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2007年5月30日 (水)

アマンティーヌ=オロール=リュシル・デュパン

Sand サンドとはどんな人生を歩んだ人であつたのでせう。一寸調べてみました。1804(文化元)年7月1日、五年前に佛蘭西革命の舞臺となつたバスティーユの監獄に程近い、巴里のメレ街一五番地の屋根裏部屋でひとりの女の子が生まれました。アマンティーヌ=オロール=リュシル・デュパン、後にジョルジュ・サンドと名乘ります。曾祖父はザクセン選帝候フリードリヒ=アウグスト1世故、マリー=アントワネットのご主人ルイ16世とは、遠い姻戚関係にあります。4歳で父を喪ふものの、祖母の教養と慈愛を受け、豐かな自然に囲まれたノアンの館で成長しました。

 サンドの祖母が革命の混亂から逃れる爲に買つたノアンの館とその地所200ヘクタールは、巴里から南に凡そ300粁、佛蘭西中部、ベリー地方の農村地帶に在ります。サンドは此処で幼少期を過ごすだけでなく、生涯の多くの時を過ごすことになりました。

 サンドは型破りな自由と革新的な思想を持ち、勞働者や農民の生活改善に力して、不平等と貧困に反對し、書くことに激しい情熱を傾けた人でした。ノアンでは學校へは通はず、家庭教師から羅甸語、代數、博物學を學び、館の書庫から哲學書や文學書を讀み漁るかと思へば、祖母から音樂の手解きも受けただけではなく、近所の農家の子と野原で驅け回つたり、野良仕事も手傳ふ風變はりな少女でした。28歳で処女作『アンディアナ』を發表すると、執筆で一本立ちし、人前で平氣で煙草を吸ひ、歩き易いからと男装をして男名「ジョルジュ・サンド」を名乘り、色戀沙汰も多く、常に人々の噂に上る注目の女流作家となりました。

 當時のサンドは、夫デュドヴァン男爵と別居中であり、男爵との間にできた二兒、モーリスとソランジュの面倒も見てゐました。それ故、ショパンの弟子で友人のヴィルヘルム・フォン・レンツに拠れば、當時サンドは「デュドヴァン婦人」と呼ばれてゐたさうです。

 サンドはリストに紹介されて、ショパンと出逢ひます。二人は戀に落ち、1838(天保9)年には、體調を崩してゐた息子モーリスと、ショパンの病氣療養の爲、サンドは西班牙のマヨルカ嶋へ赴きました。その旅路では一時的に快方へ向かつたショパンでしたが、豚肉に大蒜、胡椒や唐辛子を効かせた現地の食べ物は病人の口に合ひません。脂肪分の少ない肉や魚、野菜に干した果物で命を繋ぐしかなく、一杯のコンソメやボルドーワインすら手に入らず、飲物と云へばマスカット・ワインか水しかありませんでした。雨季に入り、長雨が續くと乾パンのやうなものしか手に入らず、サンドは苦勞して食材を調達してゐますが、ショパンは滅入るだけでなく、餘計に健康を害すこととなり、這々の體で巴里へと戻ることになりました。

 その後、伊太利旅行の末、1839(天保10)年6月1日、初めてショパンをノアンの館へ招き、10月まで一緒に過ごしました。以降、1840(天保11)年を除き、1846(弘化3)年まで計7回の夏をノアンで過ごし、創作に没頭してゐます。病弱なショパンに對し、サンドは母親のやうに世話をし、愛情を注ぎました。初めてこの田園風景を見た時、思はず生まれ故郷、波蘭(ポーランド)の「ジェラゾヴァ・ヴォラに似てゐる」と呟いたとか。今も主要幹線道路から外れ、でこぼこの砂利道を歩かないと行き着きません。サンドとショパンは巴里から30時間も馬車に揺られて、やっと到着したのでした。

 1846(弘化3)年になると、母親の愛を獨占したい二三歳のモーリスは、惜しみない愛情を受けるショパンの存在に我慢がならず、口論が頻發し、あからさまな嫌がらせをし始めました。母親に疎まれてゐた18歳の妹ソランジュと彫刻家クレザンジェの結婚問題で、ショパンが娘側に就くことに因り、險惡な共謀関係が出來上がつてしまひ、母と娘の對立にショパンは巻き込まれてしまひます。或る夜、取るに足らない諍ひから大喧嘩となり、ショパンは11月11日、一人巴里に向け立ち去つて行くのでした。翌年の7月28日に離別の手紙をサンドが送り、二人の間に幕が下ろされました。
 お互ひに傷附き、ショパンは病状が恢復することなく、1849年(嘉永2)10月19日に息を引き取つてゐますが、サンドはその後も活躍を續け、1876(明治9)年6月8日、愛するノアンの館で息を引き取つてゐます。

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