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2008年1月23日 (水)

自由で放浪的な

 日曜日に、今年最初の歌劇觀劇。ゼッフィレッリ演出の《アイーダ》を安くて良い席(3階中央)で觀たくて、ヴェルディ協會の募集に申し込むと他に2演目附いて來る爲、期待もせずに新國立劇場へ。外氣温摂氏4度、に雪は寒い。

 プッチーニの歌劇《ラ・ボエーム》は19世紀半ば、巴里の下町を舞臺に、自由で放浪的な(ボヘミアン=ボエーム)生活をする若い藝術家の話。この身に浸みる寒さのままの困窮生活が舞臺で繰り廣げられます。
 粟國淳の演出は最初に巴里の屋根と煙突ばかりが幻燈で幕に投影され、間を置いてそれから音樂が始まる爲、音と共に屋根裏部屋へすんなり入つて行けます。何年か前にも同じ演出を觀てゐる筈なのに、今回は伴奏と歌の調和があり、東響は昨年の不振とは打つて變はつて、しっかりと鳴り響き、旋律を歌つてゐました。指揮者の違ひが如實に出たのでせう。同じオケとは思へない位の豹變振り。それだけバルバチーニの棒冴へたのだと思ひます。歌はせるところはしっかり歌はせ、オケが盛り上がるところはきちんと各樂器の音が前に出て、歌劇らしい歌劇でした。

 ミミを歌つたバーヨは、小柄な西班牙人でやつれ果てた感じが出て、その上聲がよく、それに負けないロドルフォ役の佐野成宏は甘い美聲が通り、はっきり聽き取れます。ムゼッタに對してマルチェッロのバルザーニも釣り合ひの取れた歌聲で、ショナールの宮本益光はロンゲが當時の藝術家然とした雰圍氣もよく、心憎いバリトン、コッリーネの妻屋秀和は安定したバスで場面を引き締め演技過剰に陥らず好演してゐました。

 この歌劇は、詩人ロドルフォとお針子ミミの恋の行方に、對照的な畫家マルチェッロと派手好きなムゼッタ、
仲良しの哲学者コッリーネと音樂家ショナールが加はり、ほぼ6人だけで話は進みますから、力量に差があると何のとも釣り合ひの取れない居心地の惡さを感じさせます。それが、今回は全て良い方向に出て素晴らしかつたですね。

 有名な詠唱(アリア)も多く、粗筋は省略しますが、特に第2幕の演出は秀逸。カルチェラタンの雑沓の中、カフェに集ふ仲間達の様子を四隅の建物が回轉することにより、觀る者の視點があッと言ふ間に向かふ側に移り、また
真横に移ったり、ざわめきの真ん中に居る雰圍氣が傳はつて來ます。丁度、映畫『天井桟敷の人々』のやうな、あんな雑多の雰圍氣と言へばいいのでせうか。合唱陣の動きや歌もそつが無く、下町のムンムンとした熱氣が傳はつて來ます。どんよりとした寒空の下、焼き栗の匂ひ、コークスを焚いた暖房の臭ひ、冬の巴里を思ひ出します。レストランで働いてゐたとは云へ、當時、フランクフルトから夜行列車で8時間、ヘトヘトになつて到着した華の都は大金を使へる旅行者には優しくても、我々には樂しいことばかりではありませんでしたから。

 そして、ミラノ・スカラ座の初來日好演の折、ゼッフィレッリ演出、クライバー指揮の第2幕も同時に思ひ出しました。200人もの人がごった返した、ほんたうに人いきれのする華やいだ舞臺。それとは別の下町ならではの赴きがありました。

 終幕では、結核が惡化して、パトロンの元を自ら去り、死に場所を求めたミミを連れてムゼッタが屋根裏部屋へやって來ます。友人達をそれぞれなけなしの物を賣つて、少しでも誠意を見せようとする中、ほんたうに愛し合つていたロドルフォに看取られ、静かに息を引き取るミミ。この大詰めでは圖らずも泣。期待して見なかったからか、プッチーニの音樂にやられたのか、どわ~と悲しくなってしまひました。
 21世紀の巴里で、或ひは日本で、かう云ふ状況はあり得ないかも知れませんが、男女の悲しい別れは不變でせう。日本人の琴線に触れるプッチーニ、貴方は偉大です。

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