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2007年5月31日 (木)

演目

P 1903年製プレイエル洋琴を聽く會の「プログラム」も此処に掲げてをきませう。

            プログラム

プレイエル: 《6つの小奏鳴曲》より第2,5,6番

フレデリック・ショパン: 《24の前奏曲集》 作品28より 第4,6,7,24番

フランツ・リスト(林川 崇編曲): おお、私が眠る時

ロッシーニ(リスト編曲): 《音樂の夜會》 第1番〈約束〉

リスト編曲: ベルリーニ歌劇《清教徒》の主題による敷衍(ふえん)曲

ショパン: 圓舞曲(ワルツ)第7番 嬰ハ短調 作品64の2

ショパン: 波蘭農民舞曲(マズルカ)第5番 變ロ長調 作品7-1

ショパン: 夜想曲(ノクターン)第2番 變ホ長調 作品9-2a
(ミクリ傳承~エキエル編による異稿)

ショパン: 夜想曲(ノクターン)第8番 變ニ長調 作品27-2
(レシェティツキー傳承による異稿)

ショパン: 波蘭民族舞踏曲(ポロネーズ)第6番 變イ長調 作品53 《英雄》

Pianos PLEYEL Model. No,5 ”Chinoiserie” 1903

 松原聡さん、林川崇さんが説明を交へ、交替で演奏して盛り上げてくれました。編曲が違ふと同じ曲でも随分と響きが違ひ、また演奏者が變はるとはっきりと違ふ音が飛び出すのが面白かつたです。

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2007年5月30日 (水)

アマンティーヌ=オロール=リュシル・デュパン

Sand サンドとはどんな人生を歩んだ人であつたのでせう。一寸調べてみました。1804(文化元)年7月1日、五年前に佛蘭西革命の舞臺となつたバスティーユの監獄に程近い、巴里のメレ街一五番地の屋根裏部屋でひとりの女の子が生まれました。アマンティーヌ=オロール=リュシル・デュパン、後にジョルジュ・サンドと名乘ります。曾祖父はザクセン選帝候フリードリヒ=アウグスト1世故、マリー=アントワネットのご主人ルイ16世とは、遠い姻戚関係にあります。4歳で父を喪ふものの、祖母の教養と慈愛を受け、豐かな自然に囲まれたノアンの館で成長しました。

 サンドの祖母が革命の混亂から逃れる爲に買つたノアンの館とその地所200ヘクタールは、巴里から南に凡そ300粁、佛蘭西中部、ベリー地方の農村地帶に在ります。サンドは此処で幼少期を過ごすだけでなく、生涯の多くの時を過ごすことになりました。

 サンドは型破りな自由と革新的な思想を持ち、勞働者や農民の生活改善に力して、不平等と貧困に反對し、書くことに激しい情熱を傾けた人でした。ノアンでは學校へは通はず、家庭教師から羅甸語、代數、博物學を學び、館の書庫から哲學書や文學書を讀み漁るかと思へば、祖母から音樂の手解きも受けただけではなく、近所の農家の子と野原で驅け回つたり、野良仕事も手傳ふ風變はりな少女でした。28歳で処女作『アンディアナ』を發表すると、執筆で一本立ちし、人前で平氣で煙草を吸ひ、歩き易いからと男装をして男名「ジョルジュ・サンド」を名乘り、色戀沙汰も多く、常に人々の噂に上る注目の女流作家となりました。

 當時のサンドは、夫デュドヴァン男爵と別居中であり、男爵との間にできた二兒、モーリスとソランジュの面倒も見てゐました。それ故、ショパンの弟子で友人のヴィルヘルム・フォン・レンツに拠れば、當時サンドは「デュドヴァン婦人」と呼ばれてゐたさうです。

 サンドはリストに紹介されて、ショパンと出逢ひます。二人は戀に落ち、1838(天保9)年には、體調を崩してゐた息子モーリスと、ショパンの病氣療養の爲、サンドは西班牙のマヨルカ嶋へ赴きました。その旅路では一時的に快方へ向かつたショパンでしたが、豚肉に大蒜、胡椒や唐辛子を効かせた現地の食べ物は病人の口に合ひません。脂肪分の少ない肉や魚、野菜に干した果物で命を繋ぐしかなく、一杯のコンソメやボルドーワインすら手に入らず、飲物と云へばマスカット・ワインか水しかありませんでした。雨季に入り、長雨が續くと乾パンのやうなものしか手に入らず、サンドは苦勞して食材を調達してゐますが、ショパンは滅入るだけでなく、餘計に健康を害すこととなり、這々の體で巴里へと戻ることになりました。

 その後、伊太利旅行の末、1839(天保10)年6月1日、初めてショパンをノアンの館へ招き、10月まで一緒に過ごしました。以降、1840(天保11)年を除き、1846(弘化3)年まで計7回の夏をノアンで過ごし、創作に没頭してゐます。病弱なショパンに對し、サンドは母親のやうに世話をし、愛情を注ぎました。初めてこの田園風景を見た時、思はず生まれ故郷、波蘭(ポーランド)の「ジェラゾヴァ・ヴォラに似てゐる」と呟いたとか。今も主要幹線道路から外れ、でこぼこの砂利道を歩かないと行き着きません。サンドとショパンは巴里から30時間も馬車に揺られて、やっと到着したのでした。

 1846(弘化3)年になると、母親の愛を獨占したい二三歳のモーリスは、惜しみない愛情を受けるショパンの存在に我慢がならず、口論が頻發し、あからさまな嫌がらせをし始めました。母親に疎まれてゐた18歳の妹ソランジュと彫刻家クレザンジェの結婚問題で、ショパンが娘側に就くことに因り、險惡な共謀関係が出來上がつてしまひ、母と娘の對立にショパンは巻き込まれてしまひます。或る夜、取るに足らない諍ひから大喧嘩となり、ショパンは11月11日、一人巴里に向け立ち去つて行くのでした。翌年の7月28日に離別の手紙をサンドが送り、二人の間に幕が下ろされました。
 お互ひに傷附き、ショパンは病状が恢復することなく、1849年(嘉永2)10月19日に息を引き取つてゐますが、サンドはその後も活躍を續け、1876(明治9)年6月8日、愛するノアンの館で息を引き取つてゐます。

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2007年5月29日 (火)

サンドのレシピ

 プレイエルを愛したショパン繋がりで、當日はジョルジュ・サンド家の傳はり調理法を記した本"A la table de George Sand"から料理を再現しました。これは1987(昭和62)年にサンドの孫娘オロールの養子の妻、クリスティアーヌ・サンドが、相續した調理法やメモ等を整理して一冊の本にしたものです。

 男尊女卑の蔓延る19世紀に、小説収入で自由人として生きたサンドは歩き易いから、と男装したり、葉巻を吸つたり型破りな女性でした。彼女が育ち、住んだベリー地方のノアンの館では、基本的に自給自足で、夕飯の定番は「若鶏のフリカッセ」であったさうです。庭で飼つてゐた鶏を潰し、玉葱とベシャメルソースで煮込む單純な田舎料理です。大勢のお客が來る時は兎や鶉も食卓に上り、近くの川で捕れた石斑魚(ウグイ)や鯉、鱒はフライにしたり、ザリガニの殻からは出汁を取り、ソースにして身はオムレツに入れたりもしてゐます。

 森では栗や扁桃(アーモンド)を拾い甘く煮てコムポートにしたり、特にサンドは「焼き林檎」が得意で、愛情を込めて孫たちに焼いたものでした。初夏には櫻桃(サクランボ)が撓わになるのでタルトにされ、また保存食としてジャムなどにもされたやうです。さて當日は

Dîner de George Sand
Samedi, 19. Mai 2007
  M E N U

Terrine de Foie Gras
フォア・グラのテリーヌ

Homard à l'Américaine
オマール海老 亞米利加風

Filet de Boeuf à la Béarnaise
牛フィレ肉 ベアルヌ風

Desert_1Grand Gâteau de Cerises Alsacien et Gnocchis
櫻桃タルト アルザス風とサンドの調理法によりニョッキ

Café
珈 琲

 この中に唯一サンド直傳のニョッキがあります。併し、これがくせものでして、再現に一番苦勞しました。牛乳、小麦粉、卵黄、檸檬の皮、粉砂糖に肉桂(シナモン)を使ひます。馬鈴薯も南瓜も使ひません、小麦粉が原料です。ニョッキと云ふより甘いので「ういろう」です。最初は海老の添へものに使ふつもりでしたが、砂糖が入るので急遽デザートにしました。シェフはこんなものが美味い筈がないと、調理法を見ただけで嫌がりましたが、お客さんの評判は上々でした。當時はとびきり美味しいと感じられた料理なのでせうね。ワインはノアンの近くを流れる川の本流、ロワール河流域のワインを出しました。


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2007年5月28日 (月)

プレイエル

P2 5月19日(土)に1903年製プレイエルピアノ「中國趣味(シノワズリー)」を聽く會を開きました。洋琴(ピアノ)が製作會社により、随分と違ふことを感じました。普段演奏會で耳にするのは、殆どシュタインウェイですから、さうでないことははっきり解ります。100年以上も前のものですし、佛蘭西録音のコルトーSP盤と安直に比べられませんが、なかなかどうして、どでかい音がベルラン一杯に廣がり吃驚しました。うちの店は音響が結構よいのですが、此程店全體に音が回るとは思ひもしませんでしたね。

 漆塗りに象嵌を施したやうに見せかけ、洋琴に革を貼り、その上に模様を描いた歐州産のシノワズリーは理想郷としての東洋を描いてゐます。見てくれだけでなく、低音は一寸獨逸風でしたが、高音は別の香りがします。以前、獨逸で修理した爲、その時低音をいじったらしいとのこと。100年も前の樂器が現役で動いて、演奏されて、感動を呼び起こすのが凄いです。

P1 畫像はゲネプロ時の演奏者、松原聡さんと林川崇さんです。今年はプレイエル社創業200年に加へて、その創業者イグナース・プレイエル生誕250年と云ふ文字通り、記念の年に當たり、今回の催しは株式會社國立樂器の企畫協力及び貴重な樂器提供により實現致しました。

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2007年5月25日 (金)

子供と一緒に

 實は連休中に子供と一緒にツインリンクもてぎで「バイクDeあそぼう Enjoy キッズチャレンジ」に參加した爲、バイク熱が再燃してしまつたのです。世界選手権はテレビで欠かさず觀戰はしてゐましたが、實際に乘つてみるとこの季節は最高です。久々で發進でエンストするは、視線が下に下がり8の字に曲がれなかったり、頭で解ってゐて子供に教えても自分ができませんでした。これには大汗です。

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2007年5月24日 (木)

Grand Prix

 今年のMotoGPは全18戰。3月10日のカタール、西班牙、土耳古、中國、佛蘭西と來て、6月3日に伊太利(ムジェロ)、6月10日のカタロニア(カタロニア)、6月24日の英國(ドニントンパーク)、6月30日の和蘭(アッセン)、7月15日の獨逸(ザクセンリンク)と歐州戰が續き、夏休みを兼ねてか7月22日に亞米利加(ラグナセカ)、その後、日本では鈴鹿8時間耐久レースがあります。
 そして、8月19日のチェコ(ブルノ)から後半戦が始まり、9月2日にサン・マリノ(ミサノ)、9月16日に葡萄牙(エストリル)、そして秋分の日を挟んだ連休の9月23日に日本(茂木)を皮切りに太平洋戦です。10月14日に豪州(フィリップアイランド)、10月21日にマレーシア(セパン)の後、最終戰は11月4日にバレンシア(バレンシア)です。

 中2週間なれば、まだいいのですが、翌週となるとかなりきついと思はれます。木曜日に現地入り、金曜、土曜日と豫選を重ね、日曜日に決勝戰、そして月曜日に移動を繰り返すので、火・水曜日しか休めません。海を越える時は貨物航空ですが、 陸續きで移動できるところはサーカスの異名を持つやうに、大型の牽引車に牽かれてマシン、備品だけでなく、移動家屋も一緒に旅するさうです。單にレースに強いだけではいい選手たり得ませんね。

 故加藤大治郎は2001(平成13)年の世界選手権 GP250クラス、全16戰中、豫選一位のポール・ポジションが 6回、そして優勝11回も重ね、未だにこの記録は破られてゐません。ひょっとすると、今年は西班牙のホルヘ・ロレンソが打ち破るかも知れませんが、凄い偉業です。

MotoGP公式サイト

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2007年5月23日 (水)

攻めるロッシ

Rossi2 バイクでカーブを曲がるには手前で減速して、行きたい方向を見てると自然とそちらへ行くものなのですが、身體が忘れてゐたのでだいぶ苦勞しました。頭で理論が判つてゐても、10數年も乘らないと駄目ですね。
 その點、世界最高峰、世界選手権(World Grand Prix)に出場する選手は見るも鮮やか、惚れ惚れする乘りこなし方です。日本人なら、故加藤大治郎選手の乘り方は綺麗でした。いつもカーブを曲がり、同じ位置から加速するので、ブレーキをどんどん遅らせて、限界を探つて小數點以下の秒數を刻んで行くのでした。頭の位置がぶれない、どんなバイクでも乘りこなした大ちゃんは私の永遠のヒーローです。
 現在、ブレーキングが上手なのはヴァレンティーノ・ロッシでせう。「王者」の名に相應しい走りです。調子の良いドカッティ&ブリジストン・タイヤは直線で早い爲、カーブのブレーキを遅くして、そこで抜き去るしかありません。上海GPでは殆どロッシのカーブの妙技を見てゐるやうな感じでした。佛蘭西GPでは途中の雨で、タイヤの選擇を誤つたのか、同じカーブで抜かされて氣の毒でした。これから續く歐州戰線で、表彰臺の真ん中で笑ふロッシを見たいものです。

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2007年5月22日 (火)

安全教室

 連休中にアクティブ・セーフティ・トレーニング・パーク(活動的安全訓練公園)で、自動二輪(バイク)の初級半日コースに參加しました。基本動作の確認なのでしたが、ペーパーライダーには焦ることばかりでした。
 まづ點檢から!普段、車でもやってゐませんね。そして、自分で車種を選んで乘車します。ここで750ccを間違へて選んでしまひ、戻すだけで一汗かいて、さてやっと400ccを指定位置まで出すのに、へっぴり腰。車體に腰を附けて動かせばよいと説明されたので、頭で理解してゐるのに、身體は云ふことをききません。キックではなく、エンヂンをスタートさせる釦が判らず、これまたパニック。やっと見附けてスタートしても、前の人と同じコースを辿れません。ブレーキングと、加速・減速、それに低速でのバランスと云ふ基本中の基本なのに、滿足にできるものは何もなし。よくまあ、免許取れたなあと思ふ程酷いものでした。舊車しか乘つてゐなかつたのですから、仕方ないか。お氣樂なものを一臺買つて、練習が必要かも知れません。

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2007年5月21日 (月)

BMW R-26

R26_1 空冷4サイクル直立單氣筒OHVのエンヂンを積んだ排氣量250ccのバイクに乘つてました。今も所有して、税金と保險だけは拂つてゐますが、子供が生まれて以來、殆ど乘つてゐないので、分解して點檢、修理が必要です。豪州の知人が探してくれて、個人輸入したものですが、時速60粁位で非常に震動があるのですが、高速走行も氣持ちよく、低速でもシャフトドライブで後輪が驅動するのでがっちり大地を掴む感じでトコトコ走ります。15馬力しかないので、カブに發進で抜かされますが、そこはヴィンテージ・バイク(舊車)ですから、悠然として走ります。然も、左側のキックを蹴るのも大變で、乾式クラッチなので、カツンと繋がると身體を置いて行かれます。苦勞するからこそ、乘り甲斐もあります。今年は修理をして、來年には乘れることでせう。

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2007年5月18日 (金)

ヴィニフレート

P4270007 トスカニーニですらジークフリートの人柄に惹かれてやって來たのですが、1930(昭和5)年に急死してしまひ、仕方なく未亡人ヴィニフレートがバイロイト音樂祭を引き繼ぎました。個人經營の音樂祭ですから、資金繰りその他色々苦勞もあつたのでせう、以前より親しかった國家社會主義獨逸勞働者黨(ナチス)のヒトラーを招き入れた爲、ナチスの祭典のやうになつて行きます。彼女は戰後は表舞臺から遠離りますが、ずっとバイロイトに住み續け、彼女の集まりではヒトラーの惡口は聞かれなかったとか。

 ○歌劇《ローエングリン》より〈グラール聖杯物語〉
 Franz Völker (Lohengrin), Heinz Tietjen (Dir.) Orchester des Festspielhauses Bayreuth Telefunken Bayreuth SKB 02049 (021335-3, 021338) 1936年8月29,24日録音
 フランクフルトの銀行であつたのをクレメンス・クラウスに見出されて歌手になつた異色のテノール。甘い美聲はさすがです。

P4270017 ○樂劇《ワルキューレ》より〈冬の嵐は過ぎ去り〉
 Franz Völker (Siegmund), Maria Müller (Sieglinde), Heinz Tietjen (Dir.) Orchester des Festspielhauses Bayreuth Telefunken Bayreuth SKB02048, 47B (021341-2, 021342-1, 021340) 1936年8月24日録音
 1幕最後まで入れられてゐますが、フェルカーとミュラーの掛け合ひもよく、緊迫感のある録音。これは實況録音(ライブ)のやうな趣があるので、オケはピットに入つて録音されたのでせう。

 ○樂劇《ジークフリート》より〈森の囁き〉
 Max Lorenz (Siegfried), Heinz Tietjen (Dir.) Orchester des Festspielhauses Bayreuth Telefunken Bayreuth SKB 02055 (021336-X, 021337-X) 1936年8月20日録音
 30年代を代表するヘルデン・テノールのローレンツは輝かしい聲が魅力。やや線の細いフェルカーに比べると、太くがっちりとした歌ひ方。

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2007年5月17日 (木)

全曲録音

 ジークフリートの招きでトスカニーニがバイロイトに登場したのが1930(昭和5)年のこと。歌劇《タンホイザー》を振ることになつてゐました。勿論、録音も企てられたのでせうが、ヴィクター(HMV)に屬する指揮者を英國コロムビアが勝手に録音できる譯もなく、1928(昭和3)年に《トリスタン》全曲を入れたカール・エルメンドルフが擔當して、録音が行はれました。併し、これら完全な全曲ではありません。幾つか省略があります。もしかすると、全曲のつもりで録音を開始したものの、それまでに失敗やら録り直しやらで手間を喰って、補充の効かない原盤が足りなくなり斷念したのかも知れませんね。

 ○樂劇《トリスタンとイゾルデ》より〈愛の死〉
Nanny Larsen-Todsen (Isolde), Karl Elmendorff (Dir.) Orchester des Festspielhauses Bayreuth Columbia DWX1291 (WAX3986, 3987)
 今とは違ふ19世紀的な古い歌ひ方が、却つて魅力的です。

 ○歌劇《タンホイザー》より〈宵星の歌〉
Herbert Janssen (Wolfram von Eschenbach), Karl Elmendorff (Dir.) Orchester des Festspielhauses Bayreuth
Columbia LWX3315 (WAX5715)
 バリトン獨唱曲は少なく、これはしっとりとした魅力溢れる曲ですが、全曲録音から抜き出されてこの曲だけでも再販されてゐます。聲のよさが光ります。

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2007年5月16日 (水)

ムックとジークフリート

P4270001 戰前のバイロイト音樂祭は毎年行はれてゐた譯ではなく、2年續けて1年休みと云ふ感じでした。コージマの跡を引き繼いだ息子ジークフリートは、兎に角、父の頃の演奏形態をそのまま踏襲するのを善しとして、同じ指揮者が長く同じ曲を振る體制にしてゐました。特に他での演奏を禁じてゐた《パルジファル》は1920年代はカール・ムックとジークフリートが交代で擔當して、傳統をそのままの形で見せてゐました。他で上演できない以上、此処でしか聽けない《パルジファル》の抜萃盤アルバムとして、英國コロムビアから発賣されました。

P4270011 ○舞臺神聖祝典劇《パルジファル》より〈聖杯騎士の合唱〉
 Karl Muck (Dir.) Hugo Rüdel (Chor-Meister) Chor und Orchester des Festspielhauses Bayreuth
Columbia 67365/67 (WAX3012-1, 3013-2, 3014-2, 3015-1, 3016-1, 3017-1)
 ゆったりとしたテムポで進むところはクナッパーツブッシュにも似てゐます。合唱が上手で、聲も前に出てゐて録音の古さとかを全く感じさせず、非常にいい!ムックは埋もれた指揮者ですが、いい演奏をしてゐます。

P4270010 ○舞臺神聖祝典劇《パルジファル》より〈聖金曜日の奇跡〉
 Fritz Wolff (Parsifal), Alexander Kipnis (Gurnemanz) Siegfried Wagner (Dir.) Orchester des Festspielhauses Bayreuth Columbia 67370D/71DA (WAX3020-1, 3021-1, 3022-1)
 ジークフリートの指揮と云ふだけで興味津々でした。極めて中庸を保ち、極々真面目に振つてゐます。指揮としても面白味はありませんが、性格温厚さが出てゐるのかも知れませんね。


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2007年5月15日 (火)

ヘスリン

 「SP期に於けるバイロイト録音」で最初に掛けたのはフランツ・フォン・ヘスリン指揮、バイロイト祝祭歌劇場管絃樂團で1927(昭和2)年8月に入れられたもの。英國コロムビアの録音技師たちは、オケピットが深くて半圓の覆いが被さり、觀客席から見えないバイロイト祝祭歌劇場特有の配置を使はず、客席を取り拂ひ、そこに演奏者を並べて録音しました。

 ○樂劇《ラインの黄金》より〈神々の入場〉
Maria Nezadal (Woglunde), Minni Ruske-Leopold (Wellgunde), Charlotte Müller (Flosshilde), Franz von Hoesslin (Dir.) Orchester des Festspielhauses Bayreuth Columbia L2016 (WAX3002. 3003)
本來舞臺袖で歌ふ「ラインの乙女」の歌聲が真ッ正面から大きく、くっきり聞こえて來ます。

 ○樂劇《ワルキューレ》より〈ワルキューレの騎行〉
Franz von Hoesslin (Dir.) Orchester des Festspielhauses Bayreuth Columbia L2017 (WAX3004, 3005)
歌入りで堂々としたもの。神保町では随分と安く賣られてゐました。

 ○樂劇《ジークフリート》より〈炎の音樂〉
Franz von Hoesslin (Dir.) Orchester des Festspielhauses Bayreuth Columbia L2015B (WAX3001)
何故かこれだけ回轉數が80となつてゐたのに氣附かずに掛けた爲、再度正しい速度で掛けました。併し、78の方が曲に勢ひが出てよかつたです。

 このフランツ・フォン・ヘスリンと云ふ指揮者は1885(明治18)年12月31日生まれで、1946(昭和21)年9月25日に亡くなつてゐます。ところが、殆ど名前が知られてゐない所為か、彼のSP盤は人氣がありません。今回のSP盤を聽く限り、堂々とした立派な演奏してゐます。

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2007年5月14日 (月)

ワーグナー

 連休前の4月21日(土)に「蓄音機の會」ワーグナー特輯、特別企畫として「SP期に於けるバイロイト録音」と題して、初期電氣録音から1936(昭和11)年の録音まで聽く會を開きました。解説は私では役不足なので、『ワーグナー』の著者、吉田真さんをお招きしてお話しして頂きました。吉田さんは獨逸文學者として慶應大學の講師をされてをりますが、さすが話し慣れてらっしゃり、長身からバリトンのいい聲が響き、ワーグナー好きが多く集まりました。この場を借りて、改めて御禮申し上げます。

 さて、大きく分けると、リヒャルト・ワーグナーの息子ジークフリートの時代とその後のヴィニフレート・ワーグナーの時代に分けられ、録音方式も随分と違つてゐた爲、それはきちんと音に入つてゐて、今の我々にも如實に傳はります。ワーグナーの聖地バイロイトで録音すると云ふことが、ワーグナー好きにはたまらない企畫であり、最初に録音を試みた英國コロムビアの技師たちは、きっと昂奮してゐたに違ひありません。



作曲家 人と作品 ワーグナー


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作曲家 人と作品 ワーグナー


著者:吉田 真

販売元:音楽之友社

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2007年5月11日 (金)

パナマ帽

P1000147 夏はパナマ帽でせう。元々、中南米の農夫が被つてゐたものを、農場主が日除けの帽子として使ひ、1895(明治28)年に亞米利加軍人がパナマで發見し、自國へ持ち歸へつてから、徐々に廣まつたやうです。1906(明治39)年には、當時の米大統領、セオドア・ルーズベルトがパナマ運河視察時に特に氣に入り、吉田茂も愛用してゐました。これは、盛夏や熱帯用の日除けですから、夜被るのは御法度ですね。

P1000144 實はこのパナマ、織り込む麻の太さで値段が一桁違ひます。初めて、手にしたのは布哇のロイヤル・ハワイアンと云ふ桃色のホテル内の専門店でした。當時600弗もしたので、目から火が噴く程驚きましたが、随分使ひました。安物は1年と持ちませんから、7年もてば元が取れた勘定です。特に嚴しく言はれたのは「トップのツマミを持たぬこと!」。此処を摘む内に、パナマが折れて破れるからで、ソフト帽でも、必ず鍔を持つて被るものです。ですから、このやうに幾年か經るとトップが壊れてしまひます。

P1000145_1P1000146 3代目は文二郎帽子店で誂えたもの。4代目はボルサリーノで俗に「筋入り」と云ふ形で、折り曲げて旅行に携帶するやうに出來てゐます(最初の畫像)。5代目は佛蘭西製のモンテクリストフ。やや山高で、リボンが細いものの特賣品を入手。さうして、6代目は一番安く、普段被つてゐます。但し、手垢や汗に日焼けで2年目となると、もう色が變はつて來てゐます。

P1000150 麦藁も勿論被ります。英國では「ボーダー」と呼ぶ、元はネルソン提督が海軍の制帽と定めた、「カンカン帽」です。主に夏の浴衣の時に被りますが、「撮影ですか」と訊かれるのは閉口します。流行ではなく、自分に似合ふものを探すのも結構お金が掛かりますねえ。 

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2007年5月10日 (木)

中折れ帽

P1000149 山の中央部に溝を作つて被るので「中折れ帽」と云ひます。フェルト等の柔らかい生地で作つてゐるので「ソフト帽」とも云ひます。これは勤め人の帽子でした。父の記憶では、以前歌舞伎座の座席の下には、この帽子が丁度収まるやうになつてゐたさうです。座席の裏側に針金で枠があり、そこにソフト帽の鍔(ツバ)が引ッ掛かるやうにできてゐたのだとか。

 昨年、伊太利へ赴いた時に真ッ先にボルサリーノの店を訪ねました。併し、山が高く、然も頭の形が前後に長い歐米人に似合ふものが、私のやうな丸い頭には、どうもしっくり來ないので諦めたのでした。併し、銀座に在る「トラヤ」へ行くと、矢張りボルサリーノが置いてありますが、何か違ひます。訊くと、これは日本人向けにトラヤが發注して、ボルサリーノに特別に作られたものだと云ふのです。他にも鍔の廣いものとか、微妙に違ふものもあり、伊太利よりも逆に豐富に揃へてある感じでした。それで、幾つか被って、灰色の色合ひ、リボンの太いのも氣に入り、これを頂きました。被る際には前の廂をやや下向きにして被ります。氣分は映畫『ボルサリーノ』のドロンのやうですが、電車の中では視線を感じますね。

P1000148 背廣はこれでいいのですが、スモーキング(タキシード)のやうな略式夜會服にはもうひとつ上のシルクハットか「ホムブルク」(畫像)が必要となります。中折れは同じなのですが、縁取りがあり、硬い生地で出來てゐますから、ソフトではありません。1860年代に獨逸の温泉地ホムブルクで流行つたものらしく、英國皇太子(後のエドワード7世)が、1889年に本國に持ち歸へり、上流階級に廣まったさうです。その後、1910年頃亞米利加でも流行し、外交官から勤め人まで被るやうになつた、シルクハットに次ぐ上等な帽子です。冬に二重回し(インバネス)を着る時は、これでないと収まりが惡いと云ふものでせう。

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2007年5月 9日 (水)

鳥打ち帽

P1000142前に廂(ヒサシ)が附くのはキャップと一緒ですが、天邊(テッペン)が丸くて平たいのが「鳥打ち帽」です。英語の狩獵から「ハンチング(Hunting)」とも呼ばれます。大きな廂では咄嗟に鐵砲を構へて、鳥を撃つのは難しいので、自然とこの形となつたのでせう。
 耳當てが折り疊んで附いてゐるものや、素材が毛織物や麻であつたり、季節を問はず被れるので、重寶してゐます。但し、背廣には似合ひません。どうしても、徒弟か集金人しか見えず、ちゃんとした所へは被つては行けませんね。

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2007年5月 8日 (火)

キャップ

P1000140 一昔前は「野球帽」と言つてゐたものが、いつの間にか「キャップ」と稱するやうになつてゐます。その昔、東京の子供は巨人軍の野球帽と決まつてゐたのですが、親父が野球に興味がなく、ナイトゲームも見ない家でしたから、私は被りませんでした。併し、母の實家の岐阜縣へ夏休みに行くと、もう近所の子は皆、當り前のやうに蒼い中日の帽子で吃驚したものです。然も、一人麦藁帽で笑はれたものの、決して同じものを被ることもない「東京者」を通しました。

 以前は弟から貰つた紐育ヤンキースの網目(メッシュ)の風通しがよく、日除けに使つてゐましたが、後ろの調整ボタンが壊れてから、今では専らGrand Prixライダー故加藤大治郎のものばかりです。近所へ一寸出る時や子供と公園に行くのに最適です。
 栃木縣茂木で行はれる自動二輪世界選手権(World Grand Prix)日本大會では、決まつて「大治郎シート」から應援してゐるので、青一色に染まるやうに揃ひのTシャツと青い帽子を被ります。1000人近くの人が一箇所で同じ色になると壮觀です。黒地に黄色のものは生前関係者に配つたものを友人のプロスキーヤーから頂き、その傳手(ツテ)で、ご本人が被つてゐた赤地のものを未亡人から譲り受けました。ご本人が特に氣に入つて被つてゐたとのことで、これはもう寶です。只、大ちゃんは頭が小さく、私のやうに横廣で丸い頭には似合はない意匠(デザイン)なので、被つても、今ひとつ似合ひませんから、飾つてゐます。

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2007年5月 7日 (月)

帽子

P1000151 近頃、出掛ける際は必ず帽子を被るやうになりました。休日は鳥打ち帽かキャップ、通勤やパーティー等背廣にはソフト帽、二重回し(インヴァネス)の外套の際はホムブルク、そして夏はパナマ帽(畫像)かカンカン帽がすっかり定番となりました。何となく髭に合はせて、日焼けを防ぐ爲、先人に倣つて始めただけなのですが、慣れると頭の上に何もないと案外落ち着かないものです。

 もともと、特定の帽子は身分を現すものでもあり、勤め人はソフト帽、手代や配達人は鳥打ち帽と決まつてゐたやうです。服装で身分が判る時代はレストランでも非常に都合がよく、初めていらっしゃるお客さんに對する言葉遣ひや對應もそれに合はせることができました。今では、小汚いジーンズの人が實は大金持ちのロック・ミュージシャンで、澤山使つてくれることもあり、雰圍氣や場所に應じた服装をしない人が多いので困ることも多々あります。

 帽子は、單純に屋外で被り、屋内では脱ぐのが基本です。縁なしニット帽であつたり、キャップを食事の際にも被り續ける神經は解りませんが、單に禮儀を知らないだけなのでせう。うちの店なら、そっと注意してあげます。他に儀式や葬式、國歌斉唱も脱帽です。自動二輪(バイク)の世界選手権大會(Wordl Grand Prix)に於いて、表彰臺に上がつた日本人選手が、優勝者の國歌が流れてゐるのに、脱帽を知らず問題になつたこともあるさうです。身近なやうで、以外とさうでもないのが帽子です。

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