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2008年3月13日 (木)

指輪 第一夜

 この間、東京文化で二期會公演、樂劇《ワルキューレ》を歡て來ました。娘が前の方で見たいと云ふので、奮發して平戸間中央、前から5列目です。歌手の聲は直接響き、オケの音も左右から聽こえる迫力のある席です。只、いつものやうな劇場全體が鳴り響くやうな感じはありません。
 ワルター、維納フィルのSP盤のおどろおどろしい嵐で聽き慣れた耳には、緊迫感なく始まります。 ワーグナー演奏に定評のある飯守泰次郎の指揮は、極めて中庸なもので、可もなく不可もなし。逆に東フィルの演奏に粗が目立ちました。ジョエル・ローウェルスの演出は、最初からヴォータンや無言演技(パントマイム)のローゲまでが出てゐて、説明過多な感じです。また、子供の頃のブリュンヒルデを出す必要があるのか、第二幕の冒頭でヴァルハラ城の廣間でワルキューレ達が連れて來た戰場の英雄たちと戯れてゐたり、そんなのは要らないと感じる演出が多々ありました。
 左右に動く黒い壁や上から降りる壁、そして上下左右に繪柄が變はる背景等、装置はなかなか工夫されてゐてよかったです。ですが終幕、岩山の魔の炎が天蓋のやうな白いカーテンが中央に柱のやうに聳え、赤い照明が照らされ、その中にブリュンヒルデが寝てるのは、どうもいただけません。陳腐で安っぽい感じがして、炎に守られてる感じが全然しません。行きずりの男に寝室を見せてゐるやうな感じ乍ら、底の方から柱のやうに聳えてゐますから、近附けない雰圍氣はよく出てゐました。また、全宇宙はヴォータンではなく、フリッカが實質握つてゐる設定なのか、いちいち登場するもの、如何なものか。

 泉良平のヴォータン、増田彌生のフリッカは押し出しもよく、聲も通り存在感がありましたが、大野徹也のジークムントは氣負ひすぎたのか、第一幕幕切れの一番の聞かせ処で音を外して、がっかり。1983(昭和58)年の二期會日本初演の《ジークフリート》の時は、何とも未熟で、蓮ッ葉な感じのジークフリートであつたことをよく覺へてゐます。さすがに25年も經てば、貫禄も増し、演技もよい分、歌の出來が斑(マダラ)なのが殘念。増田のり子のジークリンデは、日本人的な顔が浮き立つたことを除けば、問題なく、無難にこなしてゐました。
 そして、桑田葉子のブリュンヒルデは、聲も演技もいいのですが、他のワルキューレに比べて小柄な割に恰幅がよく、かみさんが出て來たのかと、子供と顔を見合はす程、雰圍氣が似てゐました。それ故か、どうも隣に座ってる筈のかみさんが舞臺に居るやうな錯覺を覺えて、不思議な感覺に陥り、ワルキューレが身近に感じる不思議。

 全體として、日本人だけでよくやれたと思ふ反面、これだけしかできない不滿も殘り、斑な演奏でした。

 

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