脇坂家
けふは舊暦の12月14日。赤穂浪士討ち入りの日である。
私共、すき燒今朝の裏手に當たる汐留は、その昔、播磨龍野藩、脇坂家の上屋敷であった。1701(元禄14)年に淺野内匠頭が吉良上野介に殿中で斬り附けたが故、淺野家の居城、播州赤穂城を引き渡せねばならなかった。その際、幕府から受け渡しの役を仰せつかつたのが、この二代藩主、脇坂 安照である。その後1年半、新しく永井直敬が赤穂藩主として赴任する迄、赤穂城の在番を務めてゐる。
この、脇坂家は、嘗て賎ヶ岳の七本槍(加藤清正・福島正則・加藤嘉明・平野永泰・脇坂安治・糟屋武則・片桐且元)の一人として勇名をはせた脇坂安治の子孫。脇坂安治は關ヶ原の戦ひでは西軍であつたが、東軍に寝返り、江戸時代に入り、老中を出すなど、幕府にも頼りにされたらしい。現在の摩天楼が聳え建つ前、汐留の遺跡發掘では、ゴミ捨て場跡から、動物の骨も見附かつたと聞く。脇坂さんも牛肉を食べたのであらう。
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