2014年3月27日 (木)

歌曲の夕べ

Kioi 毎年、欠かさず聽き續けてゐる「藤村實穂子 リーダーアーベント」も、今年で4回目となる。會場はいつもの紀尾井ホールだが、今回はS席が取れずA席二階左横、舞臺上。袖からの入りが見えない席だが、距離感が違ひ、ぐっと近い。

 今回はリヒャルト・シュトラウスとマーラーの《子供の魔法の笛》より數曲と後期浪漫派に絞つてゐて、時代の空氣なのか、作風もどこか似たところがある。マーラーの第7曲〈原初の光〉は、交響曲第2番の第四樂章にそっくり取り入れられ管絃樂伴奏となつてゐる爲、獨奏樂器が洋琴伴奏ではどうなるのか、よくわかった。そして、〈この世の生活〉と〈魚に説教するパドゥアの聖アントニウス〉も何某か2番に使はれてゐる。普段何氣に聞いてゐる交響曲の原型を垣間見られたのがとてもよかった。
 廣瀬大介さんがプログラムの中で、藤村さんを「求道者」と読んでゐる通り、毎回工夫が凝らされた選曲や演出には舌を巻く。今回の伴奏もヴォルフラム・リーガーで、丁寧な彈き分けがまた、曲を盛り上げてくれた。

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2013年12月21日 (土)

身體で聽く

 本日は休憩時間に淺草のギャラリーエフへ、友吉鶴心さんの「花一看」、第11章『うたかた ~方丈記ヲ歌フ』、第3話を聽いた。平安時代に起きた天變地異を自分で取材した鴨長明の話。800年以上前の話でも、世知辛ひ世の中は變はらないどころか、もっと酷かつたやうだ。

 現代人は耳にイヤホンを差し込んで、耳だけで聽くと思つてゐるが、音樂は自ら進んで身體で受け止めるもの。その言葉はいたく心に刺さった。生演奏、アクースティックな蓄音機も身體で感じるものだから。

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2013年4月23日 (火)

ラヂオ公開収録

 顔本友人から薦められた、美男子新人ムード歌謡歌手、川上大輔がラヂオの公開歌番組収録に出演すると云ふので應募したところ、見事當選。クラシック、オペラ、歌舞伎、文樂と普段親しんでゐるものと客層が全く違ひ、歌謡曲と云ふ敵地へと乘り込む感じ。兎に角、アウェーなのだ。まづ、普段着のおばちゃん、お年寄りが圧倒的に多い。然も、ご贔屓歌手のために電飾附團扇やボンボンを揺らし、途中で聲援を送る。川上さんは歌聲が獨特であり、それが魅力なのだが、まだ新人故に、聲を掛ける人も間合ひが惡い。

 番組としては、3人の歌手が順繰りに出て、二曲披露する間に話を聞くと云ふもの。ラヂオの他、衛星放送でも放送すると云ふので、二回分を一度に収録する。正月の収録も樂しかつたが、全く関はりのなかつた世界だけに、面白い經驗であつた。

川上大輔《ベサメムーチョ  ~美しき戀唄~》是非、一度お聽きください。

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2013年2月21日 (木)

花一看

 Gallery Fでの友吉鶴心さんの生演奏、「花一看 第10章」『平家儚常』を聽きに淺草へ。來月留學する學生さんを誘つて行く。江戸時代末期に建造され、震災にも、空襲にも、3.11にも耐え抜いた藏の中での薩摩琵琶の演奏も、随分と聽いてゐる。最近は申込が早いので好きな席が確保できるため、できるだけ後ろを狙ふ。壁にも響いてガンガンと聽こえるのがよい。この閉鎖空間で、目の前で繰り広げられる儚く優雅な「敦盛」を解説を交えての語り。これは想像力の問題でもあるが、頭の中に須磨の濱が自然と目に浮かぶ。

死とは何か、鎮魂、感謝、未來と云ふ時の流れの中で薩摩琵琶を奏でゐると云ふ。いと樂し。

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2013年2月 7日 (木)

奏樂堂

Sougakudou 奏樂堂で演奏會があると聞いた時には、てっきり舊奏樂堂だと勘違ひしてゐた。

 顔本友達でもあり後輩でもある方の大學院音樂研究科、學位審査會公開演奏會を聽きに出掛けた。試驗なので、後方で先生方が審査をしてゐるが、無料公開と云ふのが嬉しい。勿論、初めて足を踏み入れたのだが、まるで、歐州の教會の中に居るやうな、壮麗なパイプオルガンの音が迫力があるどころか、どっぷり音に浸る感じ。

 その方はオルガン部門三人のうち最後の演奏で、ホール全體がバッハの音に包まれ、オルガンの音に包まれて、浮遊するのだ。唯、耳を澄ます迄もなく、ホール全部が鳴り響き、居るだけなのに、地に足が附かず、宇宙に飛び出して、浮かんでゐるやうな感覺に襲はれる。

 バロックらしい輕やかで装飾音に溢れた曲の演奏、前につんのめりさうな勢ひでぐいぐいと進む演奏の後、樓閣を仰ぎ観るやうな演奏で、それぞれの人の個性的な演奏が面白かった。

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2013年1月 7日 (月)

新人

Natuki1 2月6日のCDデビュー前に川上大輔さんの生歌を聽きに、ラジオ日本へ。FBの知人から是非、生の聲を聽くべきだと云はれて、「夏木ゆたかのホッと歌謡曲」のスタジオ觀覧に應募したら、大當たり。

 100名位の大講堂での収録かと思つたら、普通に局内の小さなスタジオ内の関係者の間で、「本番」の一聲にも緊張し乍ら聽くことができた。歌の間も滑らかに對應する小沢亜貴子さん 川上大輔さん本人、そして、笑顔の素敵な山口瑠美さんの3人の歌聲をほんの3米位の距離で聽けた。初登場から20周年、15周年と云ふ熟達演歌歌手の間で、高い音ながらやや擦れた獨特な聲を披露してくれた。クラシックと違つて、マイクロフォンを使ふとは云へ、迫力滿點。

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2012年11月26日 (月)

獨逸歌曲

 今年で3回目となる、藤村実穂子さんの「リーダーアベント」を聽きに、紀尾井ホールへ。シューベルト、マーラー、ヴォルフ、R・シュトラウスと云ふプログラムで、浪漫派から後期浪漫派へと年代順に歌ふので、歌曲の變遷も理解できる素晴らしい内容であつた。
 シューベルトは水に関する曲を集めてゐるが、ヴォルフラム・リーガーの洋琴伴奏が素晴らしい。曲に應じて音色がまるで違ふ、漣、戯れ、月光、それぞれを思ひ浮かべられるのが凄い。そして、それに負けない藤村さんの集中力。歌聲の艶、奧行き、曲の表情、表現力が神髄を味はへる喜び。心の奥底へ届く光。歐州で活躍するのも理解できる。

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2012年8月28日 (火)

洋琴獨奏會

Kuroiwa 先日、友人の洋琴獨奏會を聽きに銀座ヤマハの6階に在るコンサートサロンへ。ほんの40名程の小さなホールで、洋琴の音がビンビン響くよい空間。
 黒岩悠さんは伯林在住の洋琴家で、一時歸國の際にしか聽くことはできないが、ポゴレリッチに似た力強い運指から、的確な音が表現されて行く。
 バッハの《佛蘭西序曲》BWV.831は思索的であり、内面へひた走る哲學的な曲想となり、難解に感じただけの、その直ぐ後に《主よ、人の望みよ喜びよ》は清々しく、そして、前半最後のヨハン・シュトラウス二世の喜歌劇《かうもり》よりグリュンフェルト編曲に拠る《維納の夜會》は、きっと譜面が音譜で真ッ黒だと思はれる技巧的な曲。装飾音過多で鳴り響きを意識してゐるのは19世紀末の後期浪漫派の匂ひ。それは、あっさりと彈き切つてしまふのはさすが。

 後半のシューマン《幻想曲》作品17は、頭に浮かぶ曲想が進み過ぎて筆が追ひ附かないシューマンぽさを感じる。
ファンタジー(幻想)に相應しい勢ひと留まり、廣がりから内側に籠もるところ、安易な複雑と云ふ表現を許さない深さを感じた。洋琴のもつ幅を考へさせられた演奏會であつた。

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2012年2月29日 (水)

壇ノ浦

 本日、都心は大雪です。雪に慣れてゐないので、足下の惡さに、滑らないやうに歩くのもたいへん。

 さて、先週末、鶴心さんのギャラリー・エフでの獨奏會へ行つた。江戸時代末期の藏の中での演奏會「花一看」も既に第九章「レクイエム」の第四話「壇ノ浦」であつた。鎮魂と題したこのシリーズも今回で終はるが、死者への手向けとしての音樂も意識するとしないではだいぶ違ふ筈。

 丁度、大河ドラマ「平清盛」の音樂監修の裏話や源平の合戰の樣、それをどのやうに琵琶で演じるかを詳しく説明してくれた後に演奏。波間の音、鬨の聲、舟のぶつかる音… そして、最後に無常觀が漂ふ。この曲は實は錦史師匠が映畫に合はせて、昭和に作曲したものであり、盲僧琵琶が語り續けたものとは違ふのだと云ふ。傳統は時代に合はせて、變幻自在に變化して受け入れられなければ繋がらないとの言葉は重かつた。

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2012年1月18日 (水)

ペトルーシュカ

 管絃樂によるストラヴィンスキイは幾度か聽いたこともあるが、それがバレヱの實演となると稀だ。《ペトルーシュカ》は1988年の2月に確か、瑞西のチューリヒで觀た記憶がある。初めて眼にする《ペトルーシュカ》の、目映いばかりの動きの多い、素晴らしい舞臺であつた。

 今回は「ニジンスキイ・ガラ」のマラーホフの主人公ペトルーシュカはほんたうに生き人形そのものので、悲哀に滿ちた素晴らしいものであつた。廣場で人形遣ひの笛により息を吹き込まれた、道化のペトルーシュカ、踊り子、ムーア人は人前で踊るが、踊り子に片思ひをしたペトルーシュカが迫るがムーア人に追ひ払はれ、つひには殺されてしまふ。廣場の人々はほんたうに人殺しが起きたかと大騒ぎをするが、呼ばれた人形遣ひが手にするのは藁の詰まった人形であり、人形遣ひが歸へる途中、天幕の上では抜け出たペトルーシュカの魂が名殘惜しさうに訴へ掛け、恐れをなした人形遣ひが逃げるところで終はる一幕四場。

 冒頭から腕を棒で押さへ、吊り下げられた人形のやうに高度な技術で足を動かし、また、時折だらんと手を垂らして人形を表現。曲想が變はる度に、そのまま演技となつてゐるので、あの複雑な総譜が非常に親しみ易く感じる。嗚呼、かう云ふ場面を言ひたかつたのかと、一一納得した。

 1911年にバレヱ・リュス(露西亞バレヱ團)により、巴里のシャトレ座で初演された時は大いに沸いたことだらう。今回もマラーホフの踊りは抜きに出てをり、人形と云ふ囚はれのペトルーシュカの哀しみを表現してゐた。フォーキンの振附、ブノワの装置と衣装は現代の我々には古めかしくも感じるが、そこはオリヂナルの良さがあり、露西亞らしさが全面に出てものであつた。かう云ふ舞臺に出會へる機會はなかなかあるものぢゃない。東京シティフィルの演奏はまずまずで、踊り子に合はせた爲、變化に乏しいものの、オブジャニコフの指揮によく附いて行き、生演奏の良さが出てゐた。

 家族4人ともなると、直前の割引切符であつた爲、前から3列上手側に3席、28列21席の後方中央に1席と分かれたが、迫力のある前だと前列の頭が邪魔なのと、舞臺と目線が等しく奥行きが解らず、後方だと全體に見渡せ、然も音の釣り合ひもよかつた。この邊りは好みであらうか。

觀終はつても、不規則な變拍子の旋律が頭を渦巻き、暫くはストラヴィンスキイの魔法に掛かつたまま、マラーホフの殘像を樂しんだ。

 

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