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2007年6月28日 (木)

西部の娘

 昨年秋からこの6月までの新國立歌劇場の季節切符を通して買つてゐたので、随分と觀ることができました。4月にはプッチーニの歌劇《西部の娘》を觀てゐます。

 新維納樂派を豫見させる無調和音や、當時としては最先端の音樂を取り入れて、必至に新しい歌劇を創造しやうとしたプッチーニの努力に脱帽です。勿論、いい歌がある譯でもない爲、廣く受け入れられてゐない欠點も見えましたが、西部劇を歌劇にするところはまるで映畫のやうであり、トーキーが開發される前の映畫みたいなところを大いに樂しみました。

 メトからの註文ですから、ミュージカルが編み出される前の最も亞米利加の民衆に受け入れ易い曲を書くことがプッチーニに科せられた使命であり、ハッピーエンドで終はるハリウッド映畫の原型だと思へば、莫迦莫迦しい物語こそ、彼等が最も欲したものだと思ひます。ですから、初演がメトで、世界のカルーソーを念頭に置いて作曲したことを考へれば、多少の無理があらうと、亞米利加ぽく仕上げられた新しい曲をジョンソン役のカルーソーが
高らかに歌へば當時の人々は大いに沸いたことでせう。然も、消滅したばかりの西部は紐育の人にしてみれば、異國も同然であり、お伽噺がリアルな設定で見られたと思つたに違ひありません。勧善懲惡ではないところも新鮮であつたかも知れません。

 盗賊一家に生まれたが爲に親の築いた遺産を守ることで家族を養つたラメレスは本意ではなかつた生き方を、ミニーとの出逢ひで、新しい生き方を模索する「機會は誰にでも與へられる」と云ふ亞米利加の幻想そのものでもある譯です。特に3幕のジョンソン(ラメレス)のアリアを歌ふカルーソーを思ひ浮かべれば、似合はないカウボーイ姿であつたとしても、魅了したに違ひありません。

 この演出を觀た肩は口々に「段ボールと陳腐な音樂」と言つてゐましたが、現代に置き換へたホモキの演出は全く功を奏してゐませんでしたね。普遍的な移民、移住と云ふ點に関して、近未來の荒廢した紐育(或ひは大都市)の貧民窟と考へてもよかつたと思ひます。多國籍の移民だとか、縛り首や拳銃は現状の日本に似つかわしくありませんが、色々な國からの出稼ぎの人々が一緒に生活をせざるを得ない状況と考へると、石油採掘の中東でも、バイオ・エタノールに沸く伯剌西爾でも、貧富の差で暴動が起きる中國農村部でも、場所替へは可能だと思ひます。

 私なりの解釈ですが、段ボールはその地方の権力社ファルゴ社が築いた秩序の現れで、それを流れ者(この場合は盗賊のラメレス)が波風を立てて壊しても、また元のやうになると考へられます。このストーリーは取りも直さず、そのまま映畫の「西部劇」や「無法者」、或ひは「マカロニ・ウエスタン」に通じるものであり、それはそのまま「座頭一」、或ひは「唐獅子牡丹」のやうな任侠ものとも全く同じ構圖だと思ふのです。
 であれば、侍の時代の閉ざされた宿場町、越後屋と組んだ岡ッ引き(元は賭博者)でもよく、彼等の下に法治國家として整つた社會が、風來坊に亂されると云ふ時代劇にしてもいいし、盗みだけで人殺しをしないことを信条にしたラメレスは、鼠小僧でもいい譯です。さう云ふ意味では普遍的な物語と考へられますね。

 只、さすが亞米利加原作だと思はれるのは、権力者の一存で死刑が決まらないことです。アシュビーが會社の富を盗んだ者を死刑に、或ひは保安官ランスが戀敵を私刑にしてもいい筈なのですが、酒場のミニーに説得された民衆(男共)の意見に衝き動かされて、死刑とはならないと云ふ結末。これは、即ち民主主義の讃歌でもあり、民意で「無罪」と決まった點が凄いと思ひます。

 原作者のベラスコは葡萄牙系猶太人ですから、舊約聖書の引用しかありませんが、民意で動く亞米利加を讃へてるやうに感じられます。最後に星条旗がはためき、「左様なら、加利福留尼亞」と言つて、新天地を目指すのであれば、チャップリンと同じやうにきっと明日はいいことがあるだらうと終はるハリウッド映畫の原型とも考へられますね。

 シルマー指揮の東フィルはやや音がでかいものの、合唱はうまいし、歌手のバランスもよく、なかなか樂しめました。dvdでは一組だけ見附けました。


DVD

プッチーニ:歌劇「西部の娘」


販売元:アイヴィー

発売日:2004/08/01

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