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2009年3月24日 (火)

さやなら子供たち

 衛星放送WOWOWでは、映畫監督ルイ・マル特輯があり、ほぼ20年振りに《さやなら子供たち》を觀ました。監督の自傳的作品で、ナチス獨逸占領下佛蘭西、疎開先のカトリック教會寄宿舎での體驗が綴られてゐます。割と裕福な家庭でお母さんがジャムを寄こしたり、面會に來て一緒に食事をするにしても、一寸お洒落な格好が印象敵です。當時の過酷な状況下での家族、友情、密告、別れが詩情豐かに描かれてゐるのですが、20年前はフランクフルトの劇場で獨逸人に囲まれて觀たので忘れられません。

 第二次世界大戰の最中からして、反ナチスの内容故、何となく回りの人の反應が氣になつて見渡したところ、歴史的事實として淡々と受け止めてゐるのか、特に普通の映畫と同じなのですが、こちらが色々考へてしまふ爲、妙な居心地惡さを感じたものです。米作テレビ番組《コンバット》からして、ナチス獨逸は人類の敵のやうな教育を受けた自分だけでなく、獨逸でも徹底的に反ナチス教育を受けてゐる所爲でせうが、親獨逸派としては、何となく自身も否定されるやうな氣がしました。

 映畫の中で、巡回中の獨逸兵や食堂の將兵は決して嫌な奴は居ません。寧ろ義勇兵の方がユダヤ人狩りをするやうな有樣。同じ佛蘭西人でも、横流しをしてゐたこづかひさんが解雇された腹いせに密告したり、綺麗事では濟まされない人間模樣。

 私の場合、佛蘭西語は獨逸語字幕で、獨逸兵やゲシュタポの喋る獨逸語は直ぐに耳から理解してしまふ爲、自動的にナチス側にされて居るやうな感じを受けてしまふのです。頭で解つてゐても、獨逸語を通してしか理解できない爲、心情的に佛蘭西人の心情なのに複雑な感覺でした。現獨逸では人種差別は殆どなく、日本人だからと言つて肩身の狭い思ひは殆どしませんでした。

 ユダヤ人と云ふ存在自體、日本では別世界ですが、大家がユダヤ人で色々文句を言はれて結局敷金を返してくれなかったとか、「矢張りユダヤ人だから」と諦めに似た表現を普段から耳にし、英國短期留學中、ユダヤ人家庭に世話になり豚肉が戀しくなつたり、鉤鼻の指揮者や街中に黒ずくめの異樣な姿を目の當たりにすると、偏見はなくとも存在を意識せざるを得ませんでした。
 そして、現在の中東ガザ地區やパレスチナ西岸地區では、パレスチナ人を土地から追ひ出し、迫害してゐる樣を見ると悲しくなります。これではイスラエル人とて、ナチス獨逸のしたことと何ら變はらない。彼等の論理もあるでせうけど、何も學んでゐなかつたのか、同じことをしない選擇はなかつたのか、また色々考へさせられます。

 ユダヤ人を匿つた爲、一緒に囚われて出て行く際「さやうなら司祭樣」と云ふ子供たちの聲に對して、「Au revoir, les enfants」とすぐに戻って來るが如くいつも通りに返事をする司祭。折角仲良くなつた友達に對して「さやうなら」とそっと手を擧げることしかできなかつた主人公。ドンパチがない戰爭映畫です。

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