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2006年11月30日 (木)

地獄の落ちた勇者ども

 映畫《地獄に堕ちた勇者ども》1969(昭和44)年制作(155分)は獨逸の轍鋼財閥の頂點に立つ一族の骨肉の爭ひを國家社會主義勞働者黨(ナチス)の臺頭と共に描いた秀作。正面からナチスの蛮行を描けたのは、偏に距離を置いて眺めることのできた伊太利人のヴィスコンティだからでせう。

 のっけからヘルムート・バーガー演じるマルティンの女装からして唖然とさせられます。鐵鋼王エッセンベック家の老ヨアヒム男爵の誕生日の餘興でしたが、弟ギュンターは此処でバッハの無伴奏組曲第3番?をチェロで彈きます。そこに國會炎上の知らせが届き、ナチスによる暴力の時代を豫感させます。この場に居合はせた人の多くがこの後の権力闘爭により道を誤り、死んでしまひますが、一度見ただけではよくわからない映畫です。

 召使ひにシャワーで石鹸を流して貰ふ場面では、バスタブの中に立つてゐる所爲か、チョロチョロとしかお湯を出さないことにショックを受けました。我々日本人から見れば、ザブ~ンとお湯を被るのが豪快であり、快感なのに、権力者がチョロチョロのお湯で何も不平を言はないのです。勿論、カーテンや仕切のない西洋間ですから、仕方ないのですが、文化の違ひを感じましたね。確か、大學の頃に池袋の名畫座で初めて《ヴェニスに死す》と一緒に觀た氣がします。

 老男爵の後繼者たる長男は第一次世界大戰で失つてゐる爲、その未亡人ゾフィが會社を我がものにしようと畫策します。愛人のフリードリヒ(ダーク・ボガード)を社長に据えようしますが、社内に突撃隊の幹部コンスタンティンと親衛隊のアッシェンバッハ大佐が居て、ナチスの権力闘爭の縮圖にもなつてゐます。物語はゾフィの希望に添はず、コンスタンティンは突撃隊の「血の粛正」で排除され、権力に目覺めたマルティンは親衛隊に入隊し、自分を愚弄して來たゾフィ(母)を犯し、フリードリヒを自殺に追ひ込み、アッシェンバッハの描いた筋書き通りに、一族は崩壊して新秩序が生まれるのでした。富と権力「ラインの黄金」を手中に収めるのは醜いアルベリヒ(ナチス)だとなぞらえてるゐるとすれば、この始まりは最後にどうなるか、既に「神々の黄昏」を我々に教へてくれます。

 1934年6月30日にレーム率いる突撃隊を親衛隊が急襲して、數百人の突撃隊員が粛正されてゐるのですが、それがまた泥酔して滅茶苦茶になつた明け方に襲はれて、機關銃でバリバリ殺され、ドボドボ血が出て、1960年代の東映ヤクザ映畫と同じに血で溢れてうんざりします。でも、目を背けてはいけません。これこそナチスが法を捨ててやった蛮行なのです。

 今晩のBS衛星劇場は《熊座の淡き星影》です。



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2006年11月29日 (水)

郵便配達は二度ベルを鳴らす

 今晩放映される映畫《郵便配達は二度ベルを鳴らす》はヴィスコンティ最初の長編映畫です。1942(昭和17)年制作、113分。原題は「妄執(Ossessione)」。原作の愛慾小説『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の作者ジェイムズ・ケインから戰時中の爲映畫化の許可が得られず、亞米利加では長いこと違法作品でした。それ故、紐育での初演は1976(昭和51)年になつてからのことです。

 1981(昭和56)年にはジャック・ニコルソン、ジェシカ・ラングでも映畫化されてもゐます。併し、白黒とは云へ印象深いのはこのヴィスコンティ作品の方でせう。舞臺は亞米利加から北伊太利に移して、自由に直してゐます。
 片田舎の食堂に流れ者ジーノが現れ、美人の妻ジョヴァンナは年の離れた夫よりも一目見ただけで、この若い男の虜になつてしまひます。夫を説得して雇ひ入れて貰つてから、夫の居ない時を狙つて誘惑すれば、身體を持て餘してゐるジーノはすぐに應へます。幾度も情事を重ねる内にふたりで驅け落ちを計畫しますが、それまでの恩を思つたかジョヴァンナは食堂へ引き返し、ジーノは元の風來坊生活です。そこで、大道藝人と知り合つたジーノは仲間となり、港町でいつかの食堂の夫妻と出くわし、また戀の炎が燃え上がります。
 たうたう夫が邪魔になつたジョヴァンナは夫殺しを決意して、自動車事故を装つて共謀して殺してしまひます。完全犯罪を成し遂げた筈のふたりですが、ふたりだけとなるとうまく行かず、此処を捨てて餘所で再出發しようと企てます。自動車に乘り込み、ふたりで未來を摸索中、交通事故でジョヴァンナが死んでしまひます。しかも、夫を殺した時と全く同じやうな状況となり、偶然の事故だと信じて貰へないジーノは警察に連行されるのでした。

 土埃の舞ふ土手は穀倉地帶のポー河周辺なら何処でも見られる風景です。然も、日差しが強い。汗まみれのランニングシャツにジャケットを羽織つたジーノは如何にも肉體勞働派の逞しい體型。筋骨隆々でギラギラする位男っ氣がありますが、不潔で汗臭ささうです。それに比べると食堂の主人は小綺麗かもしれませんが、腹の出た中年男で然も亭主関白。口うるさい主人ですが、喉自慢ではヴェルディのアリアを歌ふところは、さすが伊太利です。若い妻としては、退屈してゐる最中に突然白馬の王子が現れたやうに感じたのかも知れません。玉簾(タマスダレ)の間から流し目で誘惑するところなど、大人の女は恐いと感じます。惚れたと思つたら、すぐに口説く。氣持ちが高まれば何処でも情事を重ねる!嫉妬に狂へばすぐにナイフを取り出す。直情径行型、現世を謳歌するラテンの血は熱し易く醒めやすい。それで居て、人ごとでない怖さを感じます。



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2006年11月28日 (火)

夏の嵐

 先週コメントを頂いた、ヴィスコンティ初めての総天然色映畫《夏の嵐》に就いても詳しく書かねばなりません。これは、1954(昭和29)年に公開された戀愛歴史活劇です(119分)。原題は「官能(Senso)」。此処ではブルックナーの交響曲第7番の斷片が遺憾なく使はれ、思ひの他効果を上げてゐます。

 1866(慶應2)年の墺地利支配下のヴェネツィア。今、將にヴェルディの《イル・トロヴァトーレ》がフェニーチェ座で上演されてゐる最中、決闘することになった從兄弟を助けようと、リヴィア・セルピエーリ伯爵夫人(アリダ・バリ)は相手の墺地利士官フランツ・マーラー中尉(ファーリー・グレンジャー)を桟敷に呼びます。墺地利軍の乳白色の上着に側線入り水色のズボンの制服が鮮やかで格好いい!それにマントが粋です。
 〈見よ、薪の恐ろしい火を〉のアリアが「武器を取れ!」と歌ふと、現實世界にも呼應してをり、伊太利獨立の機運は高まつてゐる爲、反墺のビラが桟敷席から蒔かれます。舞臺でレオノーラが〈戀は薔薇色の翼に乘つて〉を歌ふ最中、リヴィアの切羽詰まつた状況が重なり、愛のない夫よりも從兄弟に心曳かれてゐた筈が、今度は若い士官に氣持ちが動きます。從兄弟は流刑となつて決闘は免れますが、ふたりは逢瀬を重ねる中、つひに戰爭が始まり、リヴィアは夫と共に疎開して引き裂かれてしまひます。
 併し、その屋敷へ突然フランツが現れ、除隊して一緒にならうと口説かれたリヴィアは統一伊太利の爲の資金を渡してしまひます。ところが何時まで待つてもフランツから連絡はなく、やっとの思ひでヴェローナを訪ねるとただの逃亡兵として娼婦と一緒に居る酔っぱらいの姿でした。全てを捨てて來た筈のリヴィアを口汚く罵るフランツ。傷附けられたリヴィアは墺地利軍司令部に赴き、逃亡兵を密告し、フランツは即処刑され、暗がりの町の中に彷徨(さまよ)ひ出たリヴィアは消えて行くのでした。

 戰爭に翻弄される不倫の仲とだけ捉へるのではなく、時代の大きな波に飲み込まれた若い男女の悲劇と捉へたいものです。伊太利が統一されるのは明治維新と差程變はらない時期であつたと知りました。コルセットの紐をぐいぐいひっぱる場面は洋服の違ひを最も感じさせてくれます。戰闘場面は壮大ではありますが、鉛の兵隊を動かしてゐるかのやうに俯瞰から油繪のやうに迫ります。ブルックナーの音にどっぷり浸かり、ヴェルディに酔ふ冒頭も19世紀を身近に感じさせてくれますね。この映畫からブルックナーに入つたのだと、今頃思ひ出しました。
 そして、火災前の1990(平成2)年ににフェニーチェ座の平戸間で觀た『トスカ』も鮮やかな記憶として蘇ります。偶然にも、翌週に獨逸へ戻ると伯林のドイチェ・オパーで同じ歌手がトスカ役で歌つてました。カンタービレの伊太利に比べると、質實剛健、ワーグナーのやうに管絃樂が鳴り響く中でのトスカ。國の違ひがよく出てゐました。

 ヴィスコンティは最初、伯爵夫人役にイングリット・バーグマン、中尉役にマーロン・ブロンドを考へてゐたさうですが、日程の関係だかで流れたのだとか。もし實現してゐれば、随分變はつた雰圍氣になつたでせうねえ。

 今晩のBS2衛星劇場は《ヴェニスに死す》1971年(131分)です。



夏の嵐


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2006年11月27日 (月)

若者のすべて

 ずっと北西伊太利旅行の話しばかり書いてゐるうちに、ルキノ・ヴィスコンティ生誕100周年記念に絡んでか、衛星映畫劇場で随分とまとまって作品が放映されてゐます。今週はヴィスコンティ映畫に就いて書きませう。

 日本では初期の作品は殆ど公開されず、《地獄に堕ちた勇者ども》もさして注目されず、1971年に《ヴェニスに死す》公開後、監督の死後1978年に初めて《家族の肖像》が上映されてからが、突然の流行となつた模様です。
 續いて《イノセント》《郵便配達は二度ベルを鳴らす》が公開され、1980年代に入るとまづ岩波ホールで《ルートヴィヒ 神々の黄昏》がお目見えし、81年に《ベリッシマ》、《山猫》伊太利語完全版、82年には《若者のすべて》完全版、そして《熊座の淡き星影》と順々に公開されて行き、つひに澁谷のパルコPart3で「ヴィスコンティとその藝術」と題した一大回顧展が開かれました。この公開時期は、丁度多感な高校から大學生と云ふ期間に當たり、その時にどっぷり洗禮を受けました。今思へばブームに乘つてゐただけかも知れませんが、ミラノ・スカラ座の引越し公演も重なり、歐州への憧れが開花したのもこの時期でせう。映畫の衣裳だけでなく、オペラの舞臺衣裳も飾られたこの展覧會は壓倒的な迫力で本物に接することができました。

 さて、今晩放映される《若者のすべて》は原題「ロッコとその兄弟たち(Rocco e i suoi fratelli)」で、1960(昭和35)年公開、1982(昭和57)年に完全版に披露された118分の白黒映畫です。
 伊太利南部のバジリカータ州からミラノへ、4人の息子を連れた未亡人が貧農を逃れ、少しでもよい暮らしをする爲にやって來ます。先に行つてゐた長男にはいい顔されず、次男シモーネは拳闘を始めて芽が出ると娼婦ナディアに夢中となって身を崩し、兄の厖大な借金を肩代はりする聖人のやうな三男ロッコ(アラン・ドロン)だけでは家族の崩壊を止められず、都會に馴染んだ四男チーロと末っ子のルカは貧ししかつたけれども、仲睦まじかつた故郷へ歸へることを思ひ附くのでした。

 貧農を印象附ける拳闘を始める場面。着替へすら持ち合はせがなく、下着で練習を始めて失笑を買ふところです。高度成長期前の日本も同じやうな状況であつたことでせう。
 シモーネに愛想を附かしたナディアと兵役から戻った繊細なロッコが逢ひ引きをするのが、ミラノの大聖堂(ドゥオーモ)の屋上です。幾重にも重なるゴシックの尖塔、その間から見渡す景色。精悍なドロンの顔と共に白黒なのに鮮明に覺へてゐます。縒(よ)りを戻さうと弟の前ナディアを辱めるシモーネは結局、何をやってもうまく行かず、自暴自棄彼となつて彼女を殺してしまひます。夢見た都會暮らしも散々な結果となるこの家族。ヴィスコンティが初期の作品から一貫して描き續けた家庭の崩壊は、ここでも普遍性を得て色々考へさせられます。

 自分が長男ならやはり婚約の席に突然現れた家族を温かく迎へ入れられるだらうか、シモーネと違ひ、喩へちやほやされても、そのまま拳闘を續けられるのだらうか、ロッコのように自己犠牲で家族を支へることができるだらうか、四男のやうに工場勤めができるのだらうか、上の兄貴たちを見てゐる末っ子のやうにうまく立ち回れるのだらうか。大きな疑問を抱へますが、ここで氣附くのは母の強さです。泣いたとしても立ち直り、芯の強い母は些細なことでは微動だにしません。マンマの味でないと駄目だと云ふ伊太利男の氣持ちがよくわかります。



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2006年11月24日 (金)

ラ・スカラ

Dh000445 伊太利語の「scala」とは「階段」「梯子(はしご)」と云ふ意味ですが、「ラ・スカラ(la Scala)」と定冠詞を附けて呼ぶ場合、歌劇場の「ミラノ・スカラ座」を指します。改装も終はり再開した歌劇場には從來通り「歌劇場博物館」が併設されて色々縁の品々を見ることができます。前回來た時は、移轉先で假營業してをり、蓄音機の數々が見られましたが、今回その陳列はなく、階段には昔の告知表(ポスター)が續き、名歌手、作曲家の胸像が並んでゐます。
 これはプッチーニの遺作《トゥーランドット》初演時のもの。アリア〈誰も寝てはならぬ〉はトリノ五輪、荒川靜香選手のイナバウワーと共に、すっかり有名になりました。トスカニーニが「マエストロはここまでで筆を絶ちました」と言つて補筆補完された部分を演奏せずに指揮臺を降りた有名な逸話が殘るものです。でも目をつ近附けてよく見ると、複製品でした。本物は倉庫の奥深くに仕舞ひ、略奪破損の危險のある展示には複寫を使つてゐるのでせう。

Dh000431 本番前の稽古や豫行演習がなければ、歌劇場内も一部箱席(ボックス・シート)から見ることも可能です。丁度、舞臺装置の組み立てをしてをりました。昔は貴族の世襲制の座席であつた3列6席の狭い空間です。ヴィスコンティの《夏の嵐》冒頭、天井桟敷から赤白緑の紙を蒔き、「伊太利萬歳!」と叫ぶ民衆を見上げたのは、ヴェネツィアのフェニーチェ座でしたが、かう云ふ席です。或ひは若い燕役のキアヌ・リーヴスが新鮮であつた《危險な關係》で、グレン・クローズが不適な笑みをこぼすのも、かう云ふ歌劇場です。本物だけがもつ優雅さや重厚感があり、かう云ふ歌劇場は舞臺だけでなく、觀客席でもドラマが多くあつたことでせう。
 管理人さんに「撮影禁止ですが、できれば…」と訊いて貰ふと、「1枚位ならOK」と實に寛容なお言葉。こちらは擴大解釈して、何処でも氣に入つたものを1枚づつ、こっそりと、勿論自己主張の強いフラッシュは焚かずに撮りました。9月ま30日までであつた、館内圖書館部分の「スカラ座に於けるモオツァルト上演」の特別展示が何故か、引き續き開いてゐて、昔の好演ヴィデオテープが回り、舞臺衣裳や舞臺模型が飾られてゐました。住んでゐたらかなり不便でせうが、この、ラテン的ないい加減さは好きです。



夏の嵐


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2006年11月23日 (木)

カラス

 グランド・ホテルの顧客名簿の筆頭に擧げられるのがヴェルディでした。現在もヴェルディが使つてゐた部屋は「ヴェルディ・スイート」として特別扱ひです。亡くなつた時の部屋の様子はサンタガタのベルディの屋敷に移築され、そちらで見ることができます。そして、著名人の中に永遠の女神(ディーヴァ)マリア・カラスもをります。ロビー横の廊下には、何げにカルーソーとカラスの肖像寫眞が飾つてあります。知らない人が見れば、只の寫眞でせうが、ホテル縁の有名人だと知つてゐる者にとつては、もしかすると此処を歩いたかも知れない。或ひは同じ椅子に座つたかも知れないと考へるだけでも幸福です。

 さて、フランコ・ゼフィレッリ監督作品、映畫《永遠のマリア・カラス》2002年は架空の物語(フィクション)なのですが、引退後、希臘の大富豪オナシスに捨てられ、ひとり靜かに巴里で晩年を過ごした様を見せ附けてくれました。今でも彼女の歌ふ歌劇の女主人公の凄味はCDでも傳はる位ですから、實演はさぞかし凄かつたのでせう。ゼッフィレッリの師匠に當たるルキノ・ヴィスコンティが演出を手掛け、カラスが歌つた1955(昭和30)年でしたかの《ラ・トラヴィアータ》は音は惡いものの若々しいディ・ステファノのテノール、カルロ・マリア・ジュリーニのハキハキとした指揮と相まつて素晴らしいものです。

 「カラス入魂のヴィオレッタ」とは陳腐な宣傳文になつてしまひますが、熱いものが最初から最後まで流れてゐる傳説の實況録音。きっとこれを歌つた頃はこのホテルから通つたことでせう。



ヴェルディ:椿姫 全曲


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永遠のマリア・カラス


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 今晩の日本放送協會BS2、20時から衛星映畫劇場ではヴィスコンティの長編大作《ルートヴィヒ》1989年再編輯(240分)が放映されます。

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2006年11月22日 (水)

リストランテ・カルーソー

Caruso_1 グランド・ホテル脇道にも卓子が出してあり、此処で食事が頂けるのが、リストランテ・カルーソー(Bar Ristraonte Caruso)です。外の硝子には本人が自ら描いカルーソーの繪が意匠となり、金文字となつて映えます。1902(明治35)年4月11日、グラモフォン社のフレッド・ガイスバーグが306號室に録音器材を運びサルヴァトーレ・コットーネの伴奏に合はせて、カルーソーは10曲を吹き込みました。これによりレコード普及の切掛となつた大きな出來事です。魂を取られる心配から歌ふ前に必ず十字を切つたと云はれるカルーソーの決心がなければ、レコードは吹き込まれず、カルーソーも大金持ちにはならなかつたことでせう。
 以前、兩親が泊まつた際に仲間のご夫婦がその部屋を宛はれたさうですが、興味もないので「へえ、さうですか」で終はつてしまつたとか。中には小さな額繪が飾られ、解る人には解るやうになつてゐたさうです。

Dh000252 さて我々は連日のご馳走に疲れ果ててゐたので、結局前菜ブッフェとデザートだけを頂きました。新鮮な美しい生野菜、米のサラダ、トマトとモッツァレラ、ムース、牛肉の煮込みにポレンタ、ローストビーフ等、それに生ハムは塊から切り分けてくれます。ナポリ生まれのカルーソーはずんぐりむっくりした身體でしたが、喉を大事にしてゐる爲、暴飲暴食はせず、鶏肉とサラダ程度しか食べなかつたさうです。我々も同じ?さう思つてトマトとモッツァレラを頬張ると、餘計に美味しく感じます。

 カルーソーの死後電氣録音が始まつた爲、彼の吹込は全て喇叭(ラッパ)吹込です。どうしても伴奏が貧弱に聞こえる爲、蓄音機で彼の歌聲を再生し、それに管絃樂が合はせて電氣録音されたSP盤が幾枚が殘つてゐます。それを再度2000(平成12)年に現代の管絃樂團と合はせてデジタル録音も行はれました。蓄音機を持たない人が、今風にカルーソーを聽くには丁度いいのかも知れません。

 今晩の日本放送協會BS2では、20時より衛星映畫劇場でヴィスコンティの《白夜》1957年(107分)が放映されます。



カルーソー2000〜ザ・デジタル・レコーディング


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アーティスト:カルーソー(エンリコ)

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2006年11月21日 (火)

グランド・ホテル

Dh000224 ミラノでどうしても行きたかった場所は「グランド・ホテル・エ・ド・ミラン(Grand Hotel et de Milan)」です。スカラ座から程近く、高級店が並ぶ有名なモンテ・ナポレオーネ通りの始まる所の向かひ側に建つ古典的(クラシック)ホテルで、演出も手掛けたルキノ・ヴィスコンティや歌姫マリア・カラスの定宿であつたばかりか、作曲家ジョゼッペ・ヴェルディ終焉の地であり、エンリコ・カルーソーの録音も行はれた所です。是が非でも行きたくて、前回は中のカフェでお茶でもと思ひましたが、丁度ロールス・ロイスで到着した着飾つたお客が這入るところで、氣後れしてしまひました。

Dh000248 今回はランチの豫約を入れ、上着を着て、恥ずかしくない格好で行きます。荷物番の人が扉を開けてくれて、中へ這入ると外とは違ひ、磨り硝子の天窓もあり、鏡を多用して非常に明るく吃驚しました。廣間(ロビー)の椅子に腰掛けてみては、もしかして、此処にヴェルディが座つたかも知れないと思ふだけで昂奮します。バーの前には大きなでヴェルディの繪が、廊下にはカルーソーやカラスの繪が飾られ、さり氣なく縁のホテルであることを演出してゐます。地下階のトイレの歸へりには、わざわざ昇降機にも乘り、にんまり。ヴィスコンティの演出で、カラスが歌つたこともあるので、公演後此処で一緒に食事したのかも知れません。追體驗と云ふよりは想像ばかりが夢膨らむ場所でした。

 今晩の日本放送協會BS2では、20時より衛星映畫劇場でヴィスコンティの《夏の嵐》1954年(119分)が放映されます。

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2006年11月20日 (月)

トスカニーニ

Tosc1 ミラノの日本語ガイド本にトスカニーニの館が地圖に載つてゐました。大聖堂(ドゥオーモ)から歩行者天國の買物通りを歩いて10分程度、地下轍でも一驛の廣場ピアッツァ・レプブリクから、少し歩いた所です。交差點を渡ると「トスカニーニ廣場(Largo Arturo Toscanini)」とあります。廣場はてっきりピアッッツァ(Piazza)だけだと思つてゐましたので、この「ラルゴ」とは何か氣になりました。でも、此処に立つて回りを見渡すと、どう見ても廣場としか譯す言葉が浮かびません。辭書を見ると「交叉する道にできた變形の廣場」となつてゐて、音樂用語の「幅廣く遅く」だけの意味でないことが解りました。でも、この標記が在る建物の地上階はファースト・フード店なのでがっかりすると共に、自分としてはその對比が面白く、トスカニーニが生きてゐたら癇癪を起こすのかなあ、と思ふのでした。

Dh000223 さて、そこから筋を隔てた角を曲がると停留所(フェルマータ)の後ろに石塀に囲まれた屋敷が在りました。どうやら此処がトスカニーニの屋敷のやうです。生憎、鐵柵門は固く閉じられ、記念館となつてゐる譯でもなく、住んでる氣配もなく、只の建物ですが、その昔住んだのでせうか。
 トスカニーニは1898(明治31)年にミラノ・スカラ座の常任指揮者となつた後、辭任した1908(明治41)年までミラノに住んでをり、その後1920年代に戻り、ファシズム臺頭以降は亞米利加へ移住してゐる爲、一體いつ頃住んでゐたのか判りません。單に縁の建物なのか、疑問は殘るものの柵の間から記念撮影。トスカニーニの娘ワンダは洋琴奏者ウラジーミル・ホロヴィッツと結婚したこととか、「休符をも歌へ」と言つたこととか、色々頭を巡ります。彼の鉈(ナタ)でスパッと切つたやうなワーグナーもいいのですが、ヴェルディの《ファルスタッフ》は秀逸です。躍動感、高揚感、そして幸福感が訪れる熱血漢の指揮者の賜物でせう。それにしても、この建物が何なのか、判らないまま立ち去りました。どなたかご存知ありませんか。

 今晩、日本放送局會BS2では、20時より《ルキノ・ヴィスコンティ》と云ふ記録映畫(1999年)があります。



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2006年11月17日 (金)

ミラノ

 ミラノでも御馳走は續きます。「イル・リーベルティ(il Liberty)」はワインと料理の評判がよい、こぢんまりとしたリストランテです。英語の「Liberty」は「自由」を意味しますが、伊太利語の場合「アール・ヌーヴォー」を指す言葉のやうです。ホールの割に矢鱈とトイレが廣いのには笑っちゃひましたが、洗練された味はひでした。

Dh000234 ミラノでは是非、サフランで黄色く色附けされた「ミラノ風のリゾット」が食べたいと思つてゐました。此処ではその古典的な料理に出會へました。

 Risotto alla milanese al salto con rognone trifolato
 こんがり焼いたミラノ風リゾット 炒めた腎臓添へ

リゾットは米を煮たものであつて通常は焼いたりしません。實は伊太利が貧しかった時代、前日に殘つたリゾットを翌日フライパンで焼いて食べてゐたさうです。我々が冷や飯を焼き飯(チャーハン)にして食べるのとちっとも變はりありません。添へ物も捨てるやうな内臓ですから、決してご馳走の部類には入らないものでした。併し、現在では立派な料理のひとつとして食卓に上ります。
 直徑30糎はあらうかと云ふ程の大きさで、一人前づつフライパンで焼いたやうです。ご飯3膳分位はありさうな量に、全部食べることは諦めました。パリッとした食感とモチッとした内側のリゾット、それに大蒜の効いたザクザクした齒應への腎臓の調和が素晴らしい一品でした。この後、もう一皿パスタが出て、肉料理、デザートと續き、滿腹感を越えても、つひフォークが伸びる卑しい自分に氣附くのでした。宴席が終はりホテルへ戻る頃には、既に日附けも替はり、ひんやりとした秋の夜は更けて行きました。

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2006年11月16日 (木)

レッコ

 伊太利全土でフォカッチャ(focaccia)が食べられてゐます。バールや立ち喰ひ所で食べられる、平たくて細長いパンのことで、見た感じは殆どピザ生地です。オリーヴの實が入つたものや、肉や野菜を挟んだり、通常はサンドヰッチ用に使はれ、挾んで一寸表面をパリッと焼くので腹ごしらへにはもってこいですね。
 特にこのジェノヴァやポルトフィーノ近邊の港町ではチーズを挾んで焼いたフォカッチャ(Focaccia col formaggio)は名物のやうです。紙のやうに薄く伸ばした生地の上にドンとチーズを載せ、もう一枚の薄い生地で挟み、伸ばして焼いたものです。薄いピザの間にチーズが挟まつてゐると考へて下さい。

Dh000183 我々が行つたところは、ポルトフィーノから程近い港町レッコ(Recco)の「リストランテ・ヴィトゥリン(Ristrante Vitturin)」です。此処は何と創業1860(万延元)年から家族經營を續ける老舗でした。ところが行つてみると、豫約が入つてゐないと云ふので、急いで電話に出たコックの息子さんを呼んで確かめたら、どうも書いたメモを無くしてしまつたらしいのです。帳場のお母さんは始終怪訝な顔をしてゐましたが、我々は豫(あらかじ)め翻譯した日附の入つた献立表を見せると、これが動かぬ証拠となり、目出度く着席できました。
 この店の面白いところは、地下の厨房から一階のホールまで水車のやうな圓盤が回り、料理が載せられて來ることです。そして、晝食にチンクエテッレで食べ過ぎたことを傳へて、量は極力減らして貰つて晩餐の開始です。平日にも拘はらず、小さな子供を連れた家族連れ(それも21時過ぎからの夕飯!)、カップルは靜かに見つめ合ひ、男同士で顔を近附けて大きな聲で喋つたり、或ひは新聞を讀み乍ら一人でゆっくり食事する人等、地元の色々な客層で賑はつてゐます。

Dh000184 やって來ました、チーズを挟んだフォカッチャ!直徑50糎はあるかと思ふやうな圓型の木の臺に載せられて、カメリエーレが近くで切り分けてくれます(上圖)。ひとり20糎四方が二枚、もうそれで十分な量です。とろりと溶けたチーズとパリッと焼けた生地が絶妙に口の中で混じり合ひ、お代はりが欲しくなりますが、まだ前菜なので後に續く料理の數々を考へると、とても手が出ません。暫くするともう一枚巨大なフォカッチャをすぐ隣りで切り分け始めました。よく食べる客が居るのだなあと思ふと我々の卓子へ持つて來るではありませんか!殘念乍ら、これはもう遠慮したいと傳へると、先程のは8人前であつた爲、12人では足りないと急いで持つて來たとのことでした。「えっ、もう要らないの?」カメリエーレが逆に吃驚して、我々のバスの運轉手が氣を利かせて、一部お持ち歸へりにすることになりました。

 この後は手捻りの短いパスタに自家製ジェノヴェーゼソース(trofie al pesto)、魚料理一品、デザートと矢張り完食ならず。高度成長期に昭和一桁の親から、殘さず食べることが美德だと躾られた自分でも、體を壊してまでは食べられません。こんなに遅い時間にたっぷり食すのですから、朝はビスコッティをカプチーノに浸して口に入れるだけと云ふのも頷けますね。

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2006年11月15日 (水)

マナローラ

 世界遺産の「チンクエテッレ(Cinqueterre)」は5つの漁村からなつてゐます。東からジェノヴァに向かつて

  リオマッジョ-レ(Riomaggiore)
  マナローラ(Manarola)
  コルニーリア(Corniglia)
  ヴェルナッツァ(Vernazza)
  モンテロッソ・アル・マーレ(Monterosso al Mare)

P1040116の5村で、我々は貸切バスでマナローラへ行き、其処で晝食を取り、今度は船でモンテロッソへ行き、先回りしたバスに合流する道筋(ルート)です。駐車場は山から下りた中腹に在り、その先は通行止めとなり、坂道を下つて行きます。廣場に豫約を入れた「ダル・ビリー(dal Billy)」の看板を發見し、細い路地を上り下りして行くと住宅街の中に在りました。崖に沿つて建つてゐる敷地面積の狭い建物、1階が厨房、地下1階がレストラン、その下地下2階部分が丁度テラスになつてをり、村の反對側の段々畑や海が見渡せる、何とも開放的な空間です。

P1040100 魚介のマリネ、オリーヴの肉巻きフライが前菜で出た後、パスタですが今回初めてスパゲッティを食しました。今までピエモンテではタリアテレのやうな細打ち麺ばかりで丸い麺は初めてです。伊太利でスパゲッティが食べられないのに疑問を呈してゐた一同感動。ボンゴレ(淺蜊)、ムール貝(烏貝)と、貝に大蒜(ニンニク)、オリーヴ油に鹽胡椒、と何の變哲もない實に單純な料理ですが、新鮮な食材でかうも香ばしく美味なものか、吃驚です。

P1040104 狭い階段を昇り降りするカメリエーレ(給仕)のおじさんは地元生まれで、弟が調理したものを毎日200回は昇り降りしてゐるのだとか。あれえ、まだ殘ってるぢゃねえか。そんなんぢゃ持って上がれねえよ、と太い腕節に、日焼けした顔でニッコリ言はれると食べない譯にはいきません。聯日のご馳走に胃も悲鳴を上げさうなのですが、美味しいので、食べられてしまふから不思議です。メインは魚介のフライです。これも單にパン粉を附けて揚げただけのものですが、檸檬だけで何も足す必要はなく、ホイホイと食べられます。地元、チンクエテッレの白ワインとの相性が惡からう筈がありません。食後はメレンゲのケーキがこれまた、甘さ、はんなりとした齒應へ、絶品ですが、もう限界、一口で諦めました。徐々に日が回つて、10月だと云ふのにキツイ日差しが差し込んで、伊太利の休日らしさを盛り上げます。

 食後の珈琲を飲むと、船の時間を氣にして、近道してどんどん階段を下り、港へ着くと案の定遅れが出てゐました。水面下に海底がはっきりと見え、泳いでゐる人もゐます。下船したモンテロッソには砂濱もあつて、リヴィエラの殘暑はまだ續いてゐたのでした。

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2006年11月14日 (火)

モルターラ

Dh000198 ポルトフィーノから北上してミラノへ行く途中、鵞鳥で有名なモルターラ(Mortara)の町にも寄りました。高速道路を降りてから、ずっと稲や玉蜀黍(トウモロコシ)の刈り入れが行はれてをり、深まり行く伊太利の秋を感じさせてくれました。我々は鵞鳥のサラミを作る工房ラ・コルテ・デロッカ(La Corte dell'Oca)を目指します。
 ご主人自らサラミの作り方を實演してくれました。元々豚を食べられない猶太人の爲に始められた保存肉ださうです。皮をサラミの外側として使ふ爲、脇腹に包丁を入れ、首の部分も使ふので器用にバラして行きます。肉は挽肉を使はず、削いで薄くしたものを順繰りに皮の内側に並べて、最後に絲で閉じると完成です。特に首の部分に鵞鳥肉だけを入れて作るサラミが絶品でした。

Dh000202_1Dh000203 日本ではまづお目に掛かることのない鵞鳥のサラミを使つた晝食も頂きました。サラミはかなり癖がありますが、一度茹でたものは寄せたハムのやうな味はひで食べ易く、際限なく食べてしまひます。そればかりか、殘すのも惡いので、こっそり包んで持つて歸へり夕飯にする位です。鵞鳥だけのもの、豚も一緒に使つたもの等色々なサラミが出て來ました。勿論、フォア・グラも絶品です。佛蘭西語が世界中に通つてゐるけれども、古代羅馬の時代から伊太利にはあるので、鵞鳥の肥大肝臓と呼んでくれ!と曰ひます。一緒に食べるパンもバターの代はりに鵞鳥の脂を使つて近所のパン屋に薪で焼かせた特別なものでした。どおりで絶妙な相性な譯です。

 鴨と家鴨(アヒル)と鵞鳥の違ひがはっきりしませんでしたが、野生の鴨は雄が色の綺麗な鳥で雌は茶色です。鴨と家鴨を掛け合はせたものが合鴨(あひがも)。鵞鳥は白い毛で野生の雁を家禽としたものです。勉強になりました。

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2006年11月13日 (月)

ムラツァーノ

Dh000003 今回も乾酪(チーズ)工房を訪ねました。羊を飼ひ、毎日新鮮な乳で乾酪(この邊りではムラツァーノ・チーズ)を作り、熟成させて賣つてゐるカッシーナ・ラフラッツ(Cascina Raflazz)です。丘陵地でほぼ羊と牛を放し飼ひにして、できるだけ自然なままに飼育して毎朝乳を搾つてゐます。ここのおかみさんは16歳で結婚したので、もしも生まれ變はつたら同じ人生は選ばないとこっそり言つてゐました。できちゃった結婚で、農家に嫁ぎ、たいへんな苦勞をされたのでせうが、不平を言ふ譯でもなく、朝から晩まで忙し過ぎて旅行も行つたことがなく、そんな極東の嶋からよく訪ねて來なさつたねえ、と始終手を休めず笑顔で應えてくれました。

Dh000007 羊は牛と違ひ子供を育てる春から秋までしか乳が出ません。それ故、最盛期よりは少ないとのことですが、火に掛けて温まった乳にレンネット(凝固剤)を入れて豆腐状になつたものを型に流して行きます。ステンレスの流し臺を外すと下に丁度型が有りました。それでも餘る分は小分けして型に入れて行きます。或る程度水氣が切れたら、今度は全部引ッ繰り返す作業を續けます。娘さんがやると5秒位掛かるのですが、おかみさんがやるとものの2秒半位で、チャンチャンと収まつて行きます。速いですね、と聲を掛けると長いこと殆ど毎日やってるからとニッコリ。あれよあれよと片附いて行きます。

Dh000008 引ッ繰り返すことで水分が抜けるだけでなく、型の形が附いて上下がほぼ平らになつて行きます。プラスチックの籠なんて味氣ないと思つて訊いてみると、昔はテラコッタ(素焼きの陶器)で重くて割れてたいへんだつたのがアルミニウムになり、輕いのはいいがすぐに駄目になり、結局、強くて丈夫で衛生的なプラスチックになつたのださうです。入れ物ひとつにも歴史的背景があるものなのですね。この時點では鹽も振つてゐませんから、少し甘い離乳食のやうな感じですが、むせ返るやうな羊獨特の匂ひは部屋中に充滿してゐます。

Dh000009一晩寝かせて鹽をして、また引ッ繰り返し、休ませます。一週間位から數年寝かせたもの(瓶の中)まであり、長く貯藏すると固くなつて、味はひも鋭く辛くなるさうです。晝食の際には7種も食べさせてくれました。薪拾いから戻つたご主人を見ると、確かに年はとつたとは云へ、なかなかいい男です。今では屋根裏部屋を改装してアグリツーリズモとして、民宿も營んでるさうです。一泊朝食附きで30ユーロは格安です!

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2006年11月10日 (金)

シャケトラ

Dh000126_1 ジェノヴァから南東に地中海沿ひに下ったチンクエテッレの醸造所も見學して來ました。協同組合の施設でしたが、この邊りは皆零細農家で醸造設備がないのだとか。もともと崖の岩を崩し、段々畑にして他との接触すらなく1000年は過ごして來たなんて話しを聞くと、人の力の凄さ、時代を超える何かがあるのかと思ひます。戰後、道路ができるのも反對した位結束が強く、長男の他、男兄弟は勞力として歡迎されましたが、女の子だとがっかりしたんださうです。さう云ふ辛い土地での葡萄栽培も代替はりと共に減る一方なので、殘念がつてゐました。

 世界遺産に指定されて脚光を浴びてゐる「チンクエテッレ」とは5つの漁村と云ふ意味ださうですが、小さな港町ですが一部漁業関係者以外の農家は海を見る與裕はなかつたさうです。下を見たら落ちます。それ位凄い壁のやうな岩山肌です。チンクエテッレと云ふ名の地元品種の辛口の他、此処の「シャケトラ」が有名です。最初この言葉を聞いた時は日本語の「鮭虎」かと思ひましたが、陰干しして糖分の増した葡萄から造る天然甘口ワインです。

Dh000137_1 350ミリリットルの半瓶で35ユーロと安くありません。農民の血と汗の結晶だと思ふと、大事に飲まねばと思ひます。獨逸の極甘口貴腐ワイン、トロッケンベーレンアウスレーゼとは違ひ、アルコール度數もそこそこ有り、甘いと云つても干し葡萄の風味そのままで、飽くまで伊太利の青い空のやうな爽やかさがあります。

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2006年11月 9日 (木)

ヴィラ・スパリーナ

Dh000030 ピエモンテの代表的白ワイン、ガヴィの産地にも行きました。ガヴィの町は丘の中腹か山頂近くに在る思ひの他小さな町で吃驚です。建物の迫る狭い通りを抜け、そこから更に丘を越え、森を越えて行きます。やっと見えて來たヴィラ・スパリーナ(Villa Sparina)は實は高速道路からも程近く、敷地内に小さなホテルを經營し、最近リストランテまで開業を始めたやり手の葡萄酒醸造所です。原料となるコルテーゼ種が回りを囲むやうに植ゑられてゐて、17世紀からの地下藏も整備されて使ひ勝手もよいやうです。泊まり客は無料試飲と地下藏見學が許されてゐますが、さうでないと有料ださうです。此処でもスプマンテが造られてをりますが、瓶内二次醗酵故、シャムパーニュのやうな細かい泡立ちとコクのある辛口が素敵です。バリック樽も綺麗に並べられ、自家製サラミも貯藏されてゐましたが、これがまた美味しい。分けて貰へないかと真劍に惱みました。

Dh000044 此処のガヴィはずんぐりむっくりとした可愛らしい瓶にも人氣があり、中身だけでなく差別化が成功してゐます。若々しく、輕快な味はひは特に料理を選ばず、廣く一緒に飲めさうです。赤ワインは同じ形の黒瓶に入つたバルベーラ種でしたが、思ひの他重く、しっかりとした味はひでした。大金持ちがお金を掛けてワインを造り、意匠を凝らして瓶やラベルをデザインさせた感じですね。

 此の邊でも朝は霧(ネッビア)で霞ます。霧が出る頃に収穫するのでバローロの葡萄品種ネッビオーロは名附けられたのだとか。


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2006年11月 8日 (水)

エリオ・アルターレ

 ラ・モッラのリストランテで白トリュフを食べてゐた時、隣の卓子に着いた面々を何処かで見た氣がしました。係の者に尋ねると、近くのワイナリーの人ですよと氣輕に言ひますが、それは「バローロ・ボーイズ」と呼ばれた、1980年代にバローロの可能性を信じて單なる地元ワインから、世界に名を廣めるやうな高品質のワインを造り出した醸造家の一人、エリオ・アルターレさんでした。それまでは自分の所で醸造することなく、大手ワイナリーに葡萄を賣却するだけの葡萄農家が多かつたのです。

Dh000104 伊太利のソムリエの資格をもつ我々の良き通譯、池田美幸さんの懇願により、翌日藏を見せて頂くこととなりました。バローロ・ボーイズの中でも「最高の造り手」、または「バローロ・ボーイズの頂點」と賞賛されるエリオ・アルターレ(Elio Altare)さんは、よいワインを造る爲には熟成用の小樽(バリック)が必要だと、内緒で代々傳はる大樽を鋸で真っ二つにして、親に勘當されたこともあつたさうです。ラ・モッラ村から下ること半ばに横道に入ると藏は在りました。裏はテラスで葡萄畑を一望にできる飼ひ犬すら見惚れる程の素晴らしい見晴らしです。

Dh000110Dh000111 ワイン造りとは何か、自分の哲學を延々と話し、それぢゃ貴重な話しを聞いたんだから帽子持って回るかな(心附けをくれ)と冗談ばかり言ひます。小さな農家が土地を守りワイン造りができないやうではいけない。環境にも優しくない。大企業だけに任せてはいけないんだ、とそれまでの經驗を語つてくれました。
 地下藏へ下りると、折角だから醗酵途中のものも飲ませてあげようと、ステンレスタンクの口を捻り、生温かくて、まだ甘い、ピチピチ炭酸が舌を刺戟するものも味はせてくれました。本來賣りものになるワインの素ですから、試飲させてくれることは非常に稀です(歡迎されてる?)。そして、整然と並んだバリックを自慢げに見せてくれました。オレが若い時にはこんな小樽を使つてるのはバローロに誰も居なかった。でも、もっといいものを造りたいと思ひ、試行錯誤の結果がかうなんだ。今では喰ふに困らなくなり、上の娘は獨逸へ留學させたら、あっちで彼氏をつくりやがって… 話しは飛びます。オレは最近買つた別荘へ行くからと、試飲は奥様に代はりました。別荘はなんとチンクエテッレに在るのだとか。何だ翌々日、我々も行くよと傳へると、君たちはどう云ふ團體かい、と目を丸くしてました。伊太利人も羨むやうな白トリュフに、南の海に面したポルトフィーノや世界遺産チンクエテッレに行くとはねえ。おったまげたと!

 日本で買ふと1萬圓を下ることはなく、然も數が限られてゐる爲殆ど手に入らないエリオ・アルターレのバローロ。普段飲むにはドルチェットが良いとか、バルベーラ、ランゲ・ロッソと飲み、2002(平成14)年のバローロは雹が降り全滅したので作れなかつたとか、「リンシエメ」と云ふ混醸ものを仲間で同じ名前で出したとか、話しを聞き乍らゆっくり、じっくり試飲させて貰ひました。殘念なのは有名な「アルボリーナ」は既に完賣して在庫がなかつたことでせうか。

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2006年11月 7日 (火)

コンテルノ・ファンティーノ

 今回最初に訪れたバローロの醸造所は「コンテルノ・ファンティーノ(Conterno Fantino)」です。コンテルノ兄弟とグイド・ファンティーノ氏の三人が1982(昭和57)年に、モンフォルティ・ダルバの丘の上に近代的な醸造所を構へたのが始まりです。彼らが所有する34ヘクタールの畑の内、丘陵の上部は海抜後500米を超える冷涼地なので、晩熟のネッビオーロには適してゐません。それ故、代はりにドルチェット種が植ゑられ、他にバルベーラやシャルドネもあります。

Dh000080 丘を登ると小さな看板があり、來意を傳へると遠隔操作で鐵門が開きます。まだまだ坂を上がる兩側には葡萄畑が續き、天邊に藏はありまあした。煉瓦に蔦の絡まる山吹色の建物の中は恐ろしく綺麗に清掃され、藏の中を順繰りに説明して見せてくれました。ステンレスタンクで醗酵後、バリック(水楢の小樽)で12箇月またはそれ以上熟成させる爲、非常にタンニンが多く、10年後にやっと飲み頃がやって來る感じです。

 普通バローロと云ふと大樽で熟成させた、まろやかで複雑味が買りものですが、これはそんな概念を吹き飛ばす重くてしっかりとした味はひです。試飲室には醸造を擔當してゐる創設者の一人がをり、近所のおじさんたちに囲まれて説明を盛んにしてゐました。ところがその多くの人たちは冷やかしであつたのか、赤ら顔のまま歸へりましたが、もう一方の2人は箱で山程買ひ、車に載せてにこやかに行つてしまひました。我々はと云ふと、今後の旅程を踏まえ、自分の體力とも相談し乍ら買はねばなりません。伊太利では郵便事情が惡いですから、此処から送つたとしても届く保障がありません。その結果、手に持てるだけしか買ふことができません。

Dh000078_1 2002(平成14)年は天候不順であつた爲、個別畑名でワインは造らず、バローロは全て混醸し、逆に通常より質の高いバローロになつてゐました。遠くからわざわざ來たからと他の人には賣らない、個人貯藏庫から以前借りてゐたパルージ(Parussi)畑のバローロ1998(平成10)年ものを用意して下さり、一同感激です。それにしても、とてつもないタンニンは何時頃解けるのでせうかねえ。10年後、若しくは20年後なのでせうか。先を見る樂しみもワインにはあります。

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2006年11月 6日 (月)

ヴェルモット

 ピエモンテ發祥のひとつに、ヴェルモット(vermouth)もあります。苦蓬(ニガヨモギ)等藥草や香辛料を白ワインに漬け込んで造るワインのことで、英語ではアロマタイズドワインとか、フレーバード・ワインと呼ばれてゐます。
 カルパノ(Carpano)社は1786(天明6)年にプント・エ・メスを發賣し、先驅けとなりました。ヴェルモットは獨逸語のヴェルムート(苦蓬)から名附けられ、通常15~40種の香草、藥草が配合されてゐます。色はカラメル色素により附ける爲、その量により赤にも白にもなります。

 また、ヴェルモットはカクテルの材料としても使はれ、辛口と甘口が有ります。伊太利ヴェルモットは主に甘口で、カクテル「マンハッタン」に使はれます。チンザノ(Cinzano)社やマルティーニ(Martini)社製のものが何処でも手に入ります。それに對して、佛蘭西産のヴェルモットは主に辛口で、カクテル「マティーニ」の原料となり、ノイリー・プラット(Noilly Prat)社製のものが多く使はれてゐます。

Dh000023 今回はアスティに工場を持ち、發泡酒(スプマンテ)も造るペルリーノ(Perlino)を訪ねました。工場内もスプマンテとヴェルモット部門に分かれてゐます。大量生産により安く供給する爲、スプマンテの原料となるモスカート種の果汁は、年に一度秋に収穫されて搾られたものを低温で仕舞つてをく巨大な貯藏施設があり、加壓タンクで發泡酒が造られます。そして、瓶詰め後箱詰めされたものが2階分位に積み上げられて、手際よく捌かれてゐました。また、各國向けの獨自混醸により完成したヴェルモットは、液體のままタンクローリー車で運び出され、その國で瓶詰めされます。手造りのワインばかり見てゐた我々には桁違ひに大きな設備に吃驚でした。

 此処では、自慢のスプマンテと、古文書の記述から再生した特別ヴェルモットを試飲しました。通常、食前に飲むことが多いスプマンテもアスティ・スプマンテは甘口故食後に合ひ、ヴェルモットも熟成させた濃厚な甘味が猪口冷糖(チョコレート)に合ふとのことで、ビターチョコと一緒に味はひました。畫像はその美味さを堪能することが先行して、つひ忘れました。

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2006年11月 3日 (金)

猪口冷糖

Dh000292 これでチョコレートと讀みます。ご存知の通り、原料のカカオを脱脂し粉末状にして、牛乳や砂糖と混ぜて溶かして型に入れたものです。ですが、元は飲物でした。最近までそれを「ココア」と稱してゐましたが、「ホット・チョコレート」と云ふこともあります。トリノのカフェで飲める「ビチェリン」はこのホット・チョコレートと珈琲、それに牛乳の飲物でした。
 カカオは南米原産故、コロンブス以降、歐州に渡つたものです。カカオだけでは苦いので早くから砂糖で甘くして飲まれましたが、近頃カカオの%を記入した苦味(ビター)チョコレートも販賣されてゐますね。國産のミルク・チョコレートは生乳ではなく、脱脂粉乳を使ふ爲、滑らかさに欠け、コクがないので歐州系のビターが好みです。

 南米を征服した西班牙(スペイン)でしか飲まれなかったチョコレートもルイ13世(1601-1643)に西班牙からアンヌ・ド・オートリッシュ王女(西班牙語讀みはアンナ)がお輿入れして、佛蘭西にチョコレートがもたらされました。ピエモンテは佛蘭西の影響を色濃く受けたサヴォイア家の領地でしたから、その流れでチョコレートが飲まれるやうになつたのか、或ひは西班牙商人が直接傳へたのか定かではありませんが、新大陸の惠みとしてサヴォイア家で、また王侯貴族が飲んだやうです。チョコレートには疲勞恢復効果もあり、甘さと風味が庶民にまで早く廣まりました。
 ところが、佛蘭西革命以降ナポレオンが戰爭(1803-1815)を始めると、大陸を封鎖した爲、肝心のカカオが入らず、チョコレートは高價な物になつてしまひました。だからと云つて、一度美味しいものを知つた人間が簡單に諦められる筈がありません。入手困難なカカオの代はりに、ピエモンテの何処でも採れる榛(ハシバミ:ヘーゼルナッツ)を細かい粉末にして、カカオの少ないチョコレート擬きを作り、此処に「ジャンドゥイオット(複數だとジャンドゥイオッティ)」が完成したのです。

Gianduiotto 1865(慶應元)年に、「ジャンドゥイオット・チョコレート」は「櫛型」にされ、紙で包まれた形で初めて販賣され、翌々年の謝肉祭(カーニバル)で正式に發表されました。現在でも自家製「ジャンドゥイオット」を作る店がトリノには澤山在ります。「ジャンドゥーヤ」と呼ばれる瓶詰めの榛ペーストも有名ですが、日本に入つて來てゐる「ヌッテラ(Nutella)」はこの普及版と申せませう。

Dh000036 前置きが長すぎました。以前「ペイラーノ(Peyrano)」の工場を訪問しましたが、今回はトリノで最も高級とされるチョコレート屋「グイド・ゴッビーノ(Guido Gobino)」へ行きました。住宅街に在り、呼び鈴を鳴らさないと扉を開けてくれない店です。興味のある人だけが買ひに來ればいいと云ふ高級店ですので、仕立ての良い背廣の上品な男共が100ユーロ以上もまとめて買ひに來る所でした。明るく品のいい店内では試食もできます。壁を隔てたすぐ裏が工場ですから、外までチョコレートのいい香りが漂つてゐます。「ジャンドゥイオット」だけでなく、金貨型のチョコレート等梱包も意匠が凝らされ、原料カカオの違ひ出した味はひも格別で、高級感が漂ひます(上圖)。ミラノの百貨店では3倍の値段になるとも聞きました。たかがチョコレートかも知れませんが、奧が深いものですが、冬季のみ、六本木で限定販賣されるらしいです。

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2006年11月 2日 (木)

トリュフ工場

Dh000291 トリュフ工場と云つても、栽培工場ではありません。白トリュフの人口栽培はまだ實現してゐないので高いのです。此処では白トリュフ入りのパスタ、オリーヴ油、バター、パテ等加工食品を作る工場です。ミラノのマルペンサ空港免税店にもこの19番の細打ち麺は買ふこともできます。トリノやミラノの高級食材屋でも、この「タルトゥーフランゲ(Tartuflanghe)」の箱をよく見掛けました。前回來た時に感動したので、一昨年の「トスカーナ紀行」の際には我々だけで免税店の棚の商品を買ひ占めてしまひ、今回はじっくり試食(有料)もお願ひして、味はひ乍らの買ひ物です。此処で10ユーロのパスタが、免税店では14ユーロ、街中では19ユーロ程度です。トリュフ入りのチョコレートや瓶詰めデザート(トリュフなし)等もあり、工場直賣店ですので、加工前の生の白トリュフを買ひに訪れる人も結構居りました。我々のバスの運轉手も此処で白トリュフを一欠片買ひ、家に戻ると奥さんとふたりでパスタに掛けてトリュフ三昧を樂しむことができた、と感謝されてしまひました。トリノ市内では高くて買へないし、アルバの市場は何処の誰だかわからないのが相手なので薫りさへすれば高く賣れるものの、切つてみると酷い代物を掴まされることもあるとか。信用のおける所で買ふのが一番ださうです。

 晝食後なので、素晴らしい薫りに囲まれて、美味しいものの腹は膨れてゐるので澤山口に出來ません。話しをしてゐるうちにおかみさんが實は先月日本へ行つたのよ、なんて話しをするので何処へと訊いたら何と茂木のMotoGP日本大會と云ふので吃驚しました。地元出身のロドルフォ・ロルフォの出資者なのださうで、重要人物(VIP)席から觀戰し、パドックで選手と寫眞を撮ったものまで見せてくれました。背番號74番を着てましたので氣附いたとのこと。こちらは筋金入りの大治郎ファンですから、モータースポーツファンが多いのは心強かつたです。王者ヴァレンティーノ・ロッシのお陰でせうか。トリュフ屋でMotoGPの話しに華開くとは豫想もしませんでした。

 日本で食材も澤山買つたけれども、日本語表記ばかりで中身が判らないから見てく欲しい。言ひ終はるや否や、奧へ取つて返し、持つて來たのは、とろろ昆布、焼き海苔、梅干し、吟醸酒等日本獨自の食べ物や酒ばかりでした。細かく使ひ方、食べ方を教へてあげ、我々も兩手に持ち切れない程買ひ、お互ひに嬉しい一時でした。

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2006年11月 1日 (水)

トリュフ採取

Dh000134 トリュフ工場へ行つた際に、トリュフをどうやつて採るかお見せしませうと事前に云はれてゐました。秘密の道を通り、獨自の場所で採るのが見られるとなれば、行かない手はありません。朝方か夕暮れ時の薄ぼんやりした時間帶に探すさうです。我々の前に現れた御仁は既に仕事は引退し、趣味でトリュフ採りをしてゐるご老人でした。愛犬と共に楢や樫の林を歩き、犬に餌のパン切れをあげるとそれが合圖となつて、探し出します。見事見附けるとパンを一欠片あげます。「此処掘れ!ワンワン」状態です。手早く人が代はり、慎重に掘らないと商品に犬の爪で傷が附いてしまひます。地下30~50糎位のところで寝て待つてゐるのだとか。

Dh000137 ものの5分程度でこれ位のものを見附けました。アルバのトリュフ市で30~50ユーロはしてたものです。凄い、凄いと大騒ぎしてゐる間にもうひとつ。えっ、そんなに何処にでも在るものなのかなあ。都合3つも見附けたところで、公開實演(デモンストレーション)は終はりと云はれ、嗚呼、矢張り「やらせ」であつたのかと落胆しました。冷靜に考へてみれば、午後3時に工場の通りを挟んだ道路脇に都合よく在る筈もなく、薄々おかしいなあと思つてゐたのです。秘密の場所を教へる筈がありません。前日に仕込んだものを探すが如く、老人が犬に此処掘れと云ふ場面もあり、3つ目がすぐに見附からず、誰かに採られてゐないか随分心配した様子でした。それでも、工場の方の配慮でかうして採る様子が見られたのは良しとしませう。

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