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2006年7月 3日 (月)

レコードのはじめ

 何しろ1950年代初頭には生産が中止されてしまつたSP盤のことですから、生産、販賣に携はつてた方々は鬼籍に入り、詳しく知る人が少ないので、殆ど手探り状態です。ましてご年配の方々でも、國内プレス盤しか集めてゐなかつた人が多く、外國プレスは高くて手が出なかつた話しもよく耳にします。

 1907(明治40)年に「日米蓄音機製造株式會社」が創立されて、翌年に工場が建設され、亞米利加から2機のプレス機を導入し、更に翌年漸く國産レコードの生産が開始されました。この會社は「日本蓄音機商會」と名を變へ、後に「日本コロムビア」となつてゐます。それまでは、密室の吹込室はピストルで武装した警備員により嚴重に警戒され、外國人技師が立ち會ひ、原盤は本國へ持ち歸へられて、やっと出來上がつた製品が日本に送られると云ふものでした。特許料、輸送費も莫迦にならずたいへん高額商品となつてしまひ、多くの産業スパイが技術を盗まうとしてゐたことでせう。亞米利加から機械を輸入しただけでは、當然すぐに製品化できません。まだ、日本人で機械を扱つたことがなかつたからです。それ故、會社設立から製品化までだいぶ時間が掛かつたやうです。技師湯地敬吾が見様見真似で始めた吹込みと製品化。随分苦勞したことでせう。

 當時は日露戰爭後の不景氣で、俗に月給9圓では「飯も九圓(クエン)」と云はれく嚴しい時代でした。デフレが續き、多くの蓄音機店が倒産、唯一「天賞堂」と「十字屋」だけが生き長らへました。1909(明治42)年の廣告を見ると、義太夫、浪花節、長唄、小唄、筑前琵琶、薩摩琵琶に唱歌等が吹き込まれてゐます。例へば《勸進帳》は片面盤11枚。1枚1圓50錢!庶民が買へる値段ではありません。勿論、流行に左右される程の力はなく、レコードの購買層、即ち中産階級以上の趣味がそのまま出てゐます。明治年間の総發賣枚数は凡そ250萬枚と結構賣れたのですね。

 西洋音樂にどっぷり浸かつた私には、20世紀初頭の歐米レコード型録を見ても曲を知つてゐるものが多いのですが、この當時日本の人々が聽いてゐた曲はとんと馴染みがありません。確かに、幾度か耳にしたことはありますが、鼻歌にもなりません。歐米型世界標準の曲を知つてゐても、自國の曲を知らないのは恥ずかしい限りです。
 大正時代に吹き込まれたこのレコードは、作曲者プッチーニにも賞賛された、日本を代表する歌姫三浦環の《蝶々夫人》です。雑音も酷く、古めかしい歌ひ方ですが、孤軍奮闘した三浦の魂を感じます。極東の富士山、藝者の印象そのままの時代ですから、《蝶々夫人》の舞臺では苦勞も多かつたとか。今でも妙な演出が多い中、見たこともない日本を表現するのですから、その上で演技、發聲はたいへんだつたことでせう。

Niponophon 「なんたってストコフスキー」と云ふHPにある「明治から戦前までの蓄音機広告(3)」を見ますと、1917(大正6)年7月の日本蓄音機商會の廣告を載せてゐます。
 大佛様も聽き入る程で「面白くないと云ふ者は只の一つもない」と豪語して、義太夫、講談、長唄、常磐津と人氣の曲が連なり、ニッポノホン「鷲印レコード」が「定價1圓50錢の半値段賣り出し」と書かれてゐます。それぢゃあ、いったい定價は何なのでせう。

 蓄音機の方は朝顔型(25號)が25圓、1912(明治45)年には「ニッポノラ」が定價60圓となつてゐますが、値引き合戰が激しかつたやうですから、この金額で賣られたのかどうかわかりません。今週は古~いレコードに就いてです。

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