邊疆伯歌劇場
リヒャルトが此処に祝祭劇場を建てる切掛になつたのは、勿論、バイエルン國王ルートヴィヒ二世の土地提供もさること乍ら、此の町に元々綺麗なバロック様式の歌劇場が在り、いたく氣に入つたからでした。自分の樂劇を上演するには手狭でしたから、新たに祝祭劇場を建設したのです。バイロイトが最も輝いた時代(1735-1763)に建てられたこの邊疆伯(へんきょうはく)歌劇場は當時の領主フリードリヒとその妻、ヴィルヘルミナ(プロイセンの啓蒙君主フリードリヒ大王の妹)のものです。ご覧の通り、フラッシュを使はず夜設定で寫しても、ごてごてと金色に輝く装飾が見る者を壓倒します。
この邊疆泊(Markgraf)と云ふのは、貴族の概念のない我々には全く馴染みのない稱號ですが、貴族の位のひとつです。日本の戰前の爵位は基本的に明治維新で活躍したか、元大名に限られてゐたので全く違ひます。歐州では、始めフランク王國で國境附近のに防衛上不可欠な軍事地區(Mark)の指揮官の名稱として使はれました。異民族と接し危險地域ですから、他の地方長官よりも廣大な領域と大きな権限が與へられ、一般の地方長官である伯爵(Graf)よりも高い地位となつてゐました。
特に、獨逸や墺地利は中央の目の届かない地方の方が豐かとなり、墺地利邊疆伯が墺地利大公國となり、ブランデンブルク邊疆伯はプロイセン公國と同君連合してのちにプロイセン王國となつてゐます。ですから田舎とは云へ、富と財力のある地方豪族だと思つて頂けるといいと思ひます。
丁度劇場では、バイロイト音樂祭130周年記念の一環なのでせう、特別展覧會が開かれてをりました。模型で辿る樂劇《ニーベルングの指輪》1876~2000年と云ふもので、入場料を拂ふと英語か獨逸語のガイド機を渡され、首から提げ、提示されてゐる番號を入力すると説明が流れるので、耳に當てて聞きます。正確には何を言つてゐるのか解りませんが、飾られてゐるものを見乍ら、演目と人の名前、それに年號さへ聞き取れればだいたいのことが判ります。劇場の廊下を螺旋状に登るやうにして、踊り場や待合ひ場所に展示され、初演時のライン河の中を表現するに苦勞したことがヴィデオ上映や、當時の装置や衣裳と共に、各時代の演出が模型により解り易く展示してありました。特に幕の張られた劇場舞臺部分には中央部にヴォータンの戰後衣裳が並び、凡そ100年間の模型も内側を向いて圓形に並べられてゐるので、同じ場面が全く違ふ演出になつてゐることもよく判りました。音樂祭に合はせて街を訪れたワーグナー・ファンには堪らない企畫でした。
森と浪漫の獨逸色の濃いものが、ナチスの時代を經て、主義資金不足から凝つた装置が使へず簡素の舞臺となつた戰後バイロイト様式の1950,60年代となり、パトリス・シェローの資本主義を諷刺したものや、核戰爭後を思はせるハリー・クプファーのもの等非常に興味深いものでした。今年の演出はどのやうに評價されるのでせう。
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