されました。凄まじいばかりの集中力と、獨逸音樂全てを背負い込んだやうな重い足取りで始まります。慟哭に溢れ、ナチス獨逸政権下の現状、そして將來への不安が如實に現れてゐて、聽く者の心を捉へて離しません。
 ブルックナーがこの2樂章を書き始めた頃、敬愛するワーグナーが危篤だとの知らせを受け、哀悼を込めて書かれたと云はれ、頂點を迎へる邊りで死去の知らせを受けました。それ故、死者の弔ひにも使はれるこの〈アダージオ〉は、皮肉な事にヒトラーが自殺をした1945(昭和20)年4月29日の放送で〈ジークフリートの葬送行進曲〉と共にずっと流されました。フルトヴェングラーは現状の獨逸を嘆き、元通りの獨逸復活を願つて演奏したことでせう。CD復刻版でも、もう聞き流すことのできない背景を知つてしまつた感じです。

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