« 大食漢のバッハ | トップページ | グルメなロッシーニ »

2006年6月15日 (木)

庶民派ブラームス

Brahms 自由都市ハンブルクの貧民窟に育つたヨハネス・ブラームス(1833-1897)は家族愛に支へられましたが、家計を助ける爲に13歳にして酒場で演奏して生活費を稼がねばなりませんでした。ご覧の通り、青年時代は亞麻色の長い髪に、碧眼のイケメンですが、やや背が低かつたことを氣にして貫禄を附けようと努力し過ぎたのか、後年は肥滿體、髭面、むさ苦しいおじさんになつて仕舞ひました。

 18歳で名の知られたピアニストになりますが、何と言つても20歳の時シューマンに『音樂新報』の中で「新しい道」と紹介されたことが大きく、この恩を忘れることなく、未亡人になつてもクララ・シューマンとその子供たちに大いに愛情を注いでゐます。當然、クララ自らの手による料理を樂しんだことでせうが、洋琴演奏家と知られたクララが料理の作り方を殘した譯ではないので、何が好きであつたかわかりません。

 若い頃は鉛の兵隊を随分集めたやうです。今で云ふとプラモデルやフィギュアと云ふ奴です。彩色を施し、大將から騎兵隊、歩兵まで澤山持つてゐて、シューマンの子供達に自慢の兵隊で閲兵式を披露したやうです。他に趣味としては作曲家の手書き総譜や直筆原稿の蒐集がありました。これらは没後、遺言通り維納樂友協會に遺贈され、モオツァルトやベートーヴェン等の貴重な譜面の數々が散逸せずに殘つてゐます。

Rotigel 酒好き故肝臓癌で亡くなりましたが、美食家ではなく、生涯獨身を通した爲、維納の庶民派レストラン「赤い針鼠」に入り浸つたことが知られてゐます。それ故、こんな漫畫も殘されてゐる譯です。葉巻を噴かし、足取りも輕く「赤い針鼠」へ向かふご機嫌なブラームスが描かれてゐます。街中で出遇うへば、たちどころに「嗚呼、ブラームスだ」と判る位有名であつた筈ですが、煌びやかな生活よりは庶民的な生活を好みました。
 此処は既に廢業して在りませんので、詳しいことは判りません。以前、維納のブラームス博物館に問ひ合はせところ、肉団子入りの澄まし汁(コンソメ)、維納風カツレツ、洪牙利風グーラーシュのやうな現在でも食べられるごく普通の維納料理を食べたことだらうとの返事でした。もしも、ブラームスが日本人だとしたら、近所の定食屋へ通ひ、さしづめ鯖の味噌煮定食やカレーラーイスにハンバーガー等を食べたことでせう。

 家族思ひで知られたブラームスですが、 彼の父親は貧乏生活に甘んじて息子の施しを決して受け入れませんでした。それでもブラームスは「音樂は大きな慰めを與へてくれるものです。ヘンデルのオラトリオ《サウル》の譜面を置いて行きますから、困つた時には樂譜を手に取つてみて下さい」と言つて総譜を置いて行きました。幾年かして、さすがに貧乏生活に耐えられなくなり、ふと息子の言葉を思ひ出した父親は《サウル》の譜面を開きました。すると、各頁毎に紙幣が挟み込んであつたと云ふのです。さりげない心配りのできる人だつたのでせう、さすがです。

 苦勞を重ねた所爲か、大金を手にしても贅澤とは無縁で、着る物に金も掛けず、葉巻で穴の空いた上着やちんちくりんのズボンでも全く氣にせず、お腹いっぱいになればそれで滿足したのでせうね。當時の流行作曲家のヨハン・シュトラウスとも仲が良い割に、抜けるやうな青空を感じさせる曲はなく、どんよりとした曇り空を思はせる北獨逸の心象風景や、深い憂いや惱みを打ち明けるやうな大人向けの曲を書いたブラームス。普段はのほほんと暮らしたのでせう。

|

« 大食漢のバッハ | トップページ | グルメなロッシーニ »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。