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2007年6月21日 (木)

戰下の貴族

 コルドンの伯林三部作はヴェディングの勞働者家族の小説でしたが、釣られてナチス政権下の貴族の日記も讀みました。『ベルリン・ダイアリー ナチ政権下1940-45』の作者マリー(ミッシー)・ヴァシルチコフはペテルブルク生まれのリトアニアの貴族。代々ロマノフ王朝に仕へた家系で1919(大正8)年に赤軍に追はれた亡命した白系リトアニア人です。佛蘭西で教育を受けた爲、普段は英語を使つて生活するものの、露西亞語、佛蘭西語、獨逸語が堪能で、1940(昭和15)年に次姉タチアーナと共に伯林に職探しで移住し、外國籍であるにも拘はらずナチス獨逸外務省情報局に仕事を見附ける。そこで反ナチ派と親交を持ち、1944(昭和19)年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件とその後の粛正に就いて克明に記録してゐました。危險を感じてから、維納へ逃れ其処で空軍病院の看護婦として働いて行きます。

 上流階級の交流は、我々の全く知らない世界でした。次姉は維納會議で活躍したメッテルニヒ侯爵の子孫と結婚、ヴィッテルスバッハ家のコンスタンティンとホーエンツォレルン家の皇女マリア・アーデルグンテの結婚式、ビスマルク家との親交等名の知られた王侯貴族がわんさか出て來て面食らひます。戰中でも伯林社交界はパーティーを開き、亞米利加參戰前は南米外交官たちと交はり、空襲は始まるとポツダムのビスマルク家に逃れたり、市内に戻ったり、人に公開することを前提としてゐない爲、赤裸々に日々のことが綴られてゐます。

 1943(昭和18)年11月13日には、フルトヴェングラーの演奏會に出向ひてゐます。別の記録から探ると、この時ミッシーは《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な惡戯》、ピエール・フルニエのチェロでシューマンに協奏曲、ブルックナーの交響曲第6番を聽いてゐます。そして11月16日にはポツダムのビスマルク家の夕食でフルトヴェングラーとも共にします。併し、蘇聯兵を極度に恐れる巨匠にがっかりしてゐます。1944(昭和19)年8月2日には市内住める建物も減り、超高級ホテル・アドロンに引っ越し、空襲で地下へ潜ると、いつもきちんとしてゐたカラヤンが素足でトレンチコートを引っ掛け、髪の毛が逆毛立つてゐたとも記録してゐます。

 また1943年11月24日には、ずっと4年間避けてゐた日本人伯爵にばったり出くわし英語で聲を掛けると、Kennen wir uns? お會ひしたことありましたか?と訊くので、さっさと方向を變へて逃げ出したとあります。これは誰のことであつたのでせう。獨逸駐在大使大島浩は貴族ではないし、指揮者の近衛秀麿は子爵であつたから、違ふ筈だけれども、ミッシーの勘違ひなのでせうか。一體誰を指してゐるか氣になります。

Johannisberg この次姉タチアーナが今も住むラインガウの城「シュロス・ヨハニスベルク」は維納會議の功績により頂戴したもので、ワイン好きなら知らない人がゐない位有名な藏です。獨逸では單にゼクト(發泡酒)の「メッテルニヒ」で有名ですが、我々獨逸ワイン好きには、その歴史に欠かせない「遅摘(シュペートレーゼ)」の發見でも知られ、丁度畑の真ん中を北緯50度が通つてゐます。北緯50度は葡萄栽培の北限ですね。
 此処は大戰中に爆撃を受け、地下藏と一部の建物以外殆どが潰滅し、戰後ご主人を亡くされた後、お子さんのなかつたメッテルニヒ侯婦人一人で維持管理はたいへんであつたのでせう、食品會社に土地と建物を賣却する代はり最期まで此処に住むことを決意したのでした。4年前に此処を訪ね、食品會社により綺麗に修復されつつあるところで、地下藏で試飲させてもらひました。そんなよく知る藏の持ち主貴族の妹の實話日記。たいへんな時代ととても一言では片附けられません。

Schloss Johannnisberg

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