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2006年10月17日 (火)

蘭奢待

 《假名手本忠臣藏》第1幕では、序説に當たる「鶴が岡兜改めの段」から始まります。新田義貞を滅ぼし、京都室町に幕府を開いた足利尊氏から、1338(暦應元)年、鎌倉に鶴が岡八幡宮造營を機に、新田義貞の兜を八幡宮の藏に奉納させよとの命令が下りました。義貞は清和源氏の流れを組む嫡流故、その兜は後醍醐天皇から拝領された由緒ある品でした。併し、戰場から持ち歸へつた兜は47もあり、どれだか判りません。そこで、以前後醍醐天皇の女官であつた鹽谷判官の妻、顔世御前(カホヨゴゼン)が呼び出されて、どれだかを告げるのでした。

 さすがは家柄のよい義貞のことは、顔世御前の記憶にもしっかり殘つてをり、蘭奢待(ランジャタイ)の薫りを常に焚きしめてゐたので、薫りが今も僅かに殘る、見覺へのある龍頭(タツガシラ)の立派な兜を選びました。この蘭奢待とは、沈香木のひとつ、正式には黄熟香(ワウジュカウ)と呼ばれる長さ156糎(センチ)、最大徑43糎、重さ11.6瓩(キロ)になる巨大な香木で東大寺正倉院寶物のことです。これを日本では「東大寺」の名を隠し入れた雅名「蘭奢待」と呼んでゐます。

 最古の記録では595(推古3)年に淡路嶋に香木が漂着したと云ふもの。『日本書紀』にも、漂着木片を燃やしたところ、非常によい薫りがした爲、朝廷に献上したと書かれてゐるとか。「蘭奢待」は、鎌倉時代よりも前(一説には奈良時代)に漂着したのか、日本に入つて來てからは時の権力者たちがこれを切り取つてゐます。室町幕府8代將軍の足利義政、織田信長、明治天皇のお三方の切り取り跡には附箋が貼られてゐる爲、使つたことが判ります。近年の研究では38箇所の切り取り跡があるさうです。天皇の許可がなければ、きっと試すこともできないでせうから、どんな薫りがするかわかりませんが、最高級の「伽羅(キャラ)」の親玉故、さぞかし凄いものなのでせう。
 因みに信長は1寸四方を2個を切り取つた、と東大寺の記録に記されてゐますが、附箋のない足利義政以前のことですから、新田義貞が使つたとしてもおかしくはありません。信長は、一片を正親町(オオギマチ)天皇(1517 - 1593)に献上し、もう一片は1574(天正2)年4月3日、相國寺の茶會で焚いてゐます。燃やさないと薫りを發しませんが、同席した筈の千利休はその時どう感じたのでせうねえ。

 近松半二の淨瑠璃に《蘭奢待新田系圖(ランジャタイニッタケイヅ)》1765(明和2)年作と云ふのもありますので、この「蘭奢待」と云ふ御物は『太平記』を通じて江戸時代、既に一般に知られてゐたのかも知れません。また、幾ら兜が47あると云つても、敵方の大將が一目見て判らないやうな粗末なものを被つたとは、とても思へませんが、美しい顔世御前が此処で登場することで、鎌倉の執権、高師直が見そめ、失戀の腹いせに「鮒侍」と判官を罵り、つひに刃傷事件へと發展してしまひます。現物として今にも殘る「蘭奢待」を入れたり、デートの斷りを新古今和歌集の歌で返す等、氣が利いた臺本だとつくづく感心します。

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