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2006年6月14日 (水)

大食漢のバッハ

Bach_1 ヨハン・セバスティヤン・バッハ(1685-1750)は就職先の仕事により作曲内容も随分と違ひ、ワイマール時代(1708-17)にはオルガン曲の傑作が多く、ケーテン時代(1717-23)には管弦樂、器樂曲が集中して書かれ、ライプツィヒ時代(1723-50)にはプロテスタントの立場でカンタータを初めとする教會音樂が數多く作曲されました。當代きつての最も優れたオルガニストとしても名を知られたバッハは、特に即興演奏の大家としても有名でした。

 1716(正德15)年4月17日~20日に掛けてバッハはハレを再訪し、聖母教會の大オルガンの改造が完成した爲、ライプツィヒのトマス・カントルのヨハン・クーナウ(1660-1722)とクヴェドリンブルクのカントル、クリスティアン・フリードリヒ・ロレ(1681-1751)と共に試奏に招待されました。3人にはそれぞれ16ターラーの禮金と共に旅費や食事が提供されたことが判つてをり、其の時の祝宴メニューが殘つてゐます。辻靜男著 『料理に「究極」なし』  文春文庫に「バッハの食生活」と題した、素敵な随筆があり、料理家から見た食事に就いて書かれてゐます。この時、3人の音樂家はハレ市當局により手厚く歡迎されました。

 「牛肉の煮込み、鱒のアンチョビ・バターソース添へ、スモークハム、ソーセージとほうれん草、羊のロースト、仔牛のロースト、えんどう豆、馬鈴薯、茹で南瓜、アスパラガス、レタスと赤蕪、揚げ物、檸檬の皮の砂糖漬け、フレッシュ・バター」

 平素簡易な生活に慣れてゐたバッハにとつては、とても豪華な食事に見えたことでせう。後々にもそれが自分の食べた一番の御馳走であつたと語る程でした。獨逸人の食事は今もかなり質素で、朝はパンにハムと珈琲、晝に暖かいもの、例へばソーセージと馬鈴薯、そして夜は火を使はない黒パンにチーズとハム、それにワインか麦酒なんて感じです。1986(昭和61)年に初めて渡獨して、2箇月獨逸語の學校へ通つたのですが、或る晩大家が「Abendessen」に招待してくれました。「夕飯」なので、さぞかし御馳走が出るものと、期待してきちんとネクタイを締め、背廣を着て出掛け、こちらは會話に四苦八苦し乍らも、黒パンに載せられたハムやチーズの前菜の後にどんな素敵な料理が出て來るものかと、ワクワクしました。ところが、1時間たつてもそのままで、何も出て來ず、結局それでお仕舞ひでした。獨逸の夕飯がどんなものか、知つてゐれば過度な期待はしかなつたのですがねえ。獨逸の夕飯と云ふと、空腹で寝られなかつた晩を思ひ出します。

 さて、ロレは自分の老齢を考へて食事も飲み物も控えめに取り、クーナウは飲食どちらも當然とされる限度を超えないやうに氣を附けましたが、31歳のバッハはそんなことには丸切り頓着せずに、口に合ふものを好きなだけ、弟子にも分け與へず平らげ、大いにワインも飲み干したと傳へられてゐます。そして美食が絶倫な精力源となつたのか、2人の奥さんとの間に20人もの子供を殘しました。併し、大食から來る肥滿(肖像畫からも伺へます)は健康にも影響し、高血壓で糖尿病だつた可能性が高いと云はれてゐます。

 料理が一人前ずつ切り分けて盛られ、一皿ずつ出されるやうになる(露西亞式の給仕)のは、佛蘭西でも19世紀半ばを過ぎだ頃ですから、この頃はまだ一時に澤山の御馳走が所狭しと食卓の上に並べられ、前菜やデザートの區別もなく、肉も魚も全部一緒くたにナイフ一つで手掴みで食べたのです。立食ではありませんから、基本的に自分の手の届く範囲ものしか口にできませんが、もしかすると、バッハは弟子に卓子の反對側まで取りにやらせたかも知れませんね。現在の我々から見れば、熱いも冷たいもなく、随分と野蛮な印象を受けますが、さぞかし豪快な食事だつたことでせう。



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料理に「究極」なし


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