2012年1月10日 (火)

総合五位

 正月2日、3日に行はれた第88回箱根驛傳では、母校の陸上競技部が、チーム史上最高の総合5位を獲得した。

 その中でも昨年も華を咲かせた出岐雄大選手(3年)はエースが集ふ「花の2區」で、1時間07分26秒を記録し、青山學院大學史上初の「區間賞」を獲得。2009年に33年ぶりに出場して以來、オーケストラ部OBの《樂友會》校友會を通じて寄附をした爲、俄然私事として應援するやうになつた。それまでは全くの他人事で、たまたま正月に湘南に行く用事があつた時に、道路の混雑具合に辟易してゐたら反對車線を走者が走り抜けて行くのが見えて、嗚呼驛傳であつたと納得するやうな始末であつた。
 今年はこれで3年連續優先出走権利(シード権)を獲得し、通算17回目の出走となつた。なんと目出度い。應援に熱を入れ過ぎた爲か、風邪をこじらせてしまつたのは大失敗。

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2010年6月15日 (火)

南阿弗利加

 四年に一度の蹴球(サッカー)世界杯(ワールドカップ)の折にしか應援しない俄かファンではあるが、深夜の放送に見入つてしまつた。練習試合で結果も殘せず、岡田監督の前評判も惡く、心配で仕方なくて、大差で負けて正直正視できないのではないかと思つてた。

 遠く離れた南阿弗利加の高地での試合は並大抵のことではないだらう。海外生活の苦勞を思ふと、つひ應援にも力が入るが、意氣地がないので前半はニュースを見乍ら時折眺めるやうな感じで、得點が入つた場面は録畫で知つた。だいたい、初ッ端からきちんと見てゐないので、「江藤」と云ふ選手は誰かと思ふ程、味方も敵のことも全然知らない。それが相手國カメルーンの「エトー」と云ふ選手だと途中で判つた位、お粗末な應援である。實に申し譯ないが、深夜起きてゐただけでも勘辯してもらはう。

 以前から、糞生意氣に豪語してゐた本田圭佑選手が有言實行して勝ち點を擧げた場面は素晴らしかった。精神力の強さ、強靱な肉體に迷ひは全くない。その一蹴りが一生を左右するかも知れないだらうに、憑きも味方に附ける強運。恐れ入つた。初戰白星發進目出度ひ。勝利を祝福するやうに昨夜の雨も上がり、清々しい。


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2010年1月 7日 (木)

41年振り

 正月の箱根駅傳では母校が8位に入賞し、41年振りに翌年のシード権を得た。晴れ渡つた寒空の2日の朝、7時半に品川驛に集合し、往路の應援をして來たので、その後が氣になり初めて放送を全部見た。贔屓の大學が出てゐない限り、別世界であつたのが、昨年は何十年振りの出場と出られたことに驚き、今度はシード権を懸けた戰ひだと云ふので、附屬小學5年生を持つ15家族が驅け附け、幟を持つて場所取りをし、配られた小旗を手に待つこと小一時間。8時に大手町を出走後、品川には20分過ぎには團子状で現れ、一瞬のことで寫眞も撮れず。天晴れ東洋大も素晴らしかったが、母校の入賞できるとは誰も豫想だにしてをらず、吃驚した。

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2008年12月18日 (木)

レーサーズ

 故加藤大治郎が自動二輪競技者(レーサー)で集まつて野球をやらうと云ふ遺志を繼いで始まつた年末恒例のレーサーズ野球試合。入場は無料ですが、交通事故減少の願ひを込め、チャリティーも行はれます。思ひ出せば、大ちゃんだけでなく、昨年沼田憲保がレース場で亡くなり、ノリックこと、故阿部典史も公道の事故で亡くなりました。

 この試合に參加するレーサーは小さい頃から、レース場でバイクの競走ばかりしてゐて、實は成人するまで野球と云ふものを一度もしてゐなかつた方々ばかり。珍プレーも樂しめ、普段と違ふレーサーの横顔が見られる絶交の機會です。今年は19日(金)9時から第一試合、12時前に追悼式典、そして午後は第二試合が行はれます。是非、お暇な方はお出掛け下さい。

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2006年3月31日 (金)

ライブ

 音樂でも、どのスポーツ試合でもその場へ行つて直に聽いたり、觀戰するのが一番です。その場獨特の香りや雰圍氣が樂しめ、盛り上がりを直接感じられるからです。記録映像のやうに寄つて見ることはできませんが、その場限りの一瞬の出來事や報道されない些細な事、個人的な一寸したことも一緒に思ひ出として殘ります。

 四輪自動車公式競走(Formular One)はつとに有名ですが、私は敢へて自動二輪車(バイク)を選びます。身體が露出した二輪の方が、風と共に走り、恐怖も期待も緊張感も四輪より上だと思ひます。全日本選手権の競走(レース)が各地を轉戰するやうに、世界選手権大會(World Grand Prix)ならば、文字通り世界中を巡ります。
 今年も先週末の3月26日の西班牙(スペイン)大會、ヘレスを皮切りに世界中を巡る譯ですが、短い夏休み以外は、1~2週間間隔で全17戰を行ひます、選手たちだけでなく、監督を始めとする技師たちや調理師まで同じ組(チーム)の人々がごっそり移動します。短いと日曜日の決勝戰の後、月曜日に移動、火曜日到着、水曜日はお休みで、木曜日に準備開始、金曜、土曜日と豫選、そして日曜日にまた決勝、と云ふ過密日程に文句を云ふやうでは一流選手にはなれないのでせう。

Tutti 彼等の日頃の成果を問ふ決勝戰こそ、晴れ舞臺になるのも當然です。觀客席にも、自由席から空調の効いた硝子張りの高臺にある要人(Very Important People)席まで幅があり、金額の高い席の方が周回軌道(サーキット)全體が見渡せる構造です。併し、座席すらない自由席は芝生の上でのんびり觀戰できる良さがあります。贔屓の選手や製作會社(メーカー)席と云ふものもあり、割引價格で揃ひのTシャツを着たり、帽子を被つて應援するのも一體感があつて、またいいものです。待機所(パドック)通行証(パス)を購入して裏方見學も、直接選手に逢へるまたとない機會です。これは昨年の日本大會の折の戰利品。250cc級の背番號の若い順にケーシー・ストーナー、アンドレア・ドヴィツゥオーゾ、関口太郎、高橋裕紀、青山博一、各選手から頂きました。

 私は「筑波周回軌道(サーキット)」での〈タイム・トンネル〉舊車の大會と「ツインリンクもてぎ」で行はれる〈世界選手権大會(World Grand Prix)〉へしか行つたことがありませんが、何と言つてもその場の雰圍氣がまづ好きです。ガソリンやオイル、それに排氣の匂ひ、シフト変換の音、階級別に全く違ふ排氣音、減速する際のブレーキの掛け方、曲線部での進路取り、どれを取つても世界一を目指す連中の妙技は全く違ひます。

Hiroshi2 お腹が空けば屋體の焼きそばやお好み焼き等を頬張り、冷たい飲物で喉を潤し、其処でしか賣つてゐない限定品を買ひますが、中には各製造元(メーカー)の競走女王(レース・クイーン)目當てに來るカメラ小僧も大勢押し掛けて來ます。
 それ故、壓倒的に男ばかりとなり、珍しく男性用トイレに行列ができる所は、劇場とは逆の現象ですね。昔の演奏會場はドブ鼠色の背廣を着たおじさんたちばかりでしたが、近頃は着飾つた女性も多く、休憩時間のトイレの行列は氣の毒に思ひます。オペラの季節は9月から翌年6月までですが、競走の季節は4月から11月と餘り重ならないのも嬉しいものです。

 感動の押し賣りをするつもりはありませんが、PCの前ばかりではなく、お茶の間で胡座をかいてゐないで、たまには外へ出て實際に自分の目で見て色々體驗するのはいいものですよ。

MotoGP放送

ツインリンクもてぎ

鈴鹿巡回路(サーキット)

筑波巡回路(サーキット)

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2006年3月30日 (木)

清成龍一

Kiyo1 日本人選手ばかり取り上げても、贔屓の引き倒しにはならないでせう。英國スーパーバイク選手権(BSB)で孤軍奮闘頑張つてゐる清成龍一(キヨナリ リュウイチ)選手に就いても、書かねばなりません。
 彼も小型自動二輪車(ポケットバイク)出身です。子供の頃から乘つてゐる人は頭より先に身體で覺へるので、私のやうに四輪免許10年目の28歳になつて、バイクに乘り出した人間とは根本が違ひます。6歳で初乘りし、16歳で全日本選手権125級に出走して、18歳で全日本250級に參戰、20歳で全日本ST600級に初登場して年間優勝を飾り、2003(平成15)年に大治郎の亡き後、MotoGP級の空席を埋める形で大抜擢されました。殆ど世界では無名でしたが、途中棄権することもなくひたすら走り續けたのが格好良かったです。

K1 初めて直接見たのは03年の茂木での太平洋大會(Pacific Grand Prix)のことです。笑顔の素敵な好青年でしたが、線も細く、心細ささうな感じがしました。この畫像は大治郎シートを用意してくれたファウスト・グレッシーニ監督と共に、觀客席に挨拶に來てくれた時のものです。通り一邊倒の挨拶でさへも緊張したことでせう。殘念乍ら成績は後ろから數へた方が早い位でしたが、與へられた條件をこなすだけでもたいへんであつたことだと思ひます。よく完走してくれました。

 そして翌年から、英國スーパーバイク選手権に參戰し、岡田監督の下、初年度は年間綜合第6位に入賞、昨年は第2位と惜しくも優勝を逃しました。英國の周回軌道(サーキット)は短距離な爲、1日に2回試合があります。昨年は初戰、第2戰とも全4試合を優勝で飾り、一皮剥けた感じがして勢ひが出ました。併し、殘念なことにマロリー・パークでの第三戰で轉倒し次の試合も棄権したことが、最終的に響いて年間綜合優勝に届きませんでした。

Kiyo2 併し、夏の祭典でもある鈴鹿8時間耐久試合(略して8耐)では宇川徹選手と組み、初優勝を飾りました。天候不順の英國で鍛へられた技倆が雨天に存分に發揮され、終始安定した走りを見せてくれました。事前に行はれた壮行會では、始まる前に外に居らしたので娘と一緒に寫眞を撮らせて貰ひました。傍で見ると、相當鍛へてゐるのでせう、腕節も太く、堂々として逞しくなり、子供にも「暑いのに、大丈夫。ありがとう」と聲を掛けてくれました。英語だけの環境も彼の人としての器を大きくした感じがして、大いに頼りがいのある大人の男に育つた感じです。

 先週末の開幕戰、第二競走(レース)では1位となり、綜合2位ですから、幸先のよい發進です。是非とも今年こそは、年間綜合優勝を飾り、來年の世界選手権MotoGP級に返り咲いて、世界中をあッと云はせて欲しいものです。頑張れ、清成選手!

清成龍一ファンサイト

 

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2006年3月29日 (水)

青山兄弟

 自動二輪車(バイク)道路競走(ロードレース)世界選手権(World Grand Prix)で活躍する日本人選手には、何故か兄弟で參戰してゐる人が多いのに氣付きました。少し前ですと、「青木3兄弟」、宣篤(のぶあつ)、拓磨(たくま)、そして治親(はるちか)が有名です。3兄弟の表彰臺獨占を夢見て來ましたが、1997(平成9)年、伊太利選手権大會、イモラのGP500級では2位に宣篤選手、3位に拓磨選手が入り、1位のドゥーハンよりも兄弟入賞が注目されたものです。
 今では、長男宣篤はスズキ社のMotoGP開發ライダーに、次男琢磨は1998(平成10)年の事故により脊髄を損傷して下半身不随となつたものの内燃機關運動(モータースポーツ)の普及、四輪車のバリアフリーの追求等に積極的に取り組み、三男治親は川口自動二輪競走(オートレース)で活躍してゐます。

 今最も注目されてゐるのは、世界選手権GP250級で競ふ青山博一(ひろし)、周平(しゅうへい)兄弟でせう。他に、昨年英國スーパーバイク選手権(BSB)で最多勝利に拘はらず総合2位に終はつた清成龍一(りゅういち)選手と、弟の健一(けんいち)選手も全日本選手権ST600級で、そしてGP250級で現在優位に立つ高橋裕紀(ゆうき)選手(開幕戰4位)と、弟の江紀(こうき)選手も、全日本GP250級で活躍中です。皆兄貴の後ろ姿を見て「俺にもできる!」と思つたことでせう。

Hirosi さて、青山博一選手は5歳から小型二輪車(ポケット・バイク)を始め、14歳で桶川塾に、18歳で名門ハルク・プロに入り、2003(平成15)年につひに全日選手権GP250級、年間綜合優勝を決め、翌年ホンダ社の奨學制度第一期生として、世界選手権GP250級に參戰し昨年は年間綜合、世界第4位に着け、2年間の制度を満了しました。大治郎に少しでも近附きたいと、背番號73(大ちゃんは74)を附けてゐましたが、今年より4番を背負ひ墺地利のKTMより同級に經續して出走してゐます。
 おとなしく、いつも爽やかな笑顔を絶やさず、英語の對應も様になりつつある頼りがいのある兄貴です。サイン欲しさに群がるファンに嫌な顔せず、きちんと對應してくれるのは素晴らしいことです。そして、私は一昨年の慈善競賣(チャリティー・オークション)ではサイン入りの背袋(リュックサック)を落札できました。その時、握手して貰つた手がこれまた華奢で吃驚しましたが、飾らない素顔も實に素敵です。

 それに對して周平選手はやんちゃこの上なく、闘爭心剥き出しの對照的な性格です。兄と同じやうに小型二輪車(ポケット・バイク)から始め、桶川塾、ハルク・プロと兄の背中を見乍ら、16歳で全日選手権GP125級に參戰後、昨年、全日選手権GP250級、年間綜合優勝を決め、今年よりホンダ社の奨學制度第三期生(二期生は高橋裕紀選手)として、兄から譲られた73番を附けて世界選手権GP250級に出走してゐます。

Photo_9 昨年の世界選手権日本大會、ツインリンク茂木の豫選2日目に、待機所(パドック)通行証(パス)を購入して裏方見學へ行きました。その折、自轉車で移動する周平選手を見附け、目出度くサインを頂きました。こんな時にオペラの出待ちの經驗が生かされ、出しゃばらず、控え目過ぎずに要領よく多くの選手から貰ふことができました。
 この弟は無邪氣で、若々しく輝いてゐましたが、まだ恐いもの知らずの子供っぽさも殘ります。豫選1位博一兄、2位に周平弟が並んで始まつた決勝戰は、惜しくも弟が轉倒棄権した爲殘念でしたが、兄は雪辱を晴らすやうに見事に優勝を飾りました。

 兄は新しい製造會社の新しい組(チーム)で頂點を目指し、弟は初めて挑む世界の檜舞臺での活躍を祈るばかりです。開幕戰、兄は6位、氣持ちだけ先に行つてしまつたのか、弟は2週目に轉倒退場。2人同時に表彰臺へ上がる姿を、是非見てみたいものです。今年は世界選手権GP250級で闘ふ青山兄弟から目が離せません。

青山博一公式HP
青山周平公式HP

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2006年3月28日 (火)

タマヤン

 現在、世界選手権大會MotoGP級に參戰してゐる日本人ライダーは、中野真也玉田誠、通稱「タマヤン」の二人です。中野選手は二枚目で、英語での質問にも流暢に答へ、カワサキの強力な力添へで溌剌としてゐます。一方、タマヤンはおっさんくさい顔して、あっけらかんと何処でも日本語で通し、明るくてほのぼのとしてゐて、とても世界を股に掛ける國際試合の選手には見えず、つひタマヤンを應援してしまひます。

Tamayan1 大治郎の背中ばかりを見續けて來た愛媛出身のこのライダーは、緊張しないのか、いつもにこやかで屈託がなく、對應してくれます。高校を中退して大ちゃんと同じ、九州の名門組(チーム)「TEAM高武RSC」に所屬して腕を磨き、九州選手権から、全日本ロードレース選手権GP250級へ進み、2003(平成15)年から世界選手権大會MotoGP級に參戰してゐます。決して順當に勝ち進んで來た譯でもなく、天才でもないので、直向(ひたむ)きに練習して掴んだ大舞臺なのです。

 初優勝を飾つたのは、同年7月4日の伯剌西爾(ブラジル)大會、リオ・デジャネイロでした。奇しくも親友大ちゃんの誕生日でしたから、應援してゐた日本人は皆「快哉」を叫んだに違ひありません。抜けるやうな青空と黄色い革ツナギが目立ち、文句ない勝ち振りでした。多くの選手がミシュランのタイヤを履く中で、ブリジストンのタイヤで優勝した爲、多くの報道陣がタマヤンの走りの良さより、ブリジストン・タイヤの質問ばかりしてゐたので、東京中日スポーツ記者、遠藤誠さんが怒つてゐたのを覺へてゐます。

Photo_7 そして、その年の9月19日、全日本大會、ツインリンク茂木でも表彰臺の真ん中に立つてゐました。3位には中野選手も居て、嬉しい活躍振りでした。然も、途中王者ロッシを抜き去り一歩も譲らなかつた姿には感動しました。前年の茂木では、接触した爲失格させられた苦い經驗がありましたので、この踏ん張りはとても力強く感じたものです。最終的に世界順位6位に浮上し、いよいよを感じさせてくれました。

 昨年から新しい組(コニカ・ミノルタ・ホンダ)に移り、ミシュランタイヤにしてから調整が巧くいかず、怪我も重なり、散々な成績でした。前年に急に注目されて、歸國時は取材ばかりに遭ひ、しっかり體力作りもできなかつたに違ひありません。唯一9月18日の全日本大會、ツインリンク茂木では3位入賞を果たし、他國の選手に地元の力量を見せ附けてやり、意地を示しました。

 開幕戰は細かい調整に手こずり、10位入賞と芳しくありませんが、今期はきっと良いレースをしてくれると祈ってます。世界の舞臺で表彰臺に上がり、日章旗が見て、「君が代」を聞くのはいいものです。

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2006年3月27日 (月)

ロッシ

Rossi1 現在の自動二輪車競走(バイクレース)世界選手権(Grand Prix)最高峰MotoGP級の王者ヴァレンティーノ・ロッシは抜きに出てゐます。昨日行はれた開幕戰、西班牙(スペイン)大會では接触轉倒しても、諦めることなく最後まで走り抜き、粘り強さを見せ附けてくれました。
 過去の成績を見ると、1997(平成7)年に世界選手権GP125級年間綜合優勝(チャムピオン)を決めてから、99(平成11)年には世界選手権GP250級年間綜合優勝、2001(平成13)年には世界選手権GP500級年間綜合優勝を飾り、翌年規定が變はりMotoGP級になつてから、02(平成14)年から昨年まで4年連續して年間綜合優勝を決めてゐます。3級別に制覇は史上2人目で、然も最年少でした、昨年は11勝もしてミック・ドゥーハンの記録に並びました。

Rossi2 昨年の茂木で控え室からの出待ちをしましたが、電子寫眞機の速度が合はず、顔なしになつてしまひました。
 彼の素晴らしさは、卓越した二輪車制御だけでなく、緻密な競走(レース)運び、派手な衣裳や目立つ行動等、伊太利の空を感じさせる明るい性格のなせる技でせう。命を懸けた競走であるにも拘はらず、樂しく仕方がないと云ふ風情、無邪氣な行動が見る者を捉へ、親しみを感じさせます。10代の頃は女の子かと見間違へるやうな長髪を束ねて走り、20代前半は坊主頭、最近はまた伸ばして癖毛がクルクルしてゐます。

 阿部典文の彈丸發進に肖(あやか)り「ロッシフミ」と云ふ記號(キャラクター)を自ら考案して貼り、精確な走りをすることから「ドクトール」の記號を附けたり、幸運の色彩「黄色」に拘り、ヘルメットの色彩にも細かく注意してゐます。競走で勝つと前輪を固定して後輪だけを空轉させて、その場に白煙を上げる「バーンアウト」も、ロッシにだけ許される行爲です。それは、タイヤがボロボロになり、然もタイヤの情報が漏れる爲、タイヤ生産社は嫌がりますが、ロッシにだけは苦言も云ひません。

Rossi1 ヴァレンティーノの父、グラティアーノもライダーで知られ、1979(昭和54)年に世界選手権で優勝した際に附けてゐた背番號「46」を手放さず、驗を擔ぐのか二輪車の前へ來ると必ず立つたままお辞儀をするやうに足を伸ばしたまま前屈し、それから跪いて右側の足掛(ステップ)を握つて祈る姿が目撃されます。まるで儀式のやうに跨る前に繰り返されます。イチロウ選手が打者として立つた時に必ず袖を少し捲るやうなものでせうか。

 常に注目され、話題を振りまく王者ロッシには、一人の親友が常に附き添つて共に連戰して回るのも珍しいことです。この幼馴染みには、隠さずに内面をさらけ出し、一緒に莫迦もし、精神面で支へて貰つてゐるのでせう。

 今週は個性的なライダーに就いて書いて行きませう。


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2006年3月24日 (金)

大ちゃん

D サインと云へば、全く違ふ分野ですが、自動二輪車(バイク)道路競走(ロードレース)世界選手権(World Grand Prix)の最高峰MotoGP級、故加藤大治郎でせう。トークショウでは10時の整理券配布に對して7時から並んで14番、最前列席に座り3米位まで近附けましたが、實際に聲を交はしたこともなく、握手をしたこともなく、生前は専らテレヴィジョン應援だけでした。それが、偶然抽選でこの「大ちゃん」のサイン入り色紙が當たり、今でもこれが一番の寶物です。

 彼は2003(平成15)年4月6日、鈴鹿周回軌道(すずかサーキット)に於ける開幕試合、決勝レース3周目の直角(シケイン)で大破して、意識不明となり、同月20日にこの世を去つた天才ライダーです。普段はボーッとして、何も考へてゐないやうにしか見えないのに、人を惹き附ける不思議な魅力がありました。あどけなさの殘るおとなしい青年が、一度バイクに跨ると見違へるやうに走つたものです。決勝直前の控え(パドック)でもぐっすり眠れるやうな人は他には居ないでせう。然も、時速300粁を越える速度をいとも簡單に叩き出す不思議。特に曲がり角(カーブ)では重心のぶれない、それは美しい走りをした、正に「天才ライダー」の名に相應しい逸材でした。

 2001(平成13)年には、世界選手権 GP250級の全16戰の内、優勝11回を數へ「年間綜合優勝(シーズン・チャムピオン)」を飾つてゐます。これは、年間最多優勝回數の新記録でもあり(今もつて破られてゐません)、文部科學省から「スポーツ功勞者顕彰」を受ける等、世界最速に一歩一歩近附いてゐました。自身の誕生日7月4日に因んだ背番號74番を附けた162糎(センチメートル)、52瓩(キログラム)と云ふ小柄な身體の何処に力があるのか不思議に感じたものです。

 彼が亡くなつた時の嘆きはほんたうに代へ難く、ぽっかり心に穴が空いたやうで、堪りませんでした。彼の走りが、どれだけの勇氣や力を私に與へてくれてゐたか、わかりません。私と同じやうな背格好の日本人が、世界で活躍してゐたのです。日本では殆ど知られてゐませんでしたが、住んでゐた伊太利のミザーノには彼の名を冠した道路もでき、生前はセリエAの蹴球選手からサインを求められた程の人物でした。
 身内以外でこんなに悲しんだことは他にありません。3歳の誕生日にお父さんから小型自動二輪(ポケットバイク)を買ひ與へられてから、週末はずっとレース漬けで、プロになつても不平不滿をこぼすことなく、妻子を持ち、ひたすら頂點を目指して走り續けてゐたのです。

03ds1 それから、「ツインリンク茂木」で行はれる世界選手権日本大會(Japan GP)に、「大治郎シート」と云ふ特別枠席ができ、家族を引き連れて日本人選手たちの應援に行つてゐます。MotoGP級王者ヴァレンティーノ・ロッシをして「強力なライバルのひとり」と言はしめた加藤大治郎選手。02年に同じMotoGP級へ上がり、當時同じホンダの(現在はヤマハ)RC211Vに跨り出すとロッシは頻りにどのタイヤを選んだか、シャーシは何か、色々探りを入れたことをよく覺へてゐます。當時、唯一ライバルとして非常に意識してゐたのでせう。

 日本人ライダーとして、世界王者に一番近いところに居て、これからが最も樂しみであつたにも拘はらず、神に召されてしまひました。モーツァルト然り、天才は長生きできないのでせうか。享年26歳の早過ぎる死は決して忘れられません。

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