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2006年8月31日 (木)

邊疆伯歌劇場

Bopera リヒャルトが此処に祝祭劇場を建てる切掛になつたのは、勿論、バイエルン國王ルートヴィヒ二世の土地提供もさること乍ら、此の町に元々綺麗なバロック様式の歌劇場が在り、いたく氣に入つたからでした。自分の樂劇を上演するには手狭でしたから、新たに祝祭劇場を建設したのです。バイロイトが最も輝いた時代(1735-1763)に建てられたこの邊疆伯(へんきょうはく)歌劇場は當時の領主フリードリヒとその妻、ヴィルヘルミナ(プロイセンの啓蒙君主フリードリヒ大王の妹)のものです。ご覧の通り、フラッシュを使はず夜設定で寫しても、ごてごてと金色に輝く装飾が見る者を壓倒します。

Bopera2 この邊疆泊(Markgraf)と云ふのは、貴族の概念のない我々には全く馴染みのない稱號ですが、貴族の位のひとつです。日本の戰前の爵位は基本的に明治維新で活躍したか、元大名に限られてゐたので全く違ひます。歐州では、始めフランク王國で國境附近のに防衛上不可欠な軍事地區(Mark)の指揮官の名稱として使はれました。異民族と接し危險地域ですから、他の地方長官よりも廣大な領域と大きな権限が與へられ、一般の地方長官である伯爵(Graf)よりも高い地位となつてゐました。
 特に、獨逸や墺地利は中央の目の届かない地方の方が豐かとなり、墺地利邊疆伯が墺地利大公國となり、ブランデンブルク邊疆伯はプロイセン公國と同君連合してのちにプロイセン王國となつてゐます。ですから田舎とは云へ、富と財力のある地方豪族だと思つて頂けるといいと思ひます。

Derring 丁度劇場では、バイロイト音樂祭130周年記念の一環なのでせう、特別展覧會が開かれてをりました。模型で辿る樂劇《ニーベルングの指輪》1876~2000年と云ふもので、入場料を拂ふと英語か獨逸語のガイド機を渡され、首から提げ、提示されてゐる番號を入力すると説明が流れるので、耳に當てて聞きます。正確には何を言つてゐるのか解りませんが、飾られてゐるものを見乍ら、演目と人の名前、それに年號さへ聞き取れればだいたいのことが判ります。劇場の廊下を螺旋状に登るやうにして、踊り場や待合ひ場所に展示され、初演時のライン河の中を表現するに苦勞したことがヴィデオ上映や、當時の装置や衣裳と共に、各時代の演出が模型により解り易く展示してありました。特に幕の張られた劇場舞臺部分には中央部にヴォータンの戰後衣裳が並び、凡そ100年間の模型も内側を向いて圓形に並べられてゐるので、同じ場面が全く違ふ演出になつてゐることもよく判りました。音樂祭に合はせて街を訪れたワーグナー・ファンには堪らない企畫でした。

 森と浪漫の獨逸色の濃いものが、ナチスの時代を經て、主義資金不足から凝つた装置が使へず簡素の舞臺となつた戰後バイロイト様式の1950,60年代となり、パトリス・シェローの資本主義を諷刺したものや、核戰爭後を思はせるハリー・クプファーのもの等非常に興味深いものでした。今年の演出はどのやうに評價されるのでせう。

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2006年8月30日 (水)

リスト館

Liszt ヴァンフリート館の横路地を進むとフランツ・リスト臨終の地が「リスト博物館」になつてゐます。肺病のショパンは巴里のサロン、金持ちの誰かの家で淑女をうっとりさせたのに對して、「洋琴の魔術師」と呼ばれたリストは金髪で長身、然もロンゲのイケメン、ガンガン彈き捲るタイプでした。と云ふのもリストは手が大きく、初見で彈きこなすだけの高度な演奏技術もあり、當時のアイドルとしてど派手な印象です。失神者が續出したと云ふのはあながち嘘ではないのでせう。近頃、うちの娘たちは從姉妹の影響で、すっかりジャニーズ事務所所屬の若人の虜になつてゐますからね。
 リストの作曲した洋琴曲は技巧を凝らしたものが多く、非常に難しいですから、もしも、素人でリストが彈けるなんて人が居たら相當腕のある人だとわかります。さう云ふ人に限つて自慢しないものなのですよね。

 そんなリストがバイロイト滯在中、ヴァンフリート館の客人にもなりました。ご存知の通り、リヒャルトの二度目の妻コージマはリストの娘です。數々の浮き名を流したリストが、マリー・ダグー伯爵夫人と逃避生活を送る内にできた子です。その後、別れて樂界に復歸してヴァイマールの宮廷樂長としてリヒャルトの歌劇を初演したり、リヒャルトのよき理解者の一人となりました。新しもの好きな人であつたのでせう。そして晩年は若い頃の生活を改め僧籍に入り、神父の格好で過ごすだけでなく、基督教的な作品も多く殘してゐます。

 リストの不倫癖を引き繼いだコージマが、リヒャルトにこれまたぞっこん惚れ込んでで、前夫でリヒャルトの弟子、ハンス・フォン・ビューローを捨てて先生とくっついてしまつたのも何とも因果な話しです。併し、リヒャルトとコージマの息子ジークフリートは性格温厚で人望の厚い人でしたのが唯一の救いです。リヒャルト亡き後、維納の音樂界の蔭の支配者として、またリヒャルトの遺志をあまねく知れ亘らせる爲、バイロイトの主人として活躍しました。

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2006年8月29日 (火)

ヴァンフリート

 宇宙暦794年、帝國暦485年の3月、イゼルローン回廊、ヴァンフリート星域に於いて對峙した帝國軍、3萬2700隻餘と同盟軍、2萬8900隻餘の戰闘は混戰を極め、瓦斯状惑星ヴァンフリート4の衛星、ヴァンフリート4=2の北半球で地上戰となる。ラインハルト・フォン・ミューゼル准將は、同盟軍レセブレッゼ中將を捕虜にした功績により18歳にして少將に昇進したのであつた。

 これは田中芳樹著『銀河英雄傳説』全10巻と外傳4巻の宇宙歌劇(スペースオペラ)に出て來る戰ひなのですが、後に改名してローエングラム姓を名乘るラインハルトと同盟軍の知將ヤンとの戰ひを銀河系宇宙を舞臺に描いたものです。實はこれにはアニメショーンがあり、これまた本編110話と外傳も映像化され、重たいクラシックが存分に使はれ、然も獨逸人のやうな貴族の名前がふんだんに出て來るので嵌ります。今ではDVD化されて、レンタルできますのでまだ見たことのない方は是非!DVD全集が20萬圓位したので、真劍に購入を惱んだもののかみさんにあっさり却下されましたが、有料衛星放送で本編が連續上映されていちいちヴィデオに撮つて見たものです。旗艦「ブリュンヒルト」、ラインハルトの輔佐役ジークフリートだとか、ワーグナー関聯の名前がわんさく出て來ます。それに人物の描き方、戰爭の空しさ、アニメも莫迦にできませんよ。

Whall 前置きが長くなりましたら、バイロイトに在る現ワーグナー博物館は「ヴァンフリート館」と云つて、ワーグナーが生前住んでゐた屋敷です。樂劇《ジークフリート》の中に出てえ來る「さすらひ人」から來てをり、どうやら田中さんは此処から名前を拝借したらしいので、18年前に訪ねた時とはまた違つた感慨がありました。戰中爆撃に遭ひ、焼け落ちてゐますが、綺麗に再建され、奥にホールが在り、中央吹き抜けも赤い壁も鮮やかに、リヒャルトの遺志が漲つた建物です。
 リヒャルト本人の藏書の數々、舞臺の映像、衣裳、縁の人々の寫眞や繪が飾られ、歴史と現在の音樂祭が繋がつてゐると感じられます。バルコニーから中庭を見ますと、大きな噴水の向かうにリヒャルトの墓所が佇み、ワーグナーの聖地となつてをります。

Wmittel 吹き抜けにも當時の洋琴(ピアノ)が置かれ、傳記映畫の中では此処で歌合はせを行つてゐました。伯林で世話になつた友人は地下鐵7番沿ひに住んでゐますが、途中「リヒャルト・ワーグナー廣場」と云ふ驛が在り、プラットフォームの壁には樂劇の場面が描いてあります。此処にもワーグナー、あすこにもワーグナーと云ふ感じで自ら選んで足を運んでゐるとは云へ、彼方此方の足跡を訪ねると、氣分はすっかり「ワグネリアン(ワーグナー愛好者)」です。 
 高校時代からLPレコードで全曲ものを聽いてゐたとは云へ、音樂祭に集まる紳士淑女は親の代から、或ひは何十年と現地で聽いてゐる強者ばかりですので、うっかり批評も口にできません。



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2006年8月28日 (月)

バイロイト

Bstadtplan バイロイト音樂祭へ行くと云つても音樂好きでないと判りません。「へっ?ベイルート」と切り替へされた時には絶句しましたが、BayreuthとBeyrouthと横文字で綴るとかなり似てゐます。まだイスラエル軍とヒズボラの戰爭中でしたが、單に旅行でBとyが附いて最後がthの町で… とうろ覺へのやうでしたから、仕方ありませんね。

 さて、この街はバイエルン州北部、オーバー・フランケン地方に位置した人口74,000人の田舎町です。但し、ワーグナーの聖地としてこの音樂祭の時期は世界中からワーグナーファンがやって來ます。歌劇場、ヴァンフリート館、リスト館、お城、祝祭劇場と歩いて回つても、1日で充分見られます。と云ふか他に見る所がありません。驛から南に緩やかな坂を下り、小川を渡ると舊市街です。主だつた商店街は歩行者専用道路(但し路線バスは通ります)で歩き易く、百貨店から靴屋、本屋、飲食店、洋服屋等並び便利です。街外れには近年ショッピング・センターが出來ましたので、そこも市民の憩ひの場所と云ふ感じです。祝祭劇場へは逆に驛から北へ坂を上ります。初めて訪れる方にはバスにも乘れて、入場券も割引な3日間有効のカードを利用すると便利でせう。

Richard さぞかし、モオツァルト一色のザルツブルクのやうなのかと思ひきや、商店の窓にはワーグナーの胸像や樂劇の一場面が飾つてあるものの、お土産屋が溢れてゐる譯ではないのでやや肩透かしを食らひます。實はこれはリヒャルト・ワーグナーの遺志で音樂祭に便乘して土産ものを賣るのはけしからんと云ふ譯でした。このリヒャルトの遺志と云ふのが特に重要で、街には彼の理念がしっかりと根附いてゐるのでした。
 祝祭劇場の回りは丁度公園になつてをり、オペラの始まる時刻に街の人が乳母車を押して散歩してゐたり、街の生活に溶け込んでゐる感じです。

Knapars そして樂劇縁の名の附いた通りも澤山在ります。例へば舞臺神聖祝典劇《パルジファル》と1951(昭和26)年の戰後再開からずっとこの《パルジファル》を擔つた指揮者ハンス・クナッパーツブッシュの名が附いた、ふたつの通りの交差點。兩者をよく知るものには感慨深いものがあります。伯林にもフルトヴェングラー通りやブラームス通りがあり、移り住んで地圖上で見附けて同じやうに道路標識を撮りに行きました。

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2006年8月25日 (金)

ギロス

Gyros 獨逸へ來ると必ず一回は食べに行くのが、希臘(ギリシア)料理屋です。日本では羊肉に人氣がない所爲か見掛けませんが、地續きの歐州では本場さ乍らの料理が頂けます。土耳古の「ケバブ」とそっくりな「ギロス」が、安くてお腹一杯になり、私は好きです。サラダ附きなら申し分ないのですが、それは店により違ひます。ケバブと同じやうな串刺しの羊肉を焼き、表面を刻んだものです。羊肉が嫌ひなら豚肉も用意されてをり、生の辛い玉葱が上に散らしてあり、大抵ご飯が添へられ、同じく塩辛いチーズ(フェタ)のソースです。一緒に麦酒でも飲めば一皿で滿腹になることでせう。今は圓安ユーロ高なので、別にサラダを頼み、飲物込みで凡そ2800圓です。

 獨逸へ來た當初、獨逸語の學校に通つたのですが、その時に知つたのがこの味でした。それまでご飯黨でしたから、毎日馬鈴薯とパンだけの生活で、すっかり頭の中は「ご飯が食べたい」で埋まつてしまひました。今は現地のものを食べるのが好きですから困りませんが、20代前半の頃は「飯」を食べねば元氣が出ない状態でした。そんな折りに伊太利人の女の子に誘はれて行つたのが希臘料理屋でした。このギロスにはご飯が附いてゐましたから、どんな調理法だらうとご飯に變はりなく同じ滿腹感が得られ、週に一度は通ふ程嵌りました。
 それと中華料理もご飯が附くので好きです。獨逸では前菜に「春巻き」、主菜に「鴨のフライ 廣東風」をよく食べました。メインを頼むだけで白いご飯が附くのが嬉しかつたものです。おかずが冷めないやうに鐵板の上に載せらせて、温かい皿で食べる中華にも慣れ、國により随分違ふことを知りました。但し、獨逸で麺類はお止めになつた方がいいでせう。生麺が手に入りませんので、縮れた即席麺を使ふことが多く、然も焼きソバですと肉の方が多いと云ふ状態。麺好きな方ならきっと許せない味だと思ひます。

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2006年8月24日 (木)

ケバブ

 獨逸のお手頃な立ち喰ひと云へば、ブラート・ヴルスト(焼き腸詰め)でせう。300圓程度でたっぷりゼンフ(芥子)を載せ、パンも附くので小腹の空いた時に最適です。伯林ではクリー・ヴルスト・ミット・ポメスが名物です。焼き腸詰めをぶつ切りにして、ケチャップを掛けカレー粉(ターメリック)を振り、ポテト・フライを添へたものです。カレーと發音すると、絶對に通じません!クリーと言ふと理解して貰へます。750圓位でせうか。日本の立ち喰ひ蕎麦の笊(ざる)蕎麦がブラート・ヴルストだとすれば、クリー・ヴルストは天麩羅蕎麦と云ふ感じで一寸豪華です。

Kebab そして忘れてはならないのが、土耳古人の經營するイムビス(立ち喰ひ屋)の主力商品「ケバブ」でせう。こちらは薄切りにした羊肉を重ねて串刺しにし天火で焙つて焼けた表面を削り、土耳古のパンに刻んだ野菜(キャベツとか紫玉葱)と共に挟み、塩味のヨーグルトかチーズのソースを掛けて頬張ります。これも300圓位で、野菜も入つて釣り合ひの取れた榮養食品です。
 昔の西伯林のクロイツベルク地區は土耳古人街として有名で、「ケバブ」の名店もありました。その近くへ行くだけで、コーランが流れ、イスタンブールのやうな感じです。そこで、ケバブを頬張つてゐたら、いきなり土耳古人の男の子に土耳古語で話し掛けられで唖然としました。確かに髭の濃い方々が多いにしても、私は日本人ですから、「獨逸語なら解るけど、土耳古語は解らない」と言ふと、相手も吃驚し乍ら獨逸語で道を訊き直して來たのです。そんなに土耳古人に見えますかねえ。

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2006年8月23日 (水)

ブランデンブルク門

Btor 壁の在る頃は東西冷戰の最前線として象徴的に語られて來た「ブランデンブルク門」ですが、今まで下を歩いたことがなく、今回やっと實現しました。17年前に壁に登つたことが嘘のやうです。觀光客に溢れかえり、只の歴史的建造物になり下がった感じもしないでもありません。

 昔の伯林の城門であり、西のブランデンブルク地方に面してゐるのでこの名が附いてゐます。「白虎門」と云ふ感じでせうか。此処から東にウンター・デン・リンデン通りが始まり、王宮へと向かふ凱旋門でもあります。それ故、普佛戰爭や國家社會主義獨逸勞働者黨(ナチス)の鉤十字の旗めく印象が強いのも否めません。巴里の凱旋門も觀光客で賑はつてはゐますが、兵士の爲の火が點る戰爭色の強いもので、佛蘭西の象徴的な意味も持たされてゐますね。

Berlinolympic レニ・リーフェンシュタールの映畫〈意思の勝利〉は日本でのDVDの發賣はありませんが、簡單にネットで手に入れることができます。これは1934(昭和9)年にニュルンベルクで行はれたナチス全國黨大會の記録映畫なので、ブランデンブルク門と直接関係ありませんが、綺麗に揃ひ過ぎた行進が此処でも行はれてゐたことでせう。彼女は1936(昭和11)年の夏期オリムピックを記録した映畫〈オリムピア〉を撮り、絶賛されてゐます(戰後は逆に否定され續けました)。先月「ヒンデンブルク號」のことで調べてゐたとは云へ、歴史の舞臺に立つと色々考へさせられるものです。

 東西冷戰の頃の西伯林には獨逸の國旗が掲げられてゐることなど見たことありませんでしたが、今回は、矢鱈と、どの路地でも少なくとも1本は目にしました。窓やバルコニーに差してあるだけですが、以前では考へられないことでした。蹴球世界杯(ワールドカップ)の主催國として、自信を附けたからでせう。二度も戰爭を始めた國として、戰後は一環してナチスを否定する教育を續け、イスラエルに援助をし、ずっと低姿勢で來た獨逸人が、國際試合を開催し、多くの外國人を歡迎して受け入れたことにより、獨逸の印象は劇的によくなつだけでなく、人々は國の誇りを取り戻した筈です。伯林の街角でそれを感じました。




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2006年8月22日 (火)

伯林

Kdw 伯林でまづ一番先に行きたかつたのは巨大百貨店「KaDeWe(Kaufhaus des Westens)」でした。戰前は歐州一の賣場面積を誇つた西側(死語?)の大きなデパートです。畫像右奥にヴィルヘルム皇帝記念き教會が、戰爭の痛手の記憶を殘す形でそのままにされてゐます。此処が西伯林の中心でした。「カーデーヴェー」は大好きなヴィッテンベルク廣場に面してゐるので、地下鐵を利用して建物に入るなり吃驚。18年前とは改装されて賣場の雰圍氣が全く違ひます。
 以前は同じ商品がずらりと並んで選ぶのに困る程でしたが、今度は製造會社別に箱貸しのやうです。それ故、同じメーカーのものの中で探すのならいいのでせうが、同じ商品を見比べるには各メーカー毎にずずっと歩かねばなりません。臺所用品の値引き商品や伯林土産を買ふだけで早々に退散。賣り子さんもメーカー派遣なのでせうが、知つてゐたものが無くなるのは寂しい氣もします。

Tnadeln 隣のノーレンドルフ廣場近く、シューマッハーさんの蓄音機屋「Grammophon Salon」にも顔を出しました。店頭に「博物館ではありません。全て商品です」と書かれた張り紙が増えてました。たまに出物がありますが、今回は店主が居らず、店員さんが懇切丁寧に對應してくれました。どの分野の音樂が好きか尋ね、それではこの棚に有りますからと、前のレコードの箱をずらし、腰掛ける場所まで作つて「どうぞ、ごゆっくり」。途中、「郵便屋を呼ぶので店番してゐて下さい」と15分位居なくなつたり、のんびりしたものです。殘念乍ら大きな収穫はありませんでした。それでも、幾枚か手に入れ、競賣で落札して友人宅に送つて貰つたものとをまとめて梱包し、郵送しました。競賣でテレフンケン社の針が見附かつたのが幸運でした。エボナイトの圓形の箱に入り、黒く鈍色に光るこの鉛筆のやうな形のものは、溝にしっかりと嵌るので音の再現力が俄然違ひ、臨場感が増すのです。やっと100本程度なので滅多に掛けられませんが、5本しかなかつたことを考へればまづまづでせう。日本ではどうしても手に入らないものがあるものです。

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2006年8月21日 (月)

獨逸

 お陰様で有意義な休みが取れました。今回はバイロイト音樂祭に行くのが目的でしたから、普段なら有名店でも食事(仕事柄偵察?)もしますが、今回はそれもなく伯林も友人宅に泊めて貰ひ、極力出費は抑へての獨逸行きでした。

Klm 往復KLM和蘭航空の爲、アムステルダム乘り換へです。三等客席は昨年利用した新西蘭航空(NZ)や正月に利用した新嘉坡航空(SN)よりかなり見劣りするものでがっかりでした。安さだけで利用したのですから、文句を言つてはいけないのかも知れませんが、前の席との間隔もJAL並で、非常に狭く、快適さは全くありません。

 太平洋航路のやうな、前に足を掛けるところがなく、前座席にモニターもなく、映畫も選べず、食事が酷くて閉口しました。又乘りたいとは決して思ひません。パスタか肉のチョイスでしたが、パスタはクノールか何処かのレトルトを温める形そのままでした。途中夜食としてアイスクリームかカップヌードルと云ふのにもショックを受けました。如何に効率よくするかだけを考へてゐる感じがして、氣持ちがいいものではありません。それに、メニュも配られませんでしたから。

 久々の獨逸で、伯林子の早口に暫く耳が慣れませんでしたが、その内に「何処で獨逸語習つたの」と訊かれる程、回復して日常會話も戻り、忘れてた表現とか口に出るやうになりました。聞けば思ひ出すやうな「?(ハテナ印)」を何と言ふのか忘れてたり(Fragezeichen)、いつも乍らの珍事は結構ありました。

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2006年8月 7日 (月)

夏休み

Bayreuth ベルランは營業中ですが、藤森は只今獨逸でバイロイト音楽祭へ來てゐます。それ故、更新も儘なりませんので、20日(日)までお休み致します。

ベルランの夏期休暇は8月12日(土)~16日(水)

17日(木)から通常營業に合はせて、私も出社致しますが、ブログは21日(月)より再開豫定です。

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2006年8月 4日 (金)

大型飛行船の最期

Hb2 1937(昭和12)年に入り、最初の北米飛行が5月3日からプルス船長、アドヴァイザーとしてレーマン社長も乘り込み、建造途中の新しい飛行船LZ130「新ツェッペリン伯號」の練習乘組員も含め乘員61名、乘客36名を載せてフランクフルトを20時15分に飛び立ちました。途中ケルンで郵便物を投下し、和蘭上空から英佛海峡を抜けて大西洋へ出ますが、低氣壓を迂回し、強い偏西風のお陰で珍しく遅延してゐました。

 5月6日の午後2時になつてやっと紐育上空を通過、ブルックリンのエベット球場上空を過ぎる頃にはブルックリン・ドヂャースとピッツバーグ・パイレーツの試合の真直中でしたが、觀客に空が見えるやうに試合は一時中斷しました。

 ニュージャージー州上空は極めて不安定な状態で雷雲が發生してゐるとの連絡が入ります。乘客には早めにお茶が振る舞はれ、午後四時、ヒンデンブルク號はレイクハースト海軍飛行場の上まで來たものの積亂雲を避ける爲一旦船を南のアトランティック・シティ方面に向けました。午後5時12分無線連絡が「雷雨ハ飛行場上空ヲ東ニ移動中」と入り、まだ時間が掛りさうだと判斷した船長の機轉で乘客にはサンドヰッチが配られました。

 5時22分、地上のローゼンダール司令官から「スグ着陸サレタシ」の無線を受け、飛行場に向きを變へると、地上では92人の海軍軍人、139人の民間人、繋留塔へも係員6名が配置に着き着陸の準備が完了します。6時4分、高度170米、南側の柵を越へ、着陸地點を越えてゆっくり時計とは逆回りに旋回し、15秒間瓦斯を放出し、バラストの水を捨てて高度を下げ、更に船尾が重い爲船首の瓦斯を放出して、非番の乘員を船首へ呼びました。6時21分、繋留塔の手前、地上60米にピタリと靜止、巻かれたロープが落とされ着々と着陸態勢が整ひます。併し、6時25分、突然船尾からボンと云ふ音と共に赤い炎が上がり、瞬く間に廣がり、二度目の爆發で船尾から落下し炎上しました。

 この大惨事はニュース・フヰルムと實況中繼をしてゐたシカゴ・ラヂオのアナウンサー、ハーバート・モリソンにより記録され、繰り返し放映されて來ました。この事故により乘客13名、乘員22名、地上員1名の尊ひ命が失はれましたが、97名の内62名が無事救出されてゐます。地上が砂地で飛び降りても平氣であつたことや、着地してから逃げ出せた人、水素の爆發でできた水を被つたり、偶然條件が重なつた人は助かつた模様です。
 16粍のこのニュース・フヰルムも蒐集してをり、一緒にモリスンの未開封LPレコードと共に寫眞を撮らうとしたことがありました。ところが、このふたつを一緒にした途端頭が痛くなり、死者の出た微妙な問題なので止めました。もしかして、LPの未開封なのもそれが原因?それ故、プレイヤーもないですし、開かずのLPのままです。

 事故原因は長い間不明とされて來ましたが、近年、米國航空宇宙局(NASA)の元研究員アジソン・ベインの獨自研究により出火原因が船體外皮塗料にあると解明されました。酸化鐵と粉末アルミニウムの塗料は實は燃え易く、雷雨により溜まつた靜電氣の火花(スパーク)でも火災が起きることが判りました。「ツェ伯號」には塗られてゐなかつたので、こちらは一度も事故を起こさず天寿を全うしてゐます。「火花説」は既に當時の事故原因研究にもありましたが、ナチス政府は威信を懸けた巨大飛行船の原因として公表せず、謎のままとしたやうです。

Youkosod また、この事故により巨大飛行船は息の根を止められた格好となり、それ以降小型のものしか開發されてゐません。併し、ツエッペリン社は21世紀を迎へるのに際しヘリウムを使ひ、全長七三米の小型飛行船を新造し、現在日本上空でも見ることができます。この一二人乘り最新設備を整へた「ツェッペリンNT(新技術)型」は、主に廣告飛行に使はれてゐます。

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2006年8月 3日 (木)

1936年の音樂

 日本では軍國主義が高揚され、軍歌が流れる中で民衆には渡邊はま子〈ああそれなのに〉や、美ち奴〈うちの女房にゃ髭がある〉等に人氣がありました。6月に入り〈東京ラプソディ〉が藤山一郎の明るい歌聲で發賣されると瞬く間に流行り出しました。
 風薫る5月、古賀政男は愛用のフォードで神宮外苑を運轉し乍ら、樂想を深めたと云はれてゐます。中山晋平の〈東京行進曲〉を念頭に、カサド作曲のマンドリン合奏曲〈西班牙の花〉の旋律を一部使ひ、昭和のモダン都市「東京」を謳歌する健康的な歌は、戰前最後のものでした。

Chaliapin この年には佛蘭西の提琴家、ジャック・ティボーが1928(昭和3)年以來、二度目の來日を果たし、露西亞の名バス歌手、フィヨードル・シャリアピン(左圖)も來日してゐます。日比谷公會堂での獨唱會では自分の持ち歌を印刷した紙を配り、お客の好みに合はせて歌ふと云ふ粋な計らひが人氣を博しました。併し、齒槽膿漏が酷くて好物の肉料理が食べられず困つてゐると聞いた、宿泊先の帝國ホテル、グリル料理長、筒井福夫が玉葱に漬け込んで柔らかくした「シャリアピン・ステーキ」を考案し、ここに名物料理が生まれました。

 歐州ではナチスに悉く反撥し、ナチス主催の演奏會で棒を振りたがらない指揮者フルトヴェングラーはこの年の秋冬の演奏會期にヒトラーの了解を得て、ツアーを含め指揮活動を中斷し作曲に専念しました。但し、一曲《アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク(小夜曲)》Polydor 67156/58 のみ録音してゐます。

 伯林を追はれた猶太人指揮者ワルターは維納國立歌劇場に落ち着き、束の間の蜜月を過ごし、和蘭ではメンゲルベルクがアムステルダム・コンセルトヘボウ管絃樂團を振つてゐます。反ナチスを旗印に掲げるトスカニーニは元氣に紐育フィルを振つてをり、ザルツブルク音樂祭はまだナチ色がなかつたので參加しました。

 蘇聯ではショスタコーヴィチの《ムツェンスクのマクベス夫人》が蘇聯共産黨中央委員會機關紙『プラウダ』に酷評され、交響曲第5番の作曲に着手、洪牙利ではバルトークが《絃樂器、打樂器とチェレスタの爲の音樂》を作曲してゐます。

 水曜日の會では、この大好きな《東京ラプソディー》Teichiku 245A、フェルカーの歌ふ《グラール聖杯物語》Telefunken Bayreuth SKB 02049、レーマンの歌ふ〈ヴェーゼンドンクの歌〉より《夢》Odeon RO 20100B、シュルスヌスの歌ふ《宵星の歌》Grammophon 35023B、そしてロスヴェンゲが獨逸語で歌ふ「イナバウアー」ぢゃなくて《誰も寝てはならぬ》Grammophon 10447B を食後に掛けました。

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2006年8月 2日 (水)

優雅な食事

Hdining1 1911(明治44)年の「シュヴァーベン號」にはキャビアやフォア・グラのテリーヌのやうな冷製食材やシャムパーニュが積まれてをり、1928(昭和3)年の「ツェ伯號」には温かい料理を調理する爲の厨房と専任コックが配置され、快適な空の旅を演出する重要な要素として食事が扱はれてゐました。

 更に「ヒンデンブルク號」ではオーヴンの數も増え、毎朝焼きたてのロールパンが供され、晝食にはスープまたは前菜、肉料理、デザートの三皿が出され、夕食にはスープ、前菜または魚料理、肉料理、チーズ(デザートなし)を樂しむことができました。

Hbsp2_1 淡い乳白色の厚紙で、開くと毎日、船内でタイプ打ちされた晝食と夕食が一頁に印刷されてゐます。1936(昭和11)年8月21日のオリヂナル献立表の晝食はコンソメ 細切りパンケーキの浮實、印度風チキン カレー味に御飯、豌豆添へ、苺 生クリーム添へ、珈琲。夕食はオクラのスープ、瑞典(スウェーデン)風玉子パン、ポーターハウス・ステーキ、シュヴェッツィンガー産ホワイトアスパラガス、馬鈴薯、アリーセ風サラダ、チーズの盛り合はせとなつてゐます。初めこの料理を再現するつもりでしたが、ポーターハウス・ステーキ(Tボーンステーキ)の材料、牛の背骨附肉がBSE(牛海綿状腦症)により手に入らず諦めたことは以前お傳へしました。

Hdining2 飲物は別紙に有り、ワインは11種、獨逸のモーゼルやラインの白ワイン9種、ボルドーとブルゴーニュの赤ワイン各一種、獨逸發泡酒(ゼクト)が4種、ミネラルウォーターも3種あり、それぞれ瓶の註文となりました。他に辛口シェリーにポートワイン、ヴェルモット酒、他にスコッチ・ウヰスキー、ブランデー、ラム、キルシュヴァッサー、ベネディクティンの強い酒もグラスで用意され、亞米利加で流行してゐる最新のカクテル、マティーニやマンハッタンも出されました。

 Bデッキのバーへ行けば直接カクテルの註文もでき、こちらにはまた専用のメニューがありました。バー奥の回轉式二重扉の向かうの喫煙室(右圖)で煙草が吸へるのも今までの火氣嚴禁の飛行船と大きな違ひです。但し、有事にはこの喫煙室だけ落下させる仕組みになつてゐたことをお客は知りません。

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2006年8月 1日 (火)

船内

Hlounge ヒンデンブルク號船内全體は電燈により明るく、真珠色の麻壁、モダンな調度は飽くまで清潔で、食堂には初期飛行船の繪が、サロンには世界地圖と海洋航路が描かれてゐました。

 客室乘務主任はハインリヒ・クービスは既に第一次世界大戰前の「ザクセン號」から飛行船乘務を勤め始め、「ツェ伯號」の世界一周の際には日本にも寄港した經驗豐かなサービスマンでした。その他六人の客室乘務員、子供の世話や婦人の髪結ひを擔當する乘務員が一人居り、二四時間體制で郵便の世話や紙幣の換算、靴磨きまで、きめ細かなサービスをしました。

Hkueche1 厨房はフリードリヒスハーフェン一のホテル・クアガルテンで修行した一流コック4人が、火を使はない電氣式のオーヴンや電熱器により調理し、昇降機で真上のAデッキへ上げられました。専任の給仕は一人だけでしたが、食事時には客室乘務員も手傳ひ、優雅な時間が過ごせたのです。

 船長以下高級船員(オフィサー)、一般乗務員(クルー)、機械員17人、機關員4人、整備員3人、電氣員3人、電氣技師、操舵員、昇降員、航空士等、50人前後の乘務員が働いてゐました。

Landung 16の氣嚢を水素瓦斯で滿たすと、236噸の重量が揚げられます。最大1200馬力を誇るダイムラー社製16氣筒V型エンヂンDB602型(LOF6)四機は水平に動かすだけで、上昇は水素の力で、下降は、瓦斯をやや抜き地上員200人が力を合はせて引っ張りました。船體とエンジンを差し引いてもまだ20噸以上が載せられるのは、飛行機と違つて大きな強みでした。また、最速であることから「航空郵便」も欠かせぬ存在です。

南米航路3日間の爲の食料積載物を見てみますと、
 肉類・ソーセージ    600瓩(キロ)
 バター          200瓩
 野菜           600瓩
 馬鈴薯         500瓩
 珈琲           25瓩
 紅茶            6瓩
 パン、菓子用小麦粉  80瓩
 葡萄酒、麦酒、水瓶 250本

Innen 乘務員にお願ひさへすれば、船内を見學することも可能でした。船の肋骨部分に當たるリングは最船尾からの距離を表すメーター數により番號が振られ、ツェッペリン社員は習慣で船内の位置をリングの數で表してゐました。船の底部に沿ふ主通路の「リング0」が最船尾となり、最船首は「リング246.7」となります。船客が普段過ごす部分は「リング173」から「リング188」の間でした。
 この主通路脇には、燃料タンク、貯水タンクを始め乘務員室、倉庫等が兩脇に並んでをり、浮遊力に餘裕のあるヒンデンブルク號は自動車や犬を乗客と共に運ぶこともありました。


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