« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »

2006年10月31日 (火)

トリュフ市

Dh000123 アルバの町では毎年、10月の日曜日トリュフ市が開かれてゐます。天幕(テント)入り口前には、著名人のにこやかな顔が並んでゐました。右からソフィア・ローレン、ドナルド・デパルデュ、アラン・ドロン等、大きな白トリュフの塊を手にして皆滿足げな顔です。かう云ふ粋な計らひは好きです。もしも、日本で松茸市場が開かれて、松茸を手にしてニッコリ笑ふ世界的著名人たちの顔が見られたら最高でせう。尤も、松茸を手にした女優さんがにっこりすると變に勘ぐられるといけませんから、駄目な企畫ですね。

Dh000126 中に入るには1ユーロの入場料が必要です。グラス附きですと確か5ユーロでしたが、各出店でワインの試飲ができます。奥まった所は簡易食堂となり、トリュフ入りパスタが様々な地元ワインと共に食べられる仕組みです。そこを通り過ぎた邊りからトリュフ屋さんが軒を並べてゐます。コの字の外側に業者が、通路を挟んだ内側にはトリュフを採つて來た人が直接出店してゐる模様です。1個30ユーロ程度から、最高2000ユーロまで様々です。硝子箱に入り、警備員の居る所は別ですが、交渉を始めると蓋を取り、薫りを嗅がせてくれ、グラム數を量り、値段が決まるやうです。生トリュフは旅行者には不必要ですから、我々は見るだけですが、今晩のおかずとしようとする人、或ひは持つて歸へる人々の目は真劍です。

Dh000128 アルバの町は交通規制されて殆どお祭り状態ですから、飲食店しか開いてゐません。ふと廣場で記念碑を發見。見事に白トリュフの薄切りと鉋が表現されてゐました。皆これを見て微笑むこと。意匠の國なのですね。

| | コメント (0)

2006年10月30日 (月)

白トリュフ

Dh000060 今回の旅行は旬の「白トリュフ」を食べるのが目的でしたから、4日目にトリノ郊外へ食べに出掛けました。前々日にシェフから、お前たちの爲だけに白トリュフを買ふのだが、幾らまでなら買つていいのか、電話がありました。毎日、相場が變動し價格は時價故、註文も簡單に行きません。シェフは市場ではなく、直接掘り出す人から買ふので、當然市價より安いものの、天候により出来榮えが變はり、3週間前の雨が大事とのこと。我々は献立の総額を決めてゐましたので、豫算内でお願ひし、一片になるか、山盛りになるか當日來てのお樂しみでした。
 一皿目は牛肉の叩きに白トリュフ掛けです。アルバ近郊では名物料理なのでせう、他の卓子でも同じものを註文してゐますが、トリュフが載つてゐません。我々だけの密かな優越感を味はへました。赤身の牛肉だけなのですが、旨味があり、塩胡椒にオリーヴ油だけの單純な味附けが素材を引き立たせ、トリュフの薫りも強烈な個性として自己主張してゐます。薄く削いでますから、味は殆どなく薫りの爲だけに此処に存在してゐます。

Dh000062_1 白トリュフは特に薫りが大事ですから、生のまま専用の鉋(カンナ)で薄く切り、料理の上に掛けるのが一般的です。然も、地元特産、細打ち手打ち麺タヤリンによく合ひます。動物的な野趣溢れる薫りです。畫像は添附できても、薫りがお届けできないのが殘念です。この店は丘の上のラ・モッラ(La Morra)村から下る途中に在る爲、テラス席からはランゲ地方の村々が見渡せ、収穫の終はつた葡萄畑が見渡せます。この2皿に附き出しとデザートが附いて日本圓にして12,000圓一寸。勿論合はせたワインは地元のバルベーラとバルバレスコ。今しか味はへないと思ふと、値段は関係ありません。
 

| | コメント (0)

2006年10月27日 (金)

ポルトフィーノ

Dh000078 ジョノヴァから東へ數粁行つたところに、隠れた保養地として有名なポルトフィーノ(Portofino)が在ります。小さな入り江で大型自動車が入つて來られず、通常船で行きます。そんな邊鄙な所ですが、丘の上に超高級リゾート「ホテル・スプレンディド(Hotel Splendido)」が在り、此処は著名人たちが喧噪を離れて休暇を過ごした爲、有名になりました。1901(明治34)年に別荘からホテルに變はつたものの、王侯貴族だけに限られ、一般客にも開放された1952(昭和27)年にはウヰンザー公夫妻、翌年にはクラーク・ゲーブル、1960年代にはエリザベス・テーラー&リチャード・バートン夫妻等が泊まり、最近ではビリー・ジョエル、スティング、スティーブン・スピルバーグ、デンゼル・ワシントン、ビル・ゲイツ等が滯在したのだとか。そもそも戰後、ベネツィアのリド嶋が俗化し、それを嫌つた上流階級の方々が移つたのだとか。庶民とは懸け離れた世界が其処には在るのでせう。

Dh000076 我々はサンタ・マリゲリータ・リグレ(Santa Margherita Ligre)の港から船で15分程で着きました。丁度、沖合ひに停泊してゐる豪華客船からも客人たちが専用短艇で訪れ、元は漁師の家も有名装身具屋や寶石屋となり、小さなリストランテに大きな聲の米語や外國語が響きます。面積2粁平方、人口529人。パステル調の色合ひの家々が並び何だか張りボテの作りモノのやうです。ふと、浦安のディズニーシーを思ひ浮かべてゐました。無意識の内に擦り込まれた印象が、本物を凌駕してたのです。それだけ偽物が精巧であつたのでせうが、悲しい事實です。半日過ごす筈が、2時間で切り上げてしまひました。

| | コメント (0)

2006年10月26日 (木)

ジェノヴァのカフェ

 ピエモンテ州の南、リグーリア州の州都ジェノヴァは歐州屈指の港街として知られてゐます。コロンブスの生まれた町でもあり、ジェノヴァは海に沿つて凡そ30粁續き、伊太利最大の港としてコンテナ船や豪華客船が泊まり、水族館も有名です。萬博が開かれる以前のジェノヴァは古い建物と細い路地に坂道が多く、實は魔窟とも云へる程危險な町でした。今では歩いて恐ろしいと感じることはありません。トリノに比べると港街の所爲か、商業地として發展しただけ開かれた、明るい印象です。

Dh000066 我々は先を急ぐこともなかつたのですが、カフェに立ち寄るだけで、さっさと宿泊先へ移動してしまひました。但し、此処のカフェはどうしても行きたかったところです。サンタ・アガタに邸宅を建てたヴェルディでしたが、熱効率計算を間違へたらしく、暖房設備が役立なかつたので、冬の間はこのジェノヴァに住んで、愛人をつくり、或るカフェに入り浸つたのだとか。ですから、そのカフェでヴェルディと同じやうに一杯珈琲を頂かうと、裏路地を探して歩き回りました。

Dh000063 「グランクティカフェ」は迷路のやうな路地を歩いてやっと見附けた下町情緒溢れる小さな店でした。外から見ただけでは、只の何の變哲もないカフェです。バーがあつて、80セントだかで珈琲を立ち飲みして、トイレを借り、よく見るとケーキ棚の後ろにヴェルディの繪が掛けてありました。それでやっと由緒がわかると云ふもの。地元の人なんか、これっぽちも氣に掛けてゐない様子です。そりゃあさうでうせう、毎日行くところがたまたま作曲家縁のカフェであつたと云ふだけなのですから。

 もとは船乘りが長い航海に持ち込んだ焼菓子やマロン・グラッセ等、夏はジェラートもあるやうです。ヴェルディも食べたのかなあ、と考へるだけでも樂しいと云ふもの。きっと立ち飲みではなく、奧の席に座ったのでせうねえ。

| | コメント (0)

2006年10月25日 (水)

トリノのカフェ

 トリノの街を彩るものにカフェが擧げられます。佛蘭西や墺地利との関はりを持つトリノのカフェは、その多くが19世紀に誕生してゐます。國家統一運動のカヴール伯爵の愛したカフェも數々殘つてゐます。

Dh000037 その中でもコンソラータ廣場(Piazza della Consolata)に面した14世紀の鐘樓の足下に在る1763(寶暦13)年創業の小さなカフェ「アル・ビチェリン(Al Bicerin)」は特に有名です。秋冬のトリノ名物「アル・ビチェリン」の發祥の地として知られてゐるからです。珈琲、ホット・チョコレート、牛乳またはホイップ・クリームを溶かした飲物です。店により微妙に違ひはありますが、畫像は「カフェ・トリノ(Caffè Torino)」のものです。一番下にホット・チョコレート、その上に珈琲、そして泡立てた牛乳が三層となり、一番下が甘いので混ぜずに飲む時はガバッと口に入れないと後で困ります。以前は砂糖壺にグラニュー糖が入つてをりましたが、テロを警戒してか、毒物混入を防ぐ爲か、今では全て袋入り砂糖になつたさうです。
 この「カフェ・トリノ」はサン・カルロ廣場(Piazza San Carlo)に面した柱廊奧に在り、歩道に埋め込まれた真鍮の牛を靴の底で擦ると幸運が訪れると云はれてゐます。踏み繪のやうにして歩いてみませう。
 日本にも入つて來てゐる私のお氣に入り「ラヴァッツァ(Lavazza)」は、サン・トマーゾ・ディエチ(San Tommaso 10)で、1890年代に珈琲豆の焙煎を始めたとのことです。
 
 カフェで一番安いのは立ち飲みです。この場合、レジで先に會計を濟ませてから、バー内に居る店員バリスタ(barista)にレシートを渡して飲みたいものを傳へます。店内、外のテラスも實は値段が違ひます。ゆっくり話すなら店奧で、テラスは往來の景色を眺められるだけでなく、代金を踏み倒される危險があるからか、バーから遠いからか一番高いやうです。テラスでは品物が來た時にすぐ支拂ふと、會計が樂です。さうでないと、さあ立ち去らうと思つて會計をお願ひしても、「すぐに(subito)!」と言はれた切り、なかなか係の人が來ず10分は待たされます。日本人なら奧の人がイライラさせられるでせう。「そんなに急ぐのなら立ち飲むにしろ!」と言はれるかも知れません。我々とは感覺が違ひますから、注意が必要です。カフェは優雅な一時を過ごすおつもりで…

| | コメント (0)

2006年10月24日 (火)

映畫博物館

Dh000034 トリノで一番目立つ「モーレ・アントネッリアーナ(Mole Antonelliana)」は167米の高さを誇る、トリノを象徴的する尖塔です。1863(文久3)年着工當初は猶太教のシナゴークの筈でしたが、資金難から頓挫し、完成前にトリノ市に譲渡されて1889(明治22)年に完成しました。そして何に使はれてゐたかは知りませんが、2000(平成12)年に改装されて、映畫博物館(Museo nazionale del cinema)に生まれ變はり、歐州一の集客力を誇る映畫博物館になりました。

 映畫好きとしては、トリノの自由時間にまづ此処を目指し、ストライキで止まった市電やバスを横目にテクテク歩きです。今年はモオツァルトの年でもありますが、ルキノ・ヴィスコンティ監督生誕100周年記念でもあり、大きな垂れ幕が特別展示を知らせてゐます。
 入り口で展望臺昇降機と博物館共通切符を買ひ、地上階から真っ先に高い所へ昇ります。この昇降機は硝子張りで然も外側に囲ひがなく、只太い起重機用針金(ワイヤー)に引ッ張られるだけなので、支柱のない圓蓋(ドーム)部分の真ん中をスイーっと上がつて行く、とても恐ろしいものです。よく云へば、意匠(デザイン)が非常に近代的(モダン)で、フリッツ・ラング監督映畫《メトロポリス》をふと思ひ出させるやうな感じです。上に昇ると、煉瓦色の屋根が連なる市内や王宮、ポー河から遠くの山々まで見渡せて氣持ちのいいものです。

Dh000033 そして、一旦下へ下りて階段を上がると、先程昇降機が突き抜けた圓蓋部分が大廣間となつてをり、そこで寝椅子に横になり乍ら名畫の數場面が見られます。お疲れの方は此処でずっと横になり、半分居眠りして鋭氣を養つてゐました。映畫封切り當時のポスターが壓巻で、《雨月物語》、《羅生門》等ヴェネチア國際映畫祭で授賞した日本作品や《俘虜(邦題:戰場のメリー・クリスマス)》、北野武作品のポスターも有りました。それが、伊太利語なので雰圍氣が全然違ひます。《スター・ウォーズ》にしても、ハリウッド映畫に見えて來ません。随所に工夫が凝らされ、飽きず、全體として伊太利映畫の良さを感じて欲しいと云ふ制作側の意圖も傳はつて來ます。

Dh000031 順繰り見られるやうに大きな螺旋のカーブが巡らされ、そこが丁度ヴィスコンティ回顧展になつてをり、名場面の大きな寫眞(スチール)が年代順に飾られてゐます。初期の白黒映畫には見てゐないものもありますが、原題と邦題が違ふものには一瞬戸惑つたり、初めて見る撮影風景畫や、よく知る1齣(コマ)等に感心し、こちらの記憶を辿る作業も樂しく、お勸めです。
 日本でも11月初めまで代表作《山猫》《ルートヴィヒ》《イノセント》が新宿のテアトル・タイムズスクエアで上映されてゐます。186分、240分、129分の長いものですから、通し狂言ではないので、一日で全部見ようと思はないで下さい。

| | コメント (0)

2006年10月23日 (月)

オルタ湖

 さて、今週から「北西伊太利紀行」の報告を致しませう。思ひ出すままに行つた先々のことを書いてみます。

 マルペンサ空港到着後、早速み向かつたのはオルタ湖畔の村、ペタネスコに在るホテル・ジャルディネットです。ここのマダムがピエモンテ州觀光誘致で以前日本に來た際、會議終了後、たまたま父が方向が一緒であつたことから、晝食に誘ひ、それからのご縁と云ふ知り合ひのホテルです。以前來た時に比べ、各部屋は改装され、最新式を通り越した意匠(デザイン)の凝つたモダンな水道栓や蛇口に四苦八苦しました。大きな浴槽にはシャワーの爲の硝子扉が一枚附き、外へ撥ねるの防ぐ筈でしたが隙間があり危うく水浸しに。使ひ勝手より意匠先行しがちな伊太利です。
 その上、朝晩冷え込むのできちんと毛布を掛けて寝たのに寒くて幾度も目が覺めました。緩やかな暖房が夜中に切られたのか、何故だかとても寒くて、重ね着をしたり、外套を掛けたりして、朝起きると、何と窓が開いてゐたのです。カーテンで隠れ閉まつてゐるものと確認しかなつた自分が惡いのですが、うっかりには氣を附けませう。掃除後、新鮮な空氣に入れ替える爲開けて閉めないことが多いと後で聞きました。

Dh000014 伊太利はまだ夏時間を採用してをり、7時になつてやつと明るくなります。湖側の部屋のヴェランダに出ると、真下は湖水で黒い大きな魚は悠々と泳いでゐました。以前は公害で臭くなり工場排水對策をして重金屬は減つたものの、長期間に蓄積された大量のアンモニアがバクテリアにより酸性化し、1985(昭和60)年前後にはpH値3,8~4.3の恐ろしく高い酸性を示しました。それから湖水を中和する爲、石灰を巻いて、現在のやうに工業化以前の水質を恢復したさうです。

 オルタ湖は湖水地方の中でも小さく、南北に凡そ10粁、幅2粁で「緑に包まれた小さな寶石」とも呼ばれてゐます。そこが惡臭漂ふ湖であつたとは想像もできません。湖の中程にサン・ジュリオ嶋が浮かび、多くの觀光客が棧橋から船で渡ります。美しい修道院を見學するさうですが、我々は湖畔に聳ゆる標高401米のサクロ・モンテ(聖なる山)を訪ねました。此処のレストランで料理教室を我々の爲に開いてくれるからです。世界遺産に指定された20もの禮拝堂が點在し、聖フランシスコ(加州の港町桑港と同じ)の生涯を描いた木彫り像が鎮座して、順繰りに訪ねられるやうになつてゐます。此処から眺める景觀は絶景です。

| | コメント (0)

2006年10月20日 (金)

山科

 義太夫節の中でも大曲とされる第9段「山科閑居の段」。師直に賄賂を送り、刃傷に際して判官を抱き止めた爲、逆に由良助以下の者に恨まれてしまふ加古川本藏。然も、娘小浪は由良助嫡男、力彌の許嫁であつた。作者たち(三好松洛、並木千柳、二世竹本出雲)は、ひとつの事件を切掛に下々の者の運命を狂はす程を劇的な本にしてゐます。本藏の妻、戸無瀬と由良助の妻、お石、敵(カタキ)同士となった母と姑、本藏の父として武士としての身の処し方、由良助の思慮、愛し合ふ小浪と力彌。物語は一擧に頂點へと達します。

 現在、京都山科には大石内藏助を祀つた大石神社が在ります。此処には由緒ある品も納められてゐますが、その中に確か内藏助の手紙が殘つてゐました。もう30年位前だかに、行つた記憶しかありませんが、弊社の『今朝百年史』に記録してあります。その中に、京都山科で機の熟すの待つて隠遁生活をしてゐた大石内藏助は、元禄14(1701)年に、江戸に居る堀部彌兵衛の元に、近江の黄牛(アメウシ)を送つたことが書かれてゐました。

  前文御容赦可。然方(サルカタ)より到來に任せ進上いたし候彦根の黄牛の味噌漬。養老品故、
 其許(ソコモト)に御重疊(チヨウデウ)と存じ候。
  倅主税などまいらせ候ては反(カエ)つて惡しかるべし。大笑大笑
  十三日
                                               大石内藏助
  堀部彌兵衛殿
 
 當時の牛肉はく藥食ひと稱して、密かに流通してゐました。勿論、唯一の産地彦根藩に強力なコネがあるか、お殿様からの下がり物以外まづ手に入らない貴重品です。それを内藏助が手に入れたので、江戸で頑張るご老體に滋養の高い貴重なく藥として送つたのでせう。

 「山科閑居の段」では、逆勝手と呼ばれる家の出入り口が上手に來る珍しいものでもあります。雪持ちの竹を使つて雨戸を外す工夫を見せる演出でもあり、後半の見所でせう。文樂では「高家討ち入りの段」りは省略されて、最後は11段目「花水橋引揚の段」となります。そこがまたしっとりとした感慨を殘すことになりませう。 

 史實と比べて行くと、芝居と違ひ腑に落ちないことも多いものです。松の廊下の刃傷事件にしても、殿中で刀を抜くことは死罪を免れないのは解り切つてゐた筈なのに、わざわざ京都から勅使の來たハレの日を選んだものか。この邊りのことを詳しく調べてゐるHPを見附けたのでそちらをご覧ください。


| | コメント (0)

2006年10月19日 (木)

一力茶屋

 京都祇園の昔乍らの犬矢來(イヌヤライ:犬よけ)のある町屋が連なる家並みが觀光客には旅情を誘ひますが、その代表が四条花見小路角に立つ「一力」でせうか。此処で大星由良助は遊興に耽り、仇討ちの素振りも見せず、敵の目を欺きます(第7段 祇園一力茶屋の段)。
 さて、この茶屋ですが上方ではただの食事処ではなく、客の爲に藝者や遊女を呼んで遊ばせた家を指しました。そして、藝者や遊女は管理してゐる置屋(オキヤ)にお願ひしなければ、差し向けて貰へません。この仕組みは今も變はらず續いてをり、藝者に直接お願ひすることはできません。聞くところによれば、藝者をお座敷に呼ぶだけで、一人10萬圓の覺悟は必要です。勿論、そんな甲斐性もなければ、お座敷遊びも知りませんので、行つたこともありませんが、是非一度は行つてみたいものです。ベルランのお客さんに神樂坂の本物の藝者さんがいらっしゃいまして、何時でもお待ちしてをりますと聲を掛けてくれてはゐますが…

 由良助はこの一力を貸切同然で遊び呆けてゐるのですが、一體どこからその金が出たのでせう。これは不思議でなりません。以前、歌舞伎では吉衛門演ずる由良助を觀たことがありますが、何とも酔つた千鳥足や臺詞回しが粋で、さすが役者が違ふと感心しました歌舞伎では1場面構成なのですが、文樂では玄関先、座敷、二階座敷と分けて變化を附け、鹽谷家中、元足輕の寺岡平右衛門は大夫も同じ柄の肩衣で、然も下手に假床(カリユカ)を造りそこで謡ひ、登場する人形も多い分、華やかで立体的な舞臺です。

 また、由良助が息子力彌の届けた顔世御前からの書状を讀むのに、敵方に寝返つた斧九太夫は床下から、遊女となつた勘平の妻おかるは二階から鏡で盗み見るスパイ行爲も面白くしてゐます。只、草書の手紙を2階の手鏡に寫つたもので理解できるのかどうか、大いに疑問も殘りますが、これは飽くまで人形芝居ですから、氣にしてはいけません。

 老舗料亭は今も「一見さんお斷り」として、客にもそれなりの品格を要求してゐますが、由良助はどうだつたのでせう。遊蕩三昧と云ふのですから、拂ひもよく、さぞ氣持ちの良い客であつたことでせう。

| | コメント (2)

2006年10月18日 (水)

通さん場

 《假名手本忠臣藏》の大事な場面では必ず自殺があります。第4段「鹽谷判官切腹の段」、第6段「早野勘平腹切の段」、それに第9段「山科閑居の段」では娘の結婚の爲、忠義の爲に自ら刃に掛かる加古川本藏と、命を懸ける人々を描いてゐます。第4段と第6段では、「切腹」と「腹切り」と同じ割腹自決でも呼び名が違ひます。「切腹」はこの場合、武士に科した死罪であり、検死役の前で、作法に則り儀式として自ら腹を切り、本來は介錯人が首を斬り落とすものです。出血多量で死ぬまでかなりの時間があり悶絶する爲、痛みを和らげるやうに首を落とすのだとか。逆に「腹切り」は自分で責任を取る形で自發的に自害することです。

 鹽谷判官は殿中で刃傷事件を起こし、トドメを刺す前に加古川本藏に後ろから抱き止められた爲、高師直殺害には至りませんでしたが、領地没収、切腹を言ひ渡されてしまひます。大名の切腹故、品格が必要で、緊迫感のある舞臺の爲、開演後は「通さん場」として客の出入りを一切禁じてゐます。ヘンデルの聖譚曲(オラトリオ)《救世主(メサイア)》の〈ハレルヤコーラス〉で觀客は故事に習つて立つて聽くとか、ワーグナーの舞臺神聖祝典劇《パルジファル》第1幕の後拍手をしないとか、知る人ぞ知る約束事は結構あるものです。

 今回の公演では竹本住大夫(重要無形文化財保持者)の語りで、それはそれは情緒豐かに、判官の無念、上使の横暴さ、顔世御前のすすり泣き、國元より驅け附けた大星由良助の決意を演じ分け、聲色の妙を表してくれました。文樂では、段ごとに太棹の三味線と太夫は背景の屏風ごと、ぐるりと一回轉して人が代はります。また、「トザイ、ト~ザイ」の呼び出しの後、大夫は始める前に臺本を拝むやうに頭の上に掲げ、終はるとまた掲げて、本に敬意を示すのでせうか。見てゐても気持ちの良いものです。聲高に話すのはお殿様、惡役は低音で、オペラの主人公がテノールで、敵役がバスやバリトンとなるのと似てゐますね。お姫様役の時は更に裏聲となり、一人で語りから役柄まで演じるのはたいへんなことでせう。歌舞伎では役者を見るのに、文樂は大夫の聲を聽きに行くものなのかも知れません。それ故、人形なしの「素淨瑠璃」と云ふのも時折演じられてゐるやうです。

 史實で1701(元禄14)年三月に、赤穂藩主、浅野内匠頭長矩が江戸城内松の廊下に於いて、吉良上野介義央に対し刃傷事件を起こした際に、現場に居合はせた梶川與惣兵衛の直系の末裔がベルランのお客さんに居らっしゃいます。それ故、「忠臣藏」は餘計に身近に感じるのでした。

切腹に就いてのHP

| | コメント (0)

2006年10月17日 (火)

蘭奢待

 《假名手本忠臣藏》第1幕では、序説に當たる「鶴が岡兜改めの段」から始まります。新田義貞を滅ぼし、京都室町に幕府を開いた足利尊氏から、1338(暦應元)年、鎌倉に鶴が岡八幡宮造營を機に、新田義貞の兜を八幡宮の藏に奉納させよとの命令が下りました。義貞は清和源氏の流れを組む嫡流故、その兜は後醍醐天皇から拝領された由緒ある品でした。併し、戰場から持ち歸へつた兜は47もあり、どれだか判りません。そこで、以前後醍醐天皇の女官であつた鹽谷判官の妻、顔世御前(カホヨゴゼン)が呼び出されて、どれだかを告げるのでした。

 さすがは家柄のよい義貞のことは、顔世御前の記憶にもしっかり殘つてをり、蘭奢待(ランジャタイ)の薫りを常に焚きしめてゐたので、薫りが今も僅かに殘る、見覺へのある龍頭(タツガシラ)の立派な兜を選びました。この蘭奢待とは、沈香木のひとつ、正式には黄熟香(ワウジュカウ)と呼ばれる長さ156糎(センチ)、最大徑43糎、重さ11.6瓩(キロ)になる巨大な香木で東大寺正倉院寶物のことです。これを日本では「東大寺」の名を隠し入れた雅名「蘭奢待」と呼んでゐます。

 最古の記録では595(推古3)年に淡路嶋に香木が漂着したと云ふもの。『日本書紀』にも、漂着木片を燃やしたところ、非常によい薫りがした爲、朝廷に献上したと書かれてゐるとか。「蘭奢待」は、鎌倉時代よりも前(一説には奈良時代)に漂着したのか、日本に入つて來てからは時の権力者たちがこれを切り取つてゐます。室町幕府8代將軍の足利義政、織田信長、明治天皇のお三方の切り取り跡には附箋が貼られてゐる爲、使つたことが判ります。近年の研究では38箇所の切り取り跡があるさうです。天皇の許可がなければ、きっと試すこともできないでせうから、どんな薫りがするかわかりませんが、最高級の「伽羅(キャラ)」の親玉故、さぞかし凄いものなのでせう。
 因みに信長は1寸四方を2個を切り取つた、と東大寺の記録に記されてゐますが、附箋のない足利義政以前のことですから、新田義貞が使つたとしてもおかしくはありません。信長は、一片を正親町(オオギマチ)天皇(1517 - 1593)に献上し、もう一片は1574(天正2)年4月3日、相國寺の茶會で焚いてゐます。燃やさないと薫りを發しませんが、同席した筈の千利休はその時どう感じたのでせうねえ。

 近松半二の淨瑠璃に《蘭奢待新田系圖(ランジャタイニッタケイヅ)》1765(明和2)年作と云ふのもありますので、この「蘭奢待」と云ふ御物は『太平記』を通じて江戸時代、既に一般に知られてゐたのかも知れません。また、幾ら兜が47あると云つても、敵方の大將が一目見て判らないやうな粗末なものを被つたとは、とても思へませんが、美しい顔世御前が此処で登場することで、鎌倉の執権、高師直が見そめ、失戀の腹いせに「鮒侍」と判官を罵り、つひに刃傷事件へと發展してしまひます。現物として今にも殘る「蘭奢待」を入れたり、デートの斷りを新古今和歌集の歌で返す等、氣が利いた臺本だとつくづく感心します。

| | コメント (0)

2006年10月16日 (月)

人形淨瑠璃

 無事に伊太利から歸國し、本日より復歸。食べ過ぎ、飲み過ぎで太りました。そのうちに寫眞も整理して、ご報告致します。

 さて、9月の國立劇場小ホールでは、人形淨瑠璃「文樂」、通し狂言《假名手本忠臣藏》が上演されました。だいぶ前に觀た時は朝から晩まで、文字通り通しで座つたので、疲勞困憊、苦行に近く、後半は集中力にも欠け、見終へた充實感だけが殘りました。日本版《ニーベルングの指環》みたいな感じです。きっと、昔は辨當持參で、食べ乍ら、飲み乍ら、相撲の枡席のやうな、至つてのんびりとした鑑賞方法であつたことでせう。谷崎潤一郎の『蓼喰う蟲』にはセックスレス夫婦の主人公が妻の父と、その若い愛人と一緒に淡路嶋に文樂を見に行く情景が細かく描いてありますが、上演中に食べる愛人の作るお辨當や食べさせ方の描寫が妙に氣に掛かりました。

 さて、今回は國立劇場開場40周年記念の一環のひとつで上演され、前後つ2つに分けるのではなく、3部構成にした爲、朝・晝・晩と分けたのに合はせて、3日に分けてじっくり觀ることができました。

 粗筋はどなたもご存知の通り、主君の仇討ちを遂げる47士の物語です。討ち入りのあつた1702(元禄15)年12月14日から、47年後にそれまでに演じられた淨瑠璃、歌舞伎、芝居等から趣向や名場面を取り入れ、云はば義士ものの集大成として上演されたのが、この《假名手本忠臣藏》です。勿論、生々しい事件を直接扱ふのがまだ憚られる時代でしたから、時代を元禄から室町時代に移し、舞臺も江戸から鎌倉にして、淺野内匠頭を鹽谷判官(エンヤ ハングワン)、吉良上野介を高師直(カウノモロナホ)、大石内藏助を大星由良助(オオボシ ユラノスケ)としてゐます。併し、誰が見ても元の事件が偲ばれます。歌劇でもヴェルディの《假面舞踏會》は、17世紀に瑞典(スウェーデン)國王グスタフ3世暗殺事件を扱つてゐますが、こちらも矢張り物語りを亞米利加のボストンに移して上演されてゐますね。

 意地惡、刃傷事件、切腹と急展開を見せる第1部、おかると勘平の悲話(第2部)、そして心理劇(義と情の對立)に仇討ち本懐までの第3部とまとまりもよく、ふと日本人でよかったと思へた公演でした。今週は忠臣藏に就いて。



Book

蓼喰う虫


著者:谷崎 潤一郎

販売元:新潮社

Amazon.co.jpで詳細を確認する


Book

蓼喰う虫


著者:谷崎 潤一郎

販売元:岩波書店

Amazon.co.jpで詳細を確認する


岩波文庫版は一寸高いけれども、小出楢重の挿絵がいい!


 

| | コメント (0)

2006年10月 3日 (火)

英國スーパーバイク選手権

 今日からもうお休みする豫定でしたが、英國スーパーバイク選手権で日本人初、清成龍一選手が年間綜合優勝を決めました。これをお知らせせずに渡歐する譯にはいきません。今期は途中雨で流れた試合があり、最終戰は二重點數(ダブル・ポイント)と黄色い塔のCD屋さんみたいな決め方ですが、兎に角優勝したのが嬉しいです。最終戰も雨や轉倒で赤旗が出て、2度も試合が中斷したにも拘はらず、冷静に攻め續けた「キヨ」が第1レースを勝ち、第2レースも2位で終へた爲、年間チャムピオンに輝いたのでした。英國の競走周回軌道は短い爲、毎回同じコースを2度走ります。

 昨年は最多優勝を飾り乍ら、怪我で出走できない回もあつた所爲か、最終的に2位に甘んじ、その雪辱に掛けたご本人並びに、関係者の努力が實を結んだのでせう。2003(平成15)年に大治郎事故死の後を受けて、突然抜擢された時は、ぽっと出の優男でしたが、英國人の間で揉まれて、すっかり逞しくなりました。
 來期は最高峰級のMotoGPに復歸することを祈つてます。佛蘭西の競馬に浮かれてる暇があつたら、少しは海外で活躍する日本人選手を取り上げて欲しいものです。

 詳しくは各サイト記事をご覧下さい。
http://www.honda.co.jp/BSB/race2006/rd13/report/

http://www.honda-racing.co.uk/

http://www.motogp.com/ja/motogp/motogp_news.htm?menu=news&news_id=17992&championship_id=3§ion=1

http://www.britishsuperbike.com/rounds_gallery_track2006.cfm?track=Brands%20Hatch%20GP

http://www.motorcycleracingnews.net/BSB.htm

 まだ、來月の『ベルラン通信』も書き上げてゐないのに、こんなことを書いてるヒゲ親父。いかんなあ。

| | コメント (1)

2006年10月 2日 (月)

伊太利行き

 10月4日(水)~15日(日)の間、お客さんを連れて、伊太利はピエモンテへ行つて參ります。通常のツアーでは行けない小さなワイン醸造所(バローロ、ガヴィ、シャケトラ)を見學し、白トリュフを食べ、トリュフにチーズやサラミ工場にも立ち寄る異色のグルメツアーです。既に2001(平成13)年からワイン産地を中心に毎年行つてをりますが、今年は圓安ユーロ高に泣いてゐます。
 と云ふ譯で今週及び來週一杯までブログはお休みです。店は通常通りの營業です。

| | コメント (0)

« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »