2009年7月14日 (火)

見せない工夫

K1 京都でのスクーリングを前に念願叶って「桂離宮」を拝觀。3箇月前に宮内廳に申込み、其の申込用紙と共に本人確認の上、やっと入場できるが、苔保護の爲、飛び石の上だけを歩くやうに細かく指導され、小雨の中解説附きで園内をぐるりと巡る。しっとりと濡れた飛び石や苔の風情がよく、梅雨時の瑞々しい美しさが際立つてゐた。

 當時は正門から這入り、お輿(コシ)を降り、薩摩藩から寄進された蘇鉄の前の東屋で一旦待たされ、それから移動するのだが、桂川の川の水を引き込んだ池庭は入り組み、全部が見渡せないやうに工夫され、各所に茶室が點在し、四季折々の木々の移ろひや月を愛でるやうになつてゐる。何とも風雅は佇まひであることはブルーノ・タウトの日記から知つてはゐたが、これほどとは。細かい遊びや工夫が随所に施されてゐる。そして、入母屋造りの御殿からは全てが見渡せる構造だ。月見臺まで施し、館の正面から昇る中秋の名月を樂しもうと云ふ發想も素敵。

 併し、考へてみれば現在の天皇のやうに公務で外出することもなく、御所に軟禁状態の江戸時代初期の宮家の唯一の遊び場でもあつた筈だから、可能な限り創意工夫でもして樂しむ以外に何ら心休まる場所もなかつたと思ふと不憫にも思へる。

Book忘れられた日本 (中公文庫)


著者:ブルーノ タウト

販売元:中央公論新社
Amazon.co.jpで詳細を確認する


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月12日 (水)

第三帝國の音樂

 早稲田大學音樂同攻會創立75周年記念講演會に、幾度もお世話になつた山崎浩太郎さんが出られると聞いて、學生會館地下B101號教室へ赴く。入場無料、先着順と聞いて、開場30分前に行ったら、まだ誰も居らず、周りの廊下ではワセオケの學生が練習してゐて五月蠅いので、學食で名物オムライスを食し、開場を待つことに。
 自分の母校とは明かに雰圍氣が違ふ、華やかさのないのが微笑ましい。學生の頃はああしてよく壁に向かつて練習したものです。知らない人にはさぞかし傍迷惑であつたことでせう。

 主題は「第三帝國とクラシック音樂」と云ふことで、珍しい音樂系翻譯ものを手掛けるアルファ・ベータ社長中川右介との對談でした。現役學生幹事が司會を勤め、最初に佛蘭西のテレビ番組を觀て、それから當時の實況録音や最先端技術の音を聽き、途中で意見を伺ふ形式で、お二人の對談だけを樂しみにしてゐた自分としては、やや肩透かしを食らつた感じでした。

 最初見たものはお藏入りの作品で非常に珍しい映像も多々ありました。1988年にバイエルンに在る「ワルハラ」を訪ねたことがありますが、そこにブルックナーの胸像を安置する儀式がヒトラーによつて行はれたこと、占領したプラハに獨逸人音樂家のモオツァルト像を設置したことなど、時代背景を知らないと只のニュース・フィルムに終はるところ、山崎氏が詳細に説明。
 併し、ナチス自身の理念を音や映像で殘した爲に、戰後は逆に領土を蹂躙された國により惡の帝國としての証拠を突き附け、ニュース・フヰルムも映畫も自分たちの都合のよいやうに編輯してゐた嚴しい内容の番組でした。

 また、戰時中とは思へないやうな明瞭な音像(テープ録音)が廣がり、スタジオの録音を蓄音機で聽くのとは違つた趣がありました。

 價値觀が多様化した21世紀の今から見れば、西洋論理の進み過ぎた或る時代の証拠として明確であり、惡と言ひ切れるところがやや切ない。ナチスは賛美せずとも、プラモデルで親しんだ軍服や當時の録音まで云々するのはどうかとも。小室哲哉が詐欺容疑で逮捕された途端に、彼の曲まで自粛する放送業界はおかしいと中川氏。確かに、そんなことを言つたら借金まみれでも絹の肌着しか着なかったワグナーの作品なんかどうなることやら。過剰反應を引き起こす日本も危うい國なにかも知れませんね。映像を見て、色々考へることができました。

 自分たちで触れられたくない過去を真正面から見つめようとする獨逸人の考へ方は凄いと思ひます。折しも、「帝國のオーケストラ」が上映中です。
http://www.cetera.co.jp/library/library_img/teikoku/orche.wmv

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年10月24日 (金)

江戸情緒

Nakamuraza この間、淺草寺境内の「平成中村座」公演、《假名手本忠臣藏》のC組を觀ました。桃井家家老、加古川本藏に焦點を當てた構成となつてをり、大序〈鶴ヶ岡社頭兜改めの場〉の次、滅多にやらない二段目〈桃井館力彌上使の場〉が入り、既に許嫁である小浪に逢ふ場面や、三段目〈足利館表門進物の場〉及び〈松の間刃傷の場〉を挾んで、八段目〈道行旅路の嫁入〉では勘三郎の戸無瀬と七之助の小浪の踊りも入り、九段目〈山科閑居の場〉です。

 江戸情緒たっぷりに靴を脱ぎ、狭い椅子席で見ますが、館内でお辯當も食べられ、狭い分聲も通り、花道も近く、よく觀えて樂しかつたです。文樂で好きな〈山科閑居の段〉は義太夫節と科白の違ひや、「でかしゃった、でかしゃた…」と泣きの入る場面の違ひが樂しめ、仁左衛門の本藏が切られた後には、目頭が熱くなります。
 橋之助の若狭之助、彌十郎の高師直、瑞々しい七之助、孝太郎の顔世御前とお石、勘太郎の鹽谷判官、若人の活躍が光りました。歌舞伎は役者を見るものですが、役者が揃ふと尚更素晴らしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月17日 (金)

すき焼パーティー

Sukiyak まだ、すき焼がご馳走であつた頃、船上でもすき焼パーティーが行はれたのだと云ひます。戦前の日本郵船の豪華客船では、献立以外でも、註文さへあれば何でも本當にこしらへて食べさせたのが自慢であつたとか。

 船旅で唯一の樂しみの云へば食事であり、食べることに飽きれば退屈極まりない。そこで甲板に茣蓙を敷き、紅白の幕で囲ひ、卓袱臺に電氣コンロですき焼を食べさせたところ、非常に好評であつたらしいのです。その雰圍氣を今月いっぱい、横濱の氷川丸で再現してゐます。船上では関東式に割り下を作つて炊いたやうです。異國情緒溢れ、さぞかし優雅であつたことでせう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月24日 (水)

十三夜

13ya_2 秋色手拭ひ、もう一部屋は「十三夜」。中秋の名月、十五夜は過ぎましたが、樋口一葉の小説『十三夜』の一場面を墨の濃淡で描いた風情のある淺草「ふじや」の作品です。壁が反射して線が入つてゐますが、落ち着いた色合ひです。

 夫の仕打ちに耐えかね離縁覺悟で家を飛び出した阿關(オセキ)。置いて來た子供が不憫だと父親に諭され、人力車で戻ることに。車夫は淡い戀心を秘めてゐた幼馴染みの録之助でした。添ひ遂げられなかった二人は十三夜の明るい月の下、夜道を歩き出すのでした…。

 不忍池の畔に在る黄楊櫛の「十三屋」や神田の串焼「十三屋」もクシ(九+四)から來てゐます。西洋では嫌はれる數ですが、奇數を尊ぶ我々には決して不吉な數ではありません。

Book大つごもり・十三夜 他5篇 (岩波文庫 緑 25-2)


著者:樋口 一葉

販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する


原文で一度は読みたい樋口一葉 (OAK MOOK 212)Book原文で一度は読みたい樋口一葉 (OAK MOOK 212)


著者:樋口 一葉

販売元:オークラ出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 3日 (水)

深秋山水

Akisansui 根本さんに出してゐた掛け軸が装ひも新たに戻りました。水洗ひ、染み抜きの上、周りを取り替へて見事に生まれ變はつてゐます。畫像はずッと寄つて繪だけしか寫してゐませんので、ご來店の際にとくとご覧下さい。將に蘇生した感じです。
 今迄氣附かなかつた水泡、水紋、川の色や鳥、そして奥行きが出て、奥山に分け入つたやうに見事な繪が再生されました。「夏雲」と云ふ號は圓山應擧(1733-1795)も使つてゐましたが、そんなに古いものではありませんから、別人です。

| | コメント (0)

2006年8月23日 (水)

ブランデンブルク門

Btor 壁の在る頃は東西冷戰の最前線として象徴的に語られて來た「ブランデンブルク門」ですが、今まで下を歩いたことがなく、今回やっと實現しました。17年前に壁に登つたことが嘘のやうです。觀光客に溢れかえり、只の歴史的建造物になり下がった感じもしないでもありません。

 昔の伯林の城門であり、西のブランデンブルク地方に面してゐるのでこの名が附いてゐます。「白虎門」と云ふ感じでせうか。此処から東にウンター・デン・リンデン通りが始まり、王宮へと向かふ凱旋門でもあります。それ故、普佛戰爭や國家社會主義獨逸勞働者黨(ナチス)の鉤十字の旗めく印象が強いのも否めません。巴里の凱旋門も觀光客で賑はつてはゐますが、兵士の爲の火が點る戰爭色の強いもので、佛蘭西の象徴的な意味も持たされてゐますね。

Berlinolympic レニ・リーフェンシュタールの映畫〈意思の勝利〉は日本でのDVDの發賣はありませんが、簡單にネットで手に入れることができます。これは1934(昭和9)年にニュルンベルクで行はれたナチス全國黨大會の記録映畫なので、ブランデンブルク門と直接関係ありませんが、綺麗に揃ひ過ぎた行進が此処でも行はれてゐたことでせう。彼女は1936(昭和11)年の夏期オリムピックを記録した映畫〈オリムピア〉を撮り、絶賛されてゐます(戰後は逆に否定され續けました)。先月「ヒンデンブルク號」のことで調べてゐたとは云へ、歴史の舞臺に立つと色々考へさせられるものです。

 東西冷戰の頃の西伯林には獨逸の國旗が掲げられてゐることなど見たことありませんでしたが、今回は、矢鱈と、どの路地でも少なくとも1本は目にしました。窓やバルコニーに差してあるだけですが、以前では考へられないことでした。蹴球世界杯(ワールドカップ)の主催國として、自信を附けたからでせう。二度も戰爭を始めた國として、戰後は一環してナチスを否定する教育を續け、イスラエルに援助をし、ずっと低姿勢で來た獨逸人が、國際試合を開催し、多くの外國人を歡迎して受け入れたことにより、獨逸の印象は劇的によくなつだけでなく、人々は國の誇りを取り戻した筈です。伯林の街角でそれを感じました。




Triumph of the Will (Rmst Spec)


DVD

Triumph of the Will (Rmst Spec)


発売日:2006/03/28

Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0)

2006年6月23日 (金)

ドルニエ Do X

  「ツェッペリン伯號」が世界一周へ飛び立つた頃、民間輸送機は精々10名運ぶのがやっとでしたが、100名を超す人を乘せて飛行機を飛ばそうと考へた人がゐました。それが、クロード・ドルニエ(1884 - 1969)です。彼はツェッペリン飛行船會社から獨立して、同じボーデン湖畔で、飛行艇の開發に勤しみました。大型飛行機では芝生の滑走路にめり込んで進めませんが、水上なら大型化が可能でしたから、飛行艇の研究が一歩先へ進んだのです。

Dox 何とも憎めない飛行艇「ドルニエDo X」は1929(昭和4)年7月12日に初飛行、10月21日には、169名も乘せて世界記録を打ち立てました。定員の乘客150名、乘務員10名、それに密航者が9名も居た爲、定員オーバーが逆に世界最多となりました。

 ご覧の通り、目立つのは翼上の6列のエンジンでせう。ジーメンス・ジュピター9型エンジン12基が附けられましたが、馬力不足で後に610馬力のカーチス・コンカラー水冷式V型12氣筒エンジン12基に替へられ、やっと大西洋横斷へ向かひます。全長40.05米、全幅48米に56噸とかなり重い爲、なかなか高く飛べませんし、速度も出ません。但し、客船の設備を基本に考へてゐた爲、乘客100名が旅中飽きないやうに、ラウンジ、喫煙室、シャワー室、食堂まで完備し、「ツェ伯號」を上回る設備でした。乘務員は通常14名程で、操縱室、機長室、航海室、機關室それに通信室まで調ひ、豪華なホテル並です。前後6列12基のエンジンは重い割に効率が惡く、設計上のミスもあり頑張つても速度が出ません。理想だけが先に行つてしまつた感じです。

 献立表は生憎殘されてをらず、厨房の寫眞も見たことがないので、冷たい料理が供されたこと以外詳しいことはわかりません。豪華なワインと共に珈琲、紅茶が沸かせたとしても、キャビアにフォア・グラのテリーヌ、3食共サンドヰッチだとしたら、何日も飛ぶのには耐へられませんね。それに艇内は防音が完備してゐませんので歩き廻れたとしても、かなり五月蠅かつた筈です。

 1930(昭和5)年11月2日に和蘭のアムステルダムから葡萄牙のリスボン、伯剌西爾のリオ・デジャネイロ、亞米利加のマイアミ、そして紐育へ華々しく向かふのですが、高温多湿の大氣では、通常の馬力も得られず、一度着水すると離水も出來ない始末。装備を減らし、内装を外し、乘員を減らして何とか飛び立ちますが、氣温の高い日中は精々高度3米、夜間でも50~80米しか飛べません。夢ばかりで鈍重なところが逆に愛らしい。6列エンジンは他の飛行機にはないだけに、私は好きです。故障も多かつた爲、ルフト・ハンザの印を附けて定期航路に就けず、博物館行きとなりました。Do Xの後繼艇のDo 24は實用化されましたが、定期航路には就かず獨逸空軍省で救難飛行艇として使用されました。
 パンナムの古いポスターで見たことがある程度で、詳しいことは知りませんが、飛行艇は1930年代に主に北米で活躍したやうです。

 この度、エア・バス社がボーイング社の「ジャムボ・ジェット」を越える世界初の総2階建て、超大型旅客機A380(最大853席、通常555席)を製造するとのことですが、どうなりますかね。空の上の豪華な食事は今も憧れの的です。

Dornier Do X

| | コメント (0)

2006年6月22日 (木)

空の女王

 水素は酸素と反應して水になりますので、環境汚染を解決すべく燃料電池への應用が期待されてゐます。併し、水素は空氣中の酸素に触れると爆發を起こします。それ故、風船に入れられるは瓦斯はヘリウムを使ひます。安定した元素なので爆發の危險はなく、最近では「風船の餌」として罐に入つて販賣もされてゐます。LZ129「ヒンデンブルク號」が飛び立つた頃、既に獨逸國家社會主義勞働者黨(ナチス)に危機感を抱いた亞米利加政府は唯一のヘリウム産出國でしたが、飛行船の軍事利用を恐れて輸出を禁止し、「ヒンデンブルク號」は仕方なしに水素を氣嚢一杯にしました。ヘリウムより水素の方は浮遊力が大きい爲、急遽重しの爲に特製のグランドピアノを載せ、釣り合ひを取り大西洋横斷へと向かひます。

Hbspeise 1936(昭和11)年3月31日、全長245米、最大直徑41.2米、最高時速135粁、空の女王「ヒンデンブルク號」が南亞米利加へ処女飛行を行はれました。フランクフルト・アム・マインに空港が新設され、北米航路ではニュージャージー州、レイクハースト海軍基地まで片道61時間38分、歸へりは48時間22分で結び、3日で亞米利加へ渡れることを宣傳にも使つてゐる程、速い乘り物でした。そればかりか、客船では一週間掛かり高いのに比べ、「ヒンデンブルク號」は片道400弗と破格です。「ツェッペリン伯號」でも北米航路片道1250弗もしたのに、その3分の1の値段です。これは、飛行船が大型化し、一度に50名も(後に改装して70名)運べるやうになつたからです。

ゴンドラ部分は操舵室だけになり、客室は船體部分下へ移り大きく使へるやうになりました。中央部に2段ベット式の客室、両翼に展望サロン、食堂、讀書室、シャワー室、厨房、バー、それに劃期的なのが喫煙室の増設です。靜電氣の引火を恐れ、「ツェ伯號」は禁煙でしたが「ヒンデンブルク號」には煙草を吸えるところがあり、これは當時の人々に非常に喜ばれました。但し、もしもの際にこの喫煙室だけ切り離されて落下する仕組みであつたことなど誰も知りません。

Hbsp2 食堂はバウハウスを引き繼ぐやうなモダンなもので、廣々として、白いリネンが映え、特製の銀器や磁器も真新し、く改良の加へられた厨房により豪華な食事が供されました。1936年8月21日(金)の献立表を見てみませう。中身の文章は船内でタイプ打ちされて謄寫版(ガリ版)印刷されたやうです。晝食と夕食が併記されてゐますので、一日一冊配られたのでせう。  晝食を見てみると、

コンソメ・スープ パンケーキの浮實
印度風鶏 カレーソース 御飯と豆添へ
苺 生クリーム添へ
珈琲

とあります。獨逸の街角のソーセージ屋で一番人氣がCurry Wurst(クリー・ヴルスト)なのですが、焼いたソーセージにケチャップを掛け、そこにターメリックの効いたカレーパウダーを掛けただけの實に單純な料理です。これにゼンメル(Semmel)と呼ばれる小さく丸い佛蘭西パンが一緒に附き、大きく口を開けて頬張ります。日本語風に「カレー・ヴルスト」と發音すると全然通じません。戰前からこれがあつたかわかりませんが、カレーソースはピリリとした辛さが異國を感じさせたことでせう。そしてワインと一緒に樂しめると考へると、今の飛行機の2等席のやうな感じなのでせうか。但し、2人用個室の寝臺でゆっくり眠れますし、殆ど揺れません。飛行船の方が優雅ですねえ。

 7月26日(水)にヒンデンブルク號の料理を再現致しますが、材料の關係により、この料理ではなく1936年8月17日の献立を使ひます。 

| | コメント (0)

南米航路

 第一次世界大戰で負けた獨逸は賠償金の一部として飛行船は接収され、格納庫は日本へ移譲され霞ヶ浦の海軍基地に組み立てられました。1929(昭和4)年のLZ127「ツェッペリン伯號」世界一周の際に利用されたのは言ふまでもありません。1924(大正13)年に亞米利加へ送られたLZ126は後にZRIII「ロス・アンゼルス號」と名を變へて米海軍で活躍しました。

 「ツェッペリン伯號」は世界一周で長距離飛行の安全性を世論に廣く訴へ、南米航路が開設します。獨逸のフリードリヒスハーフェン、西班牙(スペイン)のセヴィリア、伯剌西爾(ブラジル)のペルナンブコ、首都リオ・デ・ジャネイロを結び、後に獨逸から伯剌西爾まで直行し、多くのビジネスマンを運びました。リオから飛行機の接續で、亞爾然丁(アルゼンチン)のブエノス・アイレスまで飛ぶことも可能で、歐州から南米まで最も早い航路でした。この南米航路の献立表も幾つか蒐集してゐます。特に1935(昭和10)年邊りに使はれたものは、多色刷りで大きな椰子の木と夕日に「ツェ伯號」が描かれ、旅情を盛り立ててくれます。
Suedamerika
 例へば、ペルナンブコからフリードリヒスハーフェン間の1935年5月20日(日)の晝食
  クリーム・スープ アグネス・ソレル風
  若鴨のソテー 豆、馬鈴薯、林檎のコムポート添へ
  加州産黄桃 ライス添へ
  珈琲

と云ふのが載つてゐます。濃縮したコンソメはそれまで一般的でしたが、この頃になるとクリーム・スープも出され、船内で調理された温かい食事は特に魅力であつたことでせう。デザートのライスは甘く煮込んだライス・プディングのやうなものだと思ひます。食べてみたくなりますね。そのうちにベルランで再現する機會を作りたいと思つてゐます。

 飛行機には1919(大正8)年に倫敦・ブリュッセル間で初めて機内食が出されてゐますが、ランチボックスでサンドヰッチに果物、チョコレートが附いて3シリングと別料金でした。珈琲と紅茶は魔法瓶で、1930年代に歐米にこのランチ・ビックス形式が廣がります。2003(平成15)年に伯林からフリードリヒスハーフェンへハーン・エアライン社で飛行船に乘る爲に直行したのですが、ドルニエの18人乘り小型飛行機であつた爲、ライ麦パンにハムの挾んである獨逸らしいサンドヰッチとチョコレートがひとつ、それにポットから珈琲を入れてくれました。器こそ違ふものの、70年前と變はらない形式ですね。

 

| | コメント (0)

2006年6月21日 (水)

遊覧飛行

 アルミニウムと云ふ丈夫で輕い金屬の枠組みの中に風船を入れ、それにゴンドラを提げて飛ぶ、硬式飛行船LZ1は1900(明治33)年にフェルディナント・ツェッペリン伯爵が私財を投げ賣つてやつと成功しました。根っからの軍人であつた伯爵は軍事利用を考へてはいたものの海軍から註文も入らず、郵便と客船として飛行船事業を考へざるを得ませんでした。そこで世界初の航空會社「獨逸飛行船運輸會社(DELAG = Deutsche Luftschifffahrts-Aktiengesellschaft)」が1910(明治43)年に設立されてゐます。

 まづ、LZ7「獨逸號」が就航しますがエンジン故障で事故を起こしますが、「獨逸二世號」は30回もの國内遊覧飛行を行つてゐます。狭いゴンドラ内には向かひ合はせになつた籐椅子が並び、輕食も頂けました。LZ10「シュヴァーベン號」はバーデン、ゴータ、伯林、ポツダム、フランクフルトを巡回し安全で快適な飛行を見せ附けてゐます。1912(大正元)、13(大正2)年の2年間に250回の飛行はめざましい進歩でした。

Schwaben そこで何が出されたかが氣になります。アルベルト・ザムト元船長の自傳『飛行船に尽くした私の人生(Mein Leben fuer den Zeppelin)』 Verlag Pestalozzi Kinderdorf Wahlwies に「シュヴァーベン號」の色刷の美しい献立表が載つてゐます。それを見ると、キャビア・ベルーガ、ストラスブール産フォア・グラのパテ、佛蘭西産肥育鶏、サラダ、ピーチ・メルバが載つてゐます。ボトルワインは6種類、それに食後酒とミネラルウォーターもあります。調理場はありませんので、地上で皿盛りにしたものを幾つか載せたのでせう。暖かい料理はないにしても、現在の遊覧船も似たやうなものです。獨逸の觀光船でライン下りをした際に見た献立よりも高價な食材です。それは、誰もが乘船できなかつたことを意味し、富裕層を狙つたからです。それをきちんと最初から商賣にしてゐて、黒字經營であつたのも立派なことです、ワイングラス片手にキャビアやフォア・グラなんて、さぞかし美味かつたことでせう。

Nt_1 現在、南獨逸のフリードリヒスハーフェンを基點としてツェッペリンNT號が遊覧飛行をしてゐますが、こちらは12人乘りで食事はありません。戻るとゼクトで乾杯は致します。日本にも同じ型の飛行船が廣告にのみ使はれてゐますが、2003(平成15)年に乘つた時、確か335ユーロでしたので凡そ1時間の遊覧飛行で5萬圓と決して安くはありません。併し、それだけ拂っただけのことはあります!のんびりとボーデン湖の上を飛ぶのは非常に氣持ちいいものです。ただ、「窓や窓枠もプラスチックなので手を掛けないで下さい」との注意放送には吃驚しました。「確實に落ちます」なんてはっきり言はれると、自己責任の國なのだなあと思ひました。それ故、日本では遊覧飛行に使はないのでせうか。

ボーデン湖遊覧飛行

| | コメント (0)

2006年6月20日 (火)

優雅な食事

 飛行機は1903(明治36)年のライト兄弟初飛行以降で暫くは操縱士ひとりと云ふ單獨飛行かお客ひとりで、遠くまで飛べませんでしたから食事が出ません。1927(昭和2)年に大西洋單獨無着陸飛行を成し遂げたチャールズ・リンドバーグもサンドヰッチとミネラル・ウォーターだけでしたから、空の上で兩手の空いた人しか食事は無理ですね。

 1783(天明2)年に佛蘭西のモンゴルフィエの作つた人類初の熱氣球有人飛行では25分間巴里上空を飛んだだけですから、食べてる暇もなかつたでせう。そこで登場するのが伯剌西爾(ブラジル)の珈琲王から遺産を引き繼ぎ、伊達男として知られたアルベルト・サントス=デゥモンでせう。1898(明治31)年に日本産の絹と竹の籠を使ひ氣球を飛ばしてから、すぐに空での食事を思ひ附きました。勿論、慣れない大空での食事なので、訓練が必要だと考へ、高さ1・8米の卓子とそれに合ふ椅子を拵へてそこで食べる訓練をしたのです。最初は食堂の天井から卓子と椅子を吊したらしのですが、當然天井が落ちたので、こんなことを考へたのですね。

 「飛行にはシャムパーニュ附の贅澤な晝食が必要」だと考へてゐたので、固茹での玉子、冷製ローストビーフとチキン、チーズ、アイスクリーム、果物、ケーキにシャムパーニュ、珈琲、シャルトルーズ(食後酒)まで載せて、「かうして氣球に乘つて雲の上でとる晝食より美味いものはない」と言つてゐます。只上空に揚がるだけでは滿足せず、移動する手段を考へます。特に輕量で單純なガソリン内燃機関(エンジン)を使ふことを閃き、石疊よりも震動が少ないことを喜び、どんな反對にもめげずに獨自に飛行船を設計したのです。アンリ・ジファルによる蒸氣機關による飛行船の實驗が既に1852(嘉永5)年に行はれてはゐますが、實用化はされてゐませんでした。

 1898(明治31)年の「1號機」から數へて、1901(明治34)年の「6號機」で制限時間の30分間エッフェル塔の周りを廻る飛行に成功し、名譽ある「ドゥーチ賞」を獲得してゐます。サントス=デュモンは自分で航空機を設計し、自分で費用は賄ひ、自分の發明で特許を取ることもせず賞金の10萬フランの半分は助手たちに與へ、殘りは巴里の職人達が質入れした道具の買ひ戻しに使つてゐます。大金持ちだつたからこそできることでせう。この時は記録への挑戰が優先されて、晝食は食べなかつたと思ひます。

 「9號機」の〈バラドゥーズ(散歩人號)〉は全長33米の「6號機」に比べる3分の1の11米と小型で、命名通り空中散歩に使はれ、ブローニュの森のレストランへ行く時に、或ひはカフェのテラスに降り立ち、食前酒を一杯飲んだり、随分と優雅なことをしたものです。但し、これも一人で操縱する爲、空中で食事をしたのかどうかはわかりません。

 小柄であつた爲「プティ・サントス」の愛稱で呼ばれた彼は、お洒落で常に襟の高い(high collar)シャツを着てゐた爲、日本では後にお洒落な人を「ハイカラ」と呼ぶやうになつたさうです。また、飛行中懐中時計ではポケットから出していちいち時間を確かめるのが煩はしいと聞いたルイ・カルティエが腕時計を考案して贈つてゐます。それが角形で羅馬數字の有名な『サントス』です。これは1978年に金の龍頭、ステンレススティールのベルトで復活を遂げ、ご婦人用も賣り出されてゐますね。

 大空での優雅な食事は最初から、誰もが味はひたいと思ふものなのでせう。



空飛ぶ男 サントス‐デュモン


Book

空飛ぶ男 サントス‐デュモン


著者:ナンシー ウィンターズ

販売元:草思社

Amazon.co.jpで詳細を確認する

 

| | コメント (2)

2006年6月19日 (月)

空の食事

 お客さんを連れてワイナリーやチーズ、それにお酢等の食品工場を訪ねる旅を年に一度企畫してをり、昨年の新西蘭は例外ですが、大抵歐羅巴へと旅立ちます。10年計畫で始めたこの旅行も今年で、既に6回目に當たり10月にトリュフを食べにピエモンテを訪ねます(只今參加者募集中です)。

 歐州航路は直行便で凡そ12時間。半日座りっぱなしなので疲れます。併し、就職して歐州へ向かふ冷戰の最中の1986(昭和61)年、蘇聯上空を飛べなかつた頃はアラスカのアンカレッジ經由でしたから、もっと辛かつたですね。8時間乘ると日本時間の深夜に起こされ、機體整備の爲空港に降りると眩しい明るさに時差ボケが進み、日本語の上手な二世のおばちゃん相手に何故か饂飩(うどん)をすすったり、お土産の燻製鮭(スモーク・サーモン)を買つたりしたものです。そして、再び乘り込んだ飛行機は6時間掛けてやつと歐州上空へ到達するのでした。その經驗があるので、12時間なんて決して長いとは思ひません。

 當時はまだ全面禁煙ではありませんでしたから、喫煙席すぐ後ろの禁煙席の場合、ふわーっと煙がやって來るので閉口したものです。銘柄なんか勿論知りませんが割合ひきつい煙草で、歐州人の吸ふものは日本のおじさんたちの「ハイライト」とは香りが全然違ひ、優雅な舶來ものだと感心したものです。聞き慣れない外國語が飛び交ひ、外國へ行くと云ふ實感がふつふつと沸き上がりました。通路を挟んで斜め前に座つた、でっぷり太つた佛蘭西人のおじさんの高い鼻穴からフーと紫煙を吐き出すところが、初代ゴジラ(1954年公開)を彷彿させました。頭の中ではすっかり伊福部昭の旋律が渦巻き、卓子の上に並んだ食べ殘しがミニチュアの町並みに見えて、「嗚呼、やられる」と云ふ氣分で退屈を紛らわしたのです。書き初めて、久し振りにその情景が目に浮かびました。「ジタン」だつたのかも知れませんが、灰が胸の上に落ちても差程氣にも留めず、旨そうに吸つては、鼻から大量に紫煙を吐き出す姿はゴジラそのものでした。

 それまで、布哇くらいしか行つたことがなかつたので、歐州系航空會社の食事の違ひは目を見張りました。「フィッシュ・オア・ミート」と順番に訊かれるのに、どんな調理法かもわからないのに決めねばならない苦痛と、自分で聲に出して英語で意思表示をする心配で舞ひ上がるものなのですね。そして、音樂を聽く爲のイヤホンや酒類はタダでしたし、ワインも種類があり、食後酒まで勸められたのにはさすが吃驚しました。味はどうと云ふことはありませんでしたが、昭和一桁の父親に嚴しく殘さず食べるやうに躾られた爲、食べ切るともう滿腹過ぎて、胃はムカムカするし、アルコールも利いて來て、時差ボケも重なり、折角の最新映畫を見損なはないやうに目を開けてゐるのも必死でした。氣にせず寝てもいいのですが、映畫好きとしては見逃すのは大損に思へて、つひ頑張つてしまひました。そして、また幾時間かすると食事が出て、食べ續けてゐると段々フォア・グラにされる鵞鳥の氣分にもなつて來るものです。

 飛行機で遠くへ移動する際に最も樂しみなのが實はこの「食事」なのですねえ。今週は大空の食事のお話しです。

| | コメント (0)

2006年6月16日 (金)

グルメなロッシーニ

Rossini 作曲家の中で、一番の美食家と云へばジョアキーノ・ロッシーニ(1792-1868)でせう。「モオツァルトの再來」として騒がれ、24歳の時に歌劇《セヴィリアの理髪師》で大當たりを取つてから、數多くの歌劇を書いたもののモオツァルトを越えられる譯ではなく、37歳で歌劇《ウィリアム・テル》を發表後は、さっさと筆を折り印税だけで生活する樂隠居をした人です。ロッシーニが最も得意としたオペラ・ブッファの流行が下火になりつつあることを敏感に察し、最先端となるグランド・オペラは畑違ひと感じ、十分働いたからと引退したらしく、巴里で世俗の快樂に走つたのでせう。

 年間3~4本もオペラを書いた爲、作曲が間に合はなかつたのか、使ひ回しも實に多いので吃驚させられます。例へば、有名な歌劇《セヴィリアの理髪師》序曲は、指揮者の試驗にの使はれる緩急、大小音の揃つた變化に豐んだ親しみ易い曲ではありますが、元々《パルミーラのアウレリアーノ》の序曲であつたものを、《英國女王エリザベッタ》の序曲に再利用し、更に丸々《セヴィリア》にも使ふ横着なところがありました。今なら著作権だとか、獨創性からして物議を醸し出すことでせうが、ロッシーニとしては大衆さへ喜べばそれで良しとした勸があります。

 暇に飽かせて美食の道を突き進んだのですが、自ら厨房に立つだけでなく、自ら新しい料理を考案し、「ロッシーニ風」と名附けた料理は今でも我々は食べることができます。本當に彼が實際に編み出したものかは定かではありませんが、名前が附いて後世まで殘るのは非常に稀ですから、作らせたとか、調理人にヒントを與へたとかのが真相かも知れません。

 クルトンの上に牛フィレ肉とフォア・グラを載せ、トリュフの入つたソース・ペリグーを掛ける「トゥルヌド・ロッシーニ」、フォア・グラ、トリュフ、ヨークシャー・ハムをクリームにして、マカロニに詰めた「注入したマカロニ  ロッシーニ風」、骨髄を使つた「リゾット ロッシーニ風」… ありとあらゆる食材にロッシーニ風が附いてゐます。詳しくは水谷彰良著 『ロッシーニと料理』 透土社 をご覧下さい。

 また、演奏旅行の度に行く先々で地元のワインを飲み、すっかりワイン通となつたロッシーニ家の地下藏には、佛蘭西、伊太利、獨逸、西班牙、葡萄牙ばかりか、南米のワインまで秀逸ワインが集められ、然も氣輕に客人に振る舞つたさうです。初めて口にしたのは、7歳の時に教會のミサ用ワインを味見したのが最初だとか。私の父は酒を飲まない人ですが、母方は酒豪揃ひで、私も物心附いた時からこっそり味見したものです。

 ロッシーニはワインの味もわかる男と云ふ評判も立ち、それ故、王侯貴族との附き合ひの幅も廣がりました。1864(元治元)年の或る日、ロートシルト男爵から屋敷内の温室で採れた美味しい葡萄一箱が、ロッシーニ家に贈られて來ました。「飛び切りの葡萄に感謝します。ただ、一口分のワインとは少々寂しいですなあ」と當て擦りの返事を送りましたが、機知に富んだ言葉に気附いた男爵は「シャトー・ラフィット・ロートシルト」の小樽を直ぐにロッシーニの元に届けさせたと云ふ逸話もあります。1本2萬圓はするボルドーの最高級赤ワイン、「シャトー・ラフィット・ロートシルト」が一箱贈られれば、そりゃあ誰でも大喜びするでせう。生憎、私はロートシルト男爵の友達ではありませんし、機知に富んでゐる譯でもなく、未だそんな機會に恵まれません。當たり前かあ。

 晩年に作曲した《老ひの過ち》と題した小品集が有りますが、160曲の内12曲の洋琴(ピアノ)曲に食べ物の名が附けられてゐます。死後《セヴィリア》と《ウィリアム・テル》以外すっかり忘れ去られ、1970年代になつてやっと再評價されたロッシーニ。晩年は明けても暮れても料理のことしか頭になかつたのでせうから、仕方ありませんね。


| | コメント (0)

2006年6月15日 (木)

庶民派ブラームス

Brahms 自由都市ハンブルクの貧民窟に育つたヨハネス・ブラームス(1833-1897)は家族愛に支へられましたが、家計を助ける爲に13歳にして酒場で演奏して生活費を稼がねばなりませんでした。ご覧の通り、青年時代は亞麻色の長い髪に、碧眼のイケメンですが、やや背が低かつたことを氣にして貫禄を附けようと努力し過ぎたのか、後年は肥滿體、髭面、むさ苦しいおじさんになつて仕舞ひました。

 18歳で名の知られたピアニストになりますが、何と言つても20歳の時シューマンに『音樂新報』の中で「新しい道」と紹介されたことが大きく、この恩を忘れることなく、未亡人になつてもクララ・シューマンとその子供たちに大いに愛情を注いでゐます。當然、クララ自らの手による料理を樂しんだことでせうが、洋琴演奏家と知られたクララが料理の作り方を殘した譯ではないので、何が好きであつたかわかりません。

 若い頃は鉛の兵隊を随分集めたやうです。今で云ふとプラモデルやフィギュアと云ふ奴です。彩色を施し、大將から騎兵隊、歩兵まで澤山持つてゐて、シューマンの子供達に自慢の兵隊で閲兵式を披露したやうです。他に趣味としては作曲家の手書き総譜や直筆原稿の蒐集がありました。これらは没後、遺言通り維納樂友協會に遺贈され、モオツァルトやベートーヴェン等の貴重な譜面の數々が散逸せずに殘つてゐます。

Rotigel 酒好き故肝臓癌で亡くなりましたが、美食家ではなく、生涯獨身を通した爲、維納の庶民派レストラン「赤い針鼠」に入り浸つたことが知られてゐます。それ故、こんな漫畫も殘されてゐる譯です。葉巻を噴かし、足取りも輕く「赤い針鼠」へ向かふご機嫌なブラームスが描かれてゐます。街中で出遇うへば、たちどころに「嗚呼、ブラームスだ」と判る位有名であつた筈ですが、煌びやかな生活よりは庶民的な生活を好みました。
 此処は既に廢業して在りませんので、詳しいことは判りません。以前、維納のブラームス博物館に問ひ合はせところ、肉団子入りの澄まし汁(コンソメ)、維納風カツレツ、洪牙利風グーラーシュのやうな現在でも食べられるごく普通の維納料理を食べたことだらうとの返事でした。もしも、ブラームスが日本人だとしたら、近所の定食屋へ通ひ、さしづめ鯖の味噌煮定食やカレーラーイスにハンバーガー等を食べたことでせう。

 家族思ひで知られたブラームスですが、 彼の父親は貧乏生活に甘んじて息子の施しを決して受け入れませんでした。それでもブラームスは「音樂は大きな慰めを與へてくれるものです。ヘンデルのオラトリオ《サウル》の譜面を置いて行きますから、困つた時には樂譜を手に取つてみて下さい」と言つて総譜を置いて行きました。幾年かして、さすがに貧乏生活に耐えられなくなり、ふと息子の言葉を思ひ出した父親は《サウル》の譜面を開きました。すると、各頁毎に紙幣が挟み込んであつたと云ふのです。さりげない心配りのできる人だつたのでせう、さすがです。

 苦勞を重ねた所爲か、大金を手にしても贅澤とは無縁で、着る物に金も掛けず、葉巻で穴の空いた上着やちんちくりんのズボンでも全く氣にせず、お腹いっぱいになればそれで滿足したのでせうね。當時の流行作曲家のヨハン・シュトラウスとも仲が良い割に、抜けるやうな青空を感じさせる曲はなく、どんよりとした曇り空を思はせる北獨逸の心象風景や、深い憂いや惱みを打ち明けるやうな大人向けの曲を書いたブラームス。普段はのほほんと暮らしたのでせう。

| | コメント (0)

2006年6月14日 (水)

大食漢のバッハ

Bach_1 ヨハン・セバスティヤン・バッハ(1685-1750)は就職先の仕事により作曲内容も随分と違ひ、ワイマール時代(1708-17)にはオルガン曲の傑作が多く、ケーテン時代(1717-23)には管弦樂、器樂曲が集中して書かれ、ライプツィヒ時代(1723-50)にはプロテスタントの立場でカンタータを初めとする教會音樂が數多く作曲されました。當代きつての最も優れたオルガニストとしても名を知られたバッハは、特に即興演奏の大家としても有名でした。

 1716(正德15)年4月17日~20日に掛けてバッハはハレを再訪し、聖母教會の大オルガンの改造が完成した爲、ライプツィヒのトマス・カントルのヨハン・クーナウ(1660-1722)とクヴェドリンブルクのカントル、クリスティアン・フリードリヒ・ロレ(1681-1751)と共に試奏に招待されました。3人にはそれぞれ16ターラーの禮金と共に旅費や食事が提供されたことが判つてをり、其の時の祝宴メニューが殘つてゐます。辻靜男著 『料理に「究極」なし』  文春文庫に「バッハの食生活」と題した、素敵な随筆があり、料理家から見た食事に就いて書かれてゐます。この時、3人の音樂家はハレ市當局により手厚く歡迎されました。

 「牛肉の煮込み、鱒のアンチョビ・バターソース添へ、スモークハム、ソーセージとほうれん草、羊のロースト、仔牛のロースト、えんどう豆、馬鈴薯、茹で南瓜、アスパラガス、レタスと赤蕪、揚げ物、檸檬の皮の砂糖漬け、フレッシュ・バター」

 平素簡易な生活に慣れてゐたバッハにとつては、とても豪華な食事に見えたことでせう。後々にもそれが自分の食べた一番の御馳走であつたと語る程でした。獨逸人の食事は今もかなり質素で、朝はパンにハムと珈琲、晝に暖かいもの、例へばソーセージと馬鈴薯、そして夜は火を使はない黒パンにチーズとハム、それにワインか麦酒なんて感じです。1986(昭和61)年に初めて渡獨して、2箇月獨逸語の學校へ通つたのですが、或る晩大家が「Abendessen」に招待してくれました。「夕飯」なので、さぞかし御馳走が出るものと、期待してきちんとネクタイを締め、背廣を着て出掛け、こちらは會話に四苦八苦し乍らも、黒パンに載せられたハムやチーズの前菜の後にどんな素敵な料理が出て來るものかと、ワクワクしました。ところが、1時間たつてもそのままで、何も出て來ず、結局それでお仕舞ひでした。獨逸の夕飯がどんなものか、知つてゐれば過度な期待はしかなつたのですがねえ。獨逸の夕飯と云ふと、空腹で寝られなかつた晩を思ひ出します。

 さて、ロレは自分の老齢を考へて食事も飲み物も控えめに取り、クーナウは飲食どちらも當然とされる限度を超えないやうに氣を附けましたが、31歳のバッハはそんなことには丸切り頓着せずに、口に合ふものを好きなだけ、弟子にも分け與へず平らげ、大いにワインも飲み干したと傳へられてゐます。そして美食が絶倫な精力源となつたのか、2人の奥さんとの間に20人もの子供を殘しました。併し、大食から來る肥滿(肖像畫からも伺へます)は健康にも影響し、高血壓で糖尿病だつた可能性が高いと云はれてゐます。

 料理が一人前ずつ切り分けて盛られ、一皿ずつ出されるやうになる(露西亞式の給仕)のは、佛蘭西でも19世紀半ばを過ぎだ頃ですから、この頃はまだ一時に澤山の御馳走が所狭しと食卓の上に並べられ、前菜やデザートの區別もなく、肉も魚も全部一緒くたにナイフ一つで手掴みで食べたのです。立食ではありませんから、基本的に自分の手の届く範囲ものしか口にできませんが、もしかすると、バッハは弟子に卓子の反對側まで取りにやらせたかも知れませんね。現在の我々から見れば、熱いも冷たいもなく、随分と野蛮な印象を受けますが、さぞかし豪快な食事だつたことでせう。



Book

料理に「究極」なし


著者:辻 静雄

販売元:文藝春秋

Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0)

2006年6月13日 (火)

ベートーヴェンのオムレツ

Btv ベートーヴェンが維納に住んだのは1792(寛政4)年から1827(文政10)年の死に至る迄の約35年間でしたが、實に80回以上も引越しを繰り返しました。家主や女中との喧嘩、無遠慮な隣人、ナポレオン軍による砲撃や稜堡の爆破の騒音等に耐へかねて市内に住む弟カールに助けを求めたこともありました。それでも、現在は「ベートーヴェン記念館」として一般に公開されてゐるヨハン・F・パスクワラーティ男爵(1777-1830)の大邸宅に一番長く住んだのです。1988(昭和63)年に訪れた時は磨り減つた石の階段を、今にも嚴(いか)めしい顔をして後ろに手を組んだベートーヴェンが歩いて下りて來さうな感じがしたものです。

 1802(文化2)年に「ハイリゲンシュタットの遺書」を書き殘し、自分が聽覺を失つてゐることを文章として打ち明け、情緒ある人として他人と接することができない絶望を表しました。難聽は周囲の世界との隔絶も意味し、内面を掘り下げ深く追い求める作曲にも繋がつた反面、直情径行型の性格が災ひして、身の回りのことにはとんと無頓着、整理能力はまるで無く、むさ苦しい身成のベートーヴェンの住まいを

 「古臭いグランドピアノの上は埃だらけの上、印刷物や樂譜が山と積まれ、ピアノの下には異臭を放つおまるが置きっぱなし。ペン先にはインクがこびり附き、床や籐椅子の上には食べ殘しの食器、脱ぎっぱなしの服が散亂してゐた・・・」

ベートーヴェン宅を訪問したド・トレモン男爵が惨憺たる部屋の様子をかう述べてゐます。引越しの理由を考へると實は汚し放題、作曲中には奇聲を發し、盥に水を張つて着衣のまま頭からそれを掛ける等、常人には考へられない行爲により階下の住人からは苦情が相次ぎ、家主から追い立てられた可能性の方が高いのです。

 無茶苦茶な生活をしてゐただけあつて、決してグルメではなく單なる酒飲み(アルコール中毒の父親の遺傳?)で食事も不摂生になりがちでした。どうも他人に對する勞りに欠けるのか女中に對しては何時も辛辣で、何をしても氣に入らず、馬鹿だと罵り、買物の小錢を盗んだのではないかと疑ひ、横暴の限りを尽くした爲、早いと1日で、長くても精々20日程度でどんな女中も辞めて行きました。女中に逃げられた時は仕方なく自炊もしたと云ひます。胃腸が弱い所爲か、マカロニ、パン、スープ、魚料理、仔牛の肉、牛舌、當時貴重であつた玉子を好んで食べました。特に玉子に對する執着は異常で、鮮度を確かめる爲に光に透かしてみたり、女中にオムレツを10個も作つて並べて吟味したり、料理中の女中の後ろでウロウロしたり、そして氣に入らないと女中の背中に卵を投げ附けて大聲で怒つたと云ふのですから、たまつたものではありません。

 珈琲とワインだけは欠かしたことがなく、夕方には麦酒かワインを飲みながら煙草(晩年は葉巻)を吸ふのがひとつの樂しみであつたやうです。珈琲に關しては自ら豆を一粒一粒数えて、いつもきっちりと同じ數だけ挽いて入れないと氣がすまない拘りもありました。當時は味はひが丸くなると鉛をワインに混入することが多く、ベートーヴェンの難聴も鉛中毒が原因だつたやうです。
 1994(平成6)年、ベ-ト-ヴェンの遺髪8束が競賣に掛けられ、ベ-ト-ヴェンの死因を探る爲遺傳子(DNA)鑑定に出された結果、通常の人の凡そ100倍の鉛が検出されたのでした。お腹をこわして醫者にワインを止められても決して止めなかつたので、ますます鉛中毒が進んでしまつたのでせう。



ベートーヴェンの遺髪


Book

ベートーヴェンの遺髪


著者:ラッセル マーティン

販売元:白水社

Amazon.co.jpで詳細を確認する


| | コメント (0)

2006年6月12日 (月)

モオツァルトの好物

 6月號の『レコード藝術』に特別企畫があり、「モオツァルトを食べる」なんて記事がありました。今年は生誕250周年に當たり、特に墺地利は鼻息が荒く、ワイン業界でも盛んに業者向け試飲會を開いてゐます。SP時代のモオツァルトは非常に不遇で、歌劇作家として歌は認められてゐても、交響曲は非常に少なかつたのです。因みに喇叭吹き込み時代の管絃樂のレコード型録を見ると、ベートーヴェンやヨハン・シュトラウスは分厚い頁を割いてゐるのに對して、モオツァルトは何と薄いこと。19世紀に人氣が陰り、20世紀になつてやっと歌から盛り上がつて來たのでせう。

 『レコ藝』にはバター好きであつたことから、當時の焼き菓子(グーゲルフプフ、カルディナール・シュンニッテン)が載つてゐて、好物はチョコレートだとのことです。18世紀のチョコレートはホットで飲むもの(ココア)でした。勿論、非常に高價なものでした。見せ物のやうにして父レオポルトと宮廷巡りをした時は、餘興に招き入れられるだけですから、貴族と同じ食卓に就くことはありません。それでも、流行りもの故、倫敦では口にしたやうです。以前『Campanella』と云ふ雑誌に作曲家と料理に就いて、連載をしたことがありました。料理を再現して寫眞を撮り、關はりに就いて随分と調べたものですから、今週は作曲家の料理に就いて書きませう。

Conti モオツァルトは通常、召使ひたちと一緒に裏方で食べました。身分の違ひは服装だけでなく、食事もかなり差があつたことでせう。軍隊でも一兵卒と士官では未だに別食堂で別メニュです。ルーヴル美術館にオリヴィエ畫の『コンティ公宮殿での茶會』と云ふ油繪が有ります。1766(明和3)年に倫敦、和蘭から歸へる途中、巴里に立ち寄り、コンティ公爵家に招かれ、幼いモオツァルトがチェンバロを彈いてゐる圖柄です。
 左に大きな窓があり、その前でレオポルトが譜面を睨み、コンティ公が椅子にちょこんと腰掛けたモオツァルトの後ろに立つて茶會を見渡し、隣に名歌手ジェリオットがギター伴奏をしてゐます。お客はと云ふと椅子に腰掛けてお喋りに興じ乍らチラリとモオツァルトを見る者、ビュフェの料理を取らうとしてふと耳を峙(そばた)てる者、お皿を持ち乍ら感心して聞き入る者、或ひは酒をねだり、料理に夢中な殿方や、給仕に忙しい召使ひ等が描かれ、優雅なお茶會の様子がよくわかります。

 このコンティ公爵は、かのポムパドゥール夫人とブルゴーニュの葡萄畑の所有権を巡り爭ひ、 8萬ルーヴルと云ふ大枚を叩いて、やっとロマネ村の秀一畑を手に入れました。そこで採れた葡萄から自家用のワインを造らせ門外不出とした爲、コンティ公のワインは此処へ招かれた者しか飲めませんでした。それこそが現在でも垂涎の的「ロマネ・コンティ」なのです。1.8ヘクタールの畑に、作付面積 は1.63ヘクタールしかなく、ピノ・ノワール種だけで、年産凡そ3,700リットル、つまり4,900本。1本(750ml)少なくとも20萬圓以上、當たり年なら50萬圓もします。

 餘興好きなコンティ公爵が幼いモオツァルトにも飲ませたかどうか記録はありません。勸められなければ勝手に飲めない筈ですから、嚴格なレオポルドは、そんな高價なもの要りませんと斷はつたかも知れませんね。



レコード芸術 2006年 06月号 [雑誌]


Book

レコード芸術 2006年 06月号 [雑誌]


販売元:音楽之友社

Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0)

2006年3月23日 (木)

往年の指揮者

Dirigent 現役の指揮者なら幾らでもサインを貰ふ機會はありますが、既に彼岸の向かう側の住人では致し方ありません。併し、誰かが生前貰つてゐるものです。代替はりした際に、それらは興味のないご遺族の手から離れて競賣に出て來て、高値で取引されてゐます。
 只の肖像絵葉書(ポートレート)ですら取引されてゐますが、其処に實筆署名が入ると突然桁が上がります。色紙やプログラムもそこそこ値が張りますが、寫眞があるとないとでは雲泥の差出す。ここに掲げたものでは、左上奥の絵葉書から、ニキッシュ、ワルター、カラヤンそして下段にトスカニーニと並んでゐます。ニキッシュの寫眞左下に撮影した人のサインが入つてゐますが、本人のものはありません。ワルターの場合、裏に鉛筆で書かれてゐるものが、實筆のやうですが確証はありませんでした。カラヤンはデッカ社録音時代の珍しいもの。そしてトスカニーニは葉書に1934年11月20日と日附まで書いて貰つてゐますので、尚更價値が高くなります。

 珍しいと思ふと尚更力も入りますが、どうせこんな金額では無理かと思つたものが、案外簡單に落札できたり、途方もない値段が附いて、諦めざるを得ない時もあり、運任せです。これを「一期一會」と云ふ他なく、ご縁がなければ仕方ありません。

 手に入れば順番に額に入れたいのですが、なかなか資金も續きません。かみさんに自慢氣に見せた途端に、顔が曇り「そんなものどうするの」「死んだら全部賣るから、仕入れ代金書いて置いてね」と、いとも簡單に言はれた時は、さすがに「ワルハラの神殿」が崩れるかと思ふ程の衝撃を受けました。これらは一箇所にまとめてはあるものの量も増えて段々整理整頓も上手くできません。自分で自分に呆れてゐます。

Autgram  特に好きなフルトヴェングラーになると、自らの蒐集努力の結果の筈ですが、自然に増殖したのかと感じる程、矢鱈と増えました。他にもサインは入つてゐなくとも著作やプログラム等もありますから、どうしますかねえ。蒐集も量が増えると、置き場所にも困り、盗難の心配やら地震や火事の際にどうするかも真劍に考へねばならない筈ですが、どうも、かう云ふことには無頓着なので、いけません。

Cascol 指揮者だけならよいのですが、歌手や演奏家もありますので、どんどん増えます。これはまだ髪のある若きカザルスと、ドン・ホセに扮したコレルリです。限界とか切りと云ふものがありませんので、現實問題として、もう手放すことも視野に入れていかないといけませんが、なかなか難しいですね。それが蒐集家の諦めの惡さでせう。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年3月20日 (月)

蒐集癖

 普段、平日の夜は仕事ですから、月一回でも演奏會に行ければよい方ですが、歐州時代は殆ど休みの度にオペラか管絃樂を聽きに行つたものです。素晴らしい演奏を聽くと、それだけでは物足りなくて、何か特別な記憶に殘ることをしてみたくなるものです。さう考へると自然と足は樂屋口へと向いてしまひますが、既に隠し(ポケット)にはサインペンが忍ばせてあります。

 初めて行く演奏會場でも、場數を踏んだだけ鼻が利くのか、袖口や裏方の樂屋出入口がわかるものです。學生時代は部活で喇叭を吹いてをりましたから、他大學から招待券がよく回つて來ました。それを、暇な連中と聽きに行くのですが、知り合ひが居れば、ずかずか舞臺裏まで押し掛けて、出來榮へを賞賛したり、指揮者に挨拶したり、さも関係者の振りをしたものです。自分が演奏した際も、友人が訪ねてくれるのは嬉しいものでした。上氣し昂奮したまま感激露はにお喋りしたり、失敗して穴にも入りたくなる氣持ちを抑えて作り笑ひで迎へたり、樂しい思ひ出です。それ故、専門家の演奏なら尚更、演奏家や指揮者の實筆署名(サイン)を頂きたくなるのです。

 日本のオケ(管絃樂團)の場合は、樂屋口で待つか、控へ室の前まで行ければ、指揮者から直接、プログラムに實筆署名が頂けます。來日オケの場合は、樂屋口で辛抱強く待たねばなりません。不機嫌な指揮者はさっさと待たせてゐるハイヤーへ直行して、無愛想でとりつく嶋もありません。大勢待つてゐれば、我先にとならず案外良心的に列を作りますが、餘り強引では厭がられ、かと云つて引つ込み思案では頂けませんので、その邊りの呼吸が難しいですね。また、これからの新人や、餘り人氣のない演奏家や、機嫌のよい指揮者なら、署名後、必ずこちらの目を見て返してくれます。

 オペラの場合は、化粧を落とした歌手の顔を判別するのが結構難しいですね。舞臺上で大きき見える人が、小柄であつたり、若々しく見えたのが實は白髪のお婆さんであつたりして愕然としますが、またその落差も面白いものです。もみくちゃにされても、終始にこやかに署名して下さる方は、當日の演奏が不出來でも、ファンの心をがっちりと掴み、今日はたまたま調子が出なかつたのだらうと、贔屓になります。

Photo_6 今週はそんな樂屋出口の顛末を書きませう。これは、1989(平成元)年9月19日、伯林でシューベルトの《冬の旅》を聽いた時のものです。ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(Br.)と伴奏がアルフレッド・ブレンデル(Pf.)。長身で知的な二人の心温まる調和が忘れられません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月17日 (金)

飛行船蒐集物

Tasse1 飛行船に關するかなりの本に目を通して來ました。飛行船研究では、中大獨逸文學の天沼春樹先生が第一人者ですが、料理の再現までした人は、私の他にをりません(獨逸のツェッペリン博物館が料理本を出版してゐますが)。それに、村上ムッシュから「飛行船博士」の稱號まで頂きましたから、日本では2番目位ではないかと、勝手に思ひ込んでゐます。

 英語や獨逸語の原書は、1920年代に出版されたものから最近まで、「飛行船」「Luftshiff(獨)」「Airship(英)」の表題本なら大抵のものが手元にあります。寫眞を眺めてゐるだけでも、次から次へと興味が湧き、想像力を掻き立てて樂しいものです(餘りに集まり讀み切れてゐません)。

Buecher この蒐集癖は小さい頃からでした。何故か古い物ばかりが好きでした。最初の記憶は溝(ドブ)の向かう側にアルマイトが鈍色に光る藥罐(ヤカン)が落ちてゐて、それに手を伸ばした途端に落ちてずぶ濡れになつたことでせうか。近くを通る人に助け出されましたが、臭くて、悲しくて大泣きしましたので、幼稚園前の筈です。「木口小平(キグチ コヘイ)ハ死ンデモ喇叭ヲ離シマセンデシタ」に近くて、助け起こされても、決して掴んだ藥罐は離さなかつたさうです。ご存じない方も多いと思ひますが、戰前の教科書に日清戰爭の美談として載つてゐたもので、同じ喇叭吹きとして忘れられない故事です。

 岳父は今も皇居でなくて「宮城」と言ひますので、70代の方とお話ししても、別段、違和感なくごく自然に昔話しができます。自分の目で見た、體驗した話しを聞けるので、歴史好きの私としては、ワクワクする位です。戰後、間もない頃は地下鐵銀座線、上野驛の改札を出た地下道に戰爭孤兒や浮浪者が溢れ、氣味が惡かつたとか、増上寺邊りは人っ子一人ゐなくて夜通るのは車でも厭だとか、散々祖母に聞かされました。すっかり、それらが染み込んでゐますから、何の違和感もなく、ごく普通にまるで見て來たやうに喋る爲、うちのかみさんに「あなたいったい何年生まれかしら」と呆れられます。

 戰國時代の本も結構讀みましたが、近代史、特に昭和の初めの方が親しみを感じます。特に「ツェッペリン伯號」のお陰で昭和4年8月の新聞はじっくりと讀み返しましたので、帝國飛行協會(現航空會館)の屋上には飛行機が置いて有つたとか、廣瀬中佐の銅像が萬世橋驛前に在つたことも知りました。日露戰爭の旅順港封鎖作戰の際に部下の杉野兵曹長を探す最中に戰死した廣瀬中佐や、現在の交通博物館の場所が中央線の終着「萬世橋驛」だなんて知らなくてもいいことを知つてゐますので、吃驚されますね。

Menus それで、飛行船に關する蒐集ですが、高いものでは飛行船内で使はれてゐた磁器、次いで献立表、稀覯本と續きます(畫像參照)。ここでお見せする磁器と献立表は實際に1929~1935年に使はれたものの一部です。以前競賣で6客一組の皿類、カップ類、大皿、羮器(スープ・チューリン)等かなりの數が出てゐましたが、一人の蒐集家がまとめて600萬圓位で落札してゐました。大金持ちになると、桁が違ふものだと吃驚したものです。

 献立表は結婚式でもさうですが、持ち歸へるのが禮儀ですので、大事にしてゐた人から傳はつて來たものでせう。宮中晩餐會で献立表を忘れると、わざわざ届けてくれるさうですよ。
 料理内容を見ますと、スープ、肉料理、デザートが基本で、夕食は輕いものになつてゐます。それは、今も獨逸の人々が頑なに守る食生活と一緒なのです。今も晝食は家に歸へつて食べて、また學校へ行つたり、會社へ戻る人も大勢居て、晝食後も働くので力を附けなくてはいけません。併し、夜は夜遊びは別として、基本的に寝るだけですから、冷たい食事(kaltes Essen)で何ら問題ない譯です。黒パンにチーズやハム、それにワインだけで火を使ひませんから、食事の支度も樂ですね。

 献立ひとつから材料や料理だけでなく、食生活もわかるのですから、面白いのです。何時かは全献立料理の再現をしたいと思つてゐます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月16日 (木)

和食の再現

 ベルランを飛び出して「ツェッペリン伯號」に關する再現料理を作つて頂いたこともあります。今も土浦で營業を續ける料亭〈霞月樓〉の會長堀越恒二さんは、實際に係留した飛行船に乘つた数少ない証言者のひとりです。

Kmenu 1929(昭和4年)8月19日、海軍霞ヶ浦航空隊の基地に降り立つた飛行船は、すぐにテント下で歡迎祝賀會が開かれ、乘客は帝國ホテルを目指して常磐線の臨時列車の1等席に乘り込み、エッケナー博士以下11名の士官たちは枝原司令主催の歡迎會へ招かれます。それがその〈霞月樓〉に、献立表も殘されてゐました。和食の献立表はそもそも、主人若しくは板長が料理人に作らせる爲の覺へ書きのやうなものでしたから、詳細に食材が羅列してあります。

 椀盛、刺身、取り肴、焼物、甘煮、小丼、茶碗、水菓子と8品もある、立派な會席料理です。一人當たり4圓したと記録されてゐますので、今のお金に換算すると凡そ40,000圓です。金額からしても、納得のいく最高級の純和食で異國情緒を味はつて貰つたことがわかります。
 梶木鮪(カジキマグロ)、車海老や鮎の塩焼き、鮑の塩蒸し、鼈(スッポン)、葡萄(ぶだう)等普通に手に入るものばかりではありません。火どりきす、大葉百合 うま煮、とうがん壽司等調理法のわからないものも澤山ありました。再現に一番困つたのは「真桑瓜(マクワウリ)」でした。昔は軒先、畦道によく植ゑられて食された夏の甘い果物ですが、高度成長期以降、すっかりメロンに驅逐されて栽培農家が殆どなく、數が揃ふかどうかもわからない状況が續きました。レーマン船長が殘した原書に書かれた料理の印象から、調理法を探し出して確認したり、農家を尋ねたりで、全て揃ふことがわかつたのです。

Mfrlay そして、會長のみならず、現ご當主の堀越恒夫社長、堀越雄二専務、大橋靖弘調理長等の並々ならぬご協力により、2003年7月5日、〈霞月樓〉に於いてこの料理を再現しました。46名と云ふ大勢の参加で、最初に15分位會議室で私があらましを話してから、廣間に移りました。更に、料理が出される度に解説を加へ、飛行船に乘せられてゐたモーゼルワイン(年號違ひ)と共に頂きました。海のもの、川のもの、繊細な味はひが口に廣がり、終始和やかな優雅な食事會でした。真夏日のお晝でしたが、霞ヶ浦を渡る風も心地よく、同じ廣間で食せたことは幸運です。
 以前にもツェッペリン伯爵のお孫さんや乘組員等が來日した際にも再現したさうですが、料理人も替はり、同じ食材を得ることが如何に難しいかを知りました。再現料理の寫眞は料理寫眞家山家學さんに、動畫映像もイーアンドイープロダクツの平向榮さんにお願ひして記録しましたので、何時かこれらを本に、または番組して世に出したいと云ふのが私の夢です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月15日 (水)

ムッシュ

 ベルランの「ツェッペリン伯號」に関した再現料理で一番盛り上がつたのは、1929(昭和4)年8月20日、滯在先の帝國ホテルでの歡迎晩餐會の再現でせう。献立表自體は國内に保管されてをらず、獨逸のツェッペリン博物館併設の圖書館探し出しました。現首相の祖父で入れ墨のあつた逓信大臣小泉逓信大臣、財部(たからべ)海軍大臣、宇垣陸軍大臣の主催です。運輸、郵政が一緒の逓信省の時代です。それにまだ、飛行船は軍事に轉用できると考へられてをり、寄港地も霞ヶ浦海軍航空隊基地でした。それ故、格納庫に居る間に綿密な構造調査もされてゐます。噂に聞く最先端技術が其処にあつたのですからね。

1 冷製キャビア、冷製コンソメ、殻附オマール海老 カルディナール・ソース、牛フィレのステーキ ロッシーニ風、氷菓 シャムパーニュ風、冷製鶏肉 ムース添へ、アイスクリーム 富士山型、果實、珈琲とその頃望み得る最高級の佛蘭西料理です。もてなされた船長以下乘客たちはさぞかし喜んだことでせう。ステーキの後にもう一品肉料理が出て來るのは、傳統的な食事形式だからですね。また、宴會料理ですから、一皿づつ運ばれるのではなく、大皿で持つて來られたものを取り分ける形式でした。

 手に入り難い筈の食材は如何にして手に入れたのか。キャビアは船員たちが買つてくれと持つて來とたとか、伊勢海老ではなくオマール海老も使ひ、黒毛和牛が喜ばれ、名物の富士山アイスが好評で、果物は殆どメロンと云ふ決まりであつたとか、詳しい裏方事情も知ることができました。それは故村上信夫、帝國ホテル料理顧問に直接尋ねることができたからです。(撮影:山家學)

Am そこで私共では、2003(平成15)年の11月20日に、村上信夫氏をゲストとしてお招きし、盛大に再現料理食味會を開きました。勿論、私も燕尾服でお出迎へです。合はせるワインはその時手に入る國産ワインの粋を集めました。キザン・スパークリング・トラディショナル・ブリュット、02年産ルバイヤート〈シャルドネ〉金ラベル「舊屋敷畑収穫」、1999年産シャトー・メルシャン〈長野メルロー〉、岩の原「深雪花」、1994年産サッポロ・グランポレール・北海道餘市貴腐〈ケルナー〉です。

 お話し上手なムッシュは當時7歳の子供でしたが、實際に千住にお住まいで「銀色の葉巻」が海軍の複葉機十三式艦上攻撃機の先導でゆっくり飛び去る姿を物干し臺に寝轉がつて見物したことや、先輩から機内食を作る苦勞話しを聞かされたことなど、昨日のやうにお話し下さいました。長年の立ち仕事により膝を惡くされてをりましたが、80歳を過ぎたとは云へ料理もワインの一滴も殘さず、綺麗に召し上がり「何時でも呼んで下さい。近いですから、すぐにまた來ますよ」とも言つて下さいました。

Monsieur 忘れられないのは、まづ調理場に挨拶に來られ、食後には、一皿一皿調理法を解説してきちんと評價して下さり、歸へる前にもシェフを始め從業員に勞をねぎらふ言葉を掛けて下さいました。同業者だからと云つて、なかなかできないことではありません。これには感動しました。優しいお言葉に足が震えたものです。飛行船の結んだ大きな思ひ出です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月14日 (火)

飛行船の料理

 1929(昭和4)年8月19日、世界一周の途中霞ヶ浦の海軍航空隊基地に寄港したLZ127「ツェッペリン伯號」は不況の續く緊縮財政下、熱狂的な歡迎を受けました。大和和紀原作のアニメーション《はいからさんが通る》の中で、西比利亞(シベリア)出兵後行方不明となつた伊集院忍少尉が飛行船で歸國してゐました。1978(昭和53)年から翌年に放映されたものなので、記憶は定かでないのですが、もしかするとこの「ツェッペリン伯號」であつたかも知れません。

 さて、凡そ80年前の話しですので「銀色の葉巻を見た」と云ふご長寿な方幾人にもお遇ひしましたが、もう殆ど風化してしまつた、歴史上の出來事です。霞ヶ浦畔の土浦ではツェッペリンで町興しをしようと、畫策してゐますが、思ふやうな成果をまだ上げてゐません。當時、乘客と士官は東京へ行きましたが、乘組員たちは整備の爲に飛行船と共に殘りました。彼等の勞をねぎらふ爲に馬鈴薯の入つたカレーを作つたところ、非常に好評であつた故事に習ひ、古老にレシピを聞き出して、「土浦ツェッペリン・カレー」と題して再現してゐます。地元名産の蓮根や馬鈴薯等野菜がふんだんに入つたものです。
 カレーそのものは帝國海軍と共に廣がりましたから、横須賀は「カレーの街よこすか」と正面切つて「横須賀海軍カレー」を出し、長岡には出身の山本五十六(いそろく)に肖(あやか)つた「五十六カレー」、呉には「海軍肉じゃがカレー」等全國の海軍縁の地にカレーがあります。今でも海上自衛隊でも金曜日の夜は必ずカレーが出されてゐます。

Zmd1  一方飛行中の「ツェッペリン伯號」の中では、最高級の料理が供され、ベルランではgramophon肝入りで幾度か再現しました。
 これは1929年8月15日、獨逸のフリードリヒスハーフェンを飛び立ち日本へ向かふ日の最初の晝食です。ブイヨンスープ 小團子入り、鮭のムースとマリネ グラーフ・ツェッペリン式、鹿背肉の蒸煮、根セロリのサラダ、クレーム・キャラメル 果物添へ、珈琲と云ふ素晴らしいもの。
 1927(昭和2)年、大西洋單獨無着陸飛行を果たした「スピリッツ・オブ・セント・ルイス號」のチャールズ・リンドバーグが狹い操縱席にサンドヰッチと水だけで33時間過ごしたことを考へると、雲泥の差です。真っ白なテーブルクロスの掛かる卓子に、給仕が船内で調理された料理を運び、磁器の器に銀器で頂くなんて、夢のやうな世界です。然も、燃え易い水素の詰まつた瓦斯嚢へ引火を防ぐ爲、火は使はず、厨房は完全電氣化されてゐたのです。勿論、男女別れたトイレもありました。

Zmd2 然も、事前に印刷された美しい献立表は今でも競賣で取引されてゐます。乘客の實筆が入るものなら、急騰して全く手も出ませんが、自信に滿ちたデザインも素敵で、私も幾つか所有してゐます。順番に再現して行きたいものですが、献立表は料理名だけですから、當時と同じ食材を探すのもたいへんです。既に手に入らないものもあります。それでも、何とか食べられる形にして、お客さんに浪漫を召し上がつて頂きたいのです。

 似たやうな考へ方をする人が居るものです。外見を似せ、本人になりすますと、自然に考え方も似てきて、「本人」を擬似體驗できるという理論(本人術的理論)を實踐してゐる南伸坊さんに共鳴しました。そっくり同じ料理を作り、似た服装で同じやうに食べることが大事なのではないか。この追體驗により、その當時の人と同じ感じ方ができるだらうと、私も考へてゐます。
 ですが、私は給仕に忙しくて未だに口にしてゐません。




本人の人々


Book

本人の人々


著者:南 文子,南 伸坊

販売元:マガジンハウス

Amazon.co.jpで詳細を確認する


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 7日 (火)

王様たち

 ヒゲと一口に言つても色々な種類があります。「髭」は唇の上のクチヒゲを表し、顎(あご)のが「鬚」、そして頬(ほほ)のを「髯」と書いて漢字でも區別してゐます。

Kaiser2  19世紀から20世紀初頭に掛けて多くの人が髭を生やし、特に歐州の軍人や王族は大抵威嚴を保つ爲でせうか、立派なものを蓄へてゐました。プロイセン國王にして獨逸皇帝ヴィルヘルム2世(1859-1941)はカイゼル髭の代表でせう。この皇帝にあやかつて「獨帝髭(カイゼルヒゲ)」と名附けられた位です。
 平和主義者で知られた「我等のフリッツ」フリードリヒ3世(1831-1888)が僅か3箇月で崩御した爲、父の後を繼いだものの、ビスマルクを退けて、帝國主義により拡張政策を取り、第一次世界大戰に負けて退位後は和蘭で亡命生活を送つた人です。我々東洋人を莫迦にした「黄禍論」を唱へたり、かなり偏りのある人ですが、こんな立派な髭には憧れますね。お見事です。

Napoleoniii お隣佛蘭西の代表格として、ナポレオン・ボナパルトの甥に當たるナポレオン3世(1808-1973)がゐます。顎鬚よりも左右に細長く廣がる口髭が特徴的です。普佛戰爭で捕虜になり、アルザス・ロレーヌ地方を失ひ、第一次世界大戰の遠因を作つた爲評價は低いのですが、伊太利統一戰爭ではサヴォワとニース地方を獲得したり、巴里の改造を命じたりしてよい面もある皇帝です。
 併しまあ、こんなに横に伸ばすのはたいへんなことです。餘りいじると枝毛になりますし、寝る時は困つたことでせう。寝返りを打つ時はわかりませんが、私ですら、やや柔らかめの枕を使ひ、横を向く時は顔を少し上から下してみたり髭が下を向かないやうに氣にします。

Nikolayii 蘇聯の革命政府に処刑されたロマノフ王朝最期の皇帝ニコライ2世(1868-1918)は顔中髭、鬚、髯のタイプです。誠實な人柄で、寫眞撮影を趣味とし、子煩惱な家庭人であつたことは善いのですが、亂世に國を統治する力には欠けてゐました。このヒゲは日々の手入れを差程必要としません。毎日鋏を入れなくても目立たない筈です。

Georgev2 ニコライ2世の從兄弟に當たる英國國王ジョージ5世(1865-1935)は、ヒゲだけでなくて容姿も似てゐました。ヴィクトリア女王が長く君臨した爲、皇太子時代の長かつた遊び人エドワード7世(1841-1910)の長男として嚴格に育てられ、皇太子時代の昭和天皇が訪問した際は父親のやうに接したと云はれる人物です。若き裕仁様は「君主たるもの、かくありべき」と大いに見習はれました。

Fjii ハプスブルク家の墺地利&洪牙利二重帝國皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916)も立派ですが、彼には顎鬚がなく、口髭と素敵な頬髭です。若い時の肖像畫を見ると、口髭のみで、これでシシー(1837-1989)を落としたのかと云ふ程の色男です。
 この皇帝が1888年に在位40周年を迎へ、その記念式典の様子をヨハン・シュトラウス2世(1825-1899)が〈皇帝圓舞曲〉にしたと云はれてゐます。併し、『泡沫(うたかた)の戀』で知られる通り、期待してゐたルドルフ皇太子(1858-1889)が「マイヤーリンク情死事件」で死去した爲、喪に服してゐた皇帝に献呈はされませんでした。

Veii 伊太利にだつて立派なヒゲの人はゐます。伊太利を統一した國王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820-1878)です。ピエモンテを旅行した際に、私の口髭と顎鬚が似てる似てると大騒ぎされました。
 伊太利國王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を伊太利語表記すると「Vittorio Emanuele Re d'Italia」となつて、縮めると「VERDI」です。それ故、ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)のオペラは音樂の素晴らしさだけでなく、革命派からも持て囃されました。「ヴェルディ!」と作曲家の名を叫んでも、ほんたうは「伊太利國王」を意味したからですね。

 かうして比べて眺めると、王様たちはヒゲの見本帳のやうです。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006年3月 3日 (金)

ヴェニスに死す

 今まで一番多く見たのが、ヴィスコンティ監督の《ヴェニスに死す》です。歐州の名畫座のやうなところで、何故か何度も見ました。最初英語版を見た爲主人公が獨逸語を喋るのが聞きたくて獨逸で獨逸語吹き替へ版を見て、そしてやっとオリヂナルの伊太利語版を見ました。少なくとも50回位は見てゐるので、カメラが回る間合ひだとか、照明の角度だとか、餘計なことまでかなり覺えてゐます。

 老作曲家アッシェンバッハ(ダーク・ボガード)は靜養に訪れた水の都ヴェニスで、希臘(ギリシア)彫刻のやうな美少年タッジオ(ビョルン・アンドルセン)に心奪はれてしまひます。同じリド嶋のホテルに滯在してゐるにも拘はらず、當時の階級社會では紹介もなしに聲も掛けられない。一時は嶋を後にするつもりが、ホテルの手違ひで荷物が驛に届かず、表面怒り心頭乍ら水上タクシーでホテルに向かふアッシェンバッハ。金髪碧眼白皙の究極の美に魅入られ、化粧まで施して若作りをして、後を追つてしまふ。折から流行つてゐたコレラに罹り、つひには濱邊で息を引き取るのでありました。

 初めて見た時は氣色惡いだけで、良い印象は何もなく、ただマーラーの交響曲第5番の〈アダージェット〉が頭から離れませんでした。全巻を通じて流れるこの曲が、彌が上にも官能美を誘ひます。主人公の將來を豫感させる氣味の惡い化粧の年寄りが最初に出て來たり、如何にも下品な流しのバンドが物乞ひをしたり、驛でコレラに倒れる貧民だとか、ホテル内だけにしか存在しない上流社會との對比が見事です。

 朝霧の中から題名文字が遠くから浮き上がる冒頭では、主演者の名前も次々浮かんでは消え、曖昧模糊とした背景の霧が段々と煙を吐く連絡船へと變はり、甲板の籐椅子に腰掛け、本にも集中できず、手持ち無沙汰な主人公アッシェンバッハの大寫しになります。ここまでの流れ、描き方が素晴らしいのです。疲れ切つて、ソフト帽に薄い外套を羽織り、襟巻きをして、インテリらしさが滲み出て來ます。ボガードはマーラーらしさを出す爲、引き擦つたやうな歩き方やら、爪を噛む癖だとかも真似して、完璧に成り切つたと云はれてゐます。

 そして、この中でアッシェンバッハは何度も着替へます。夜会服の燕尾服をパリッと着こなし、濱邊(はまべ)では真白な麻の背廣にパナマ帽、鼻眼鏡も似合ひ、當時の旅行がたいへんであつたことを教へてくれます。飛行機と違つて20瓩だなんて、制限もないでせうし、社會通念として着替へないのは許されないかつたのでせう。そして、先の跳ねた髭も丁寧にカットして貰ふのです。普通、床屋は勝手に切り揃へたがるので、私は決して触らせませんが、これはこれで格好いいのです。

 第一次世界大戰前は支配階級にとつては「舊き善き時代」なのですね。ですから、服装もラフなものはありませんが、何とも素敵です。慇懃なホテルの支配人やトーマスクックの支店長も皆獨帝髭(カイゼルヒゲ)で、どうもこの映畫の影響が自分には一番強いのです。大人になつたらこんな髭を生やさうとか、あんな服を着こなさうだとか、この映畫から多くの影響を受けたことが、やっと實現しつつあります。

 床屋で髪に墨を塗り、白粉を塗り紅まで口に差すのは、奇怪ですが、本人至つて真面目に戀に目覺めたので周りが全然見えなくなつてゐます。そして最後には、溶けた墨で黒い汗をかいて死んでしまふ。あれ程美を追ひ求めてゐた筈の主人公が、最も惨めで汚い死を迎へる最終場面は、ホモセクシャルの話しと云ふより、年老いた戀は危險なんだと思ひ知らされました。

 原作は岩波文庫でも新潮文庫にも有り、翻譯者の苦勞が垣間見えます。と云ふにも、関係代名詞がずっと續き、一文がとても長いトーマス・マンの獨逸語の原文は私のやうな者には齒が立ちません。貴族の末裔であるヴィスコンティでなければ、究極の美を追ひ求めた、この映畫は撮れなかつたことでせう。マルセル・プルーストの『失はれた時を求めて』のシナリオまで完成させて置き乍らメガホンを取らなかつたことが殘念でなりません。

 



ベニスに死す


DVD

ベニスに死す


販売元:ワーナー・ホーム・ビデオ

発売日:2006/02/10

Amazon.co.jpで詳細を確認する


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 2日 (木)

ヒンデンブルク

 澁谷に嘗て在つたパンテオンで、中學1年の夏に公開された《ヒンデンブルク》は飛行船好きになる切掛となり、私にとつては最も重要な映畫のひとつです。

 これは、1937年5月6日、紐育(ニューヨーク)郊外、ニュージャージー州、レイク・ハースト海軍基地上空で炎上爆發した獨逸の飛行船LZ129「ヒンデンブルク號」の事故を、マイケル・ムーニーの原作に從つて描いたロバート・ワイズ監督によるスペクタル映畫です(1975年、ユニヴァーサル映畫)。

 獨逸國家社會主義勞働黨(ナチス)政権下、飛行船は獨逸の技術の粋を集めて造られ、客船の半分程、2日半で大西洋を横斷すると云ふ、世界一早い乘り物でした。併し、爆發豫告を受け、情報省から同乘を命じられたジョージ・C・スコット演じる獨逸空軍リッター大佐が怪しい人物を拾つて行くと、乘客の誰もが怪しく、結局爆彈は見附かるものの爆發してしまひます。そこからは、實寫映像が混ざり、白黒映像に變はり、ハーバート・モリスンの語るラヂオの實況放送も重なり、効果を上げます。そして最後に、諸説色々あるものの今持って原因は不明とされ、雲間に消える「ヒンデンブルク號」の勇姿とデビット・シャイアのゆったりとした曲が心に殘る映畫です。

 冒頭は昔の白黒ニュース・フヰルムが飛行船の歴史を傳へ、「ヒンデンブルク號」の完成から、突然フランクフルトの格納庫が寫つて総天然色となり、物語の1937年へと自然と誘ひます。そして、表題が黄色い獨逸の髭文字で現れて、主題音樂が流れる、この導入部は特に好きです。

 それから、西班牙(スペイン)から歸還するリッター大佐が操縱するメッサーシュミットBf109型戰闘機が現れます。實際に飛んでゐる姿を見たのは初めてで、軍装模型ファンにはたまらないものでした。水素に引火させない爲喫煙室が設けられ、二段ベットの在る客室は折り畳み式の洗面臺も併設されてゐました。後年、寝臺車の個室で同じやうな洗面臺を見て、當時の技術やデザインが今も生きてゐると感動したものです。離陸の際に奏でられる《獨逸国歌》が何とも勇ましく、聞こます。

 また、サロンには特製のグランド・ピアノが在り、アルミニウムが鈍色に光る操舵室のゴンドラや、先端から末尾まで中央部、瓦斯嚢の間を細い通路が通り、銀色に塗られた帆布一枚下は遥か下に大西洋が見え、垂直尾翼には鉤十字が大きく描かれてゐます。メルセデスのエンヂンは後方にある爲、客席に響かず、飛行船内の様子が手に取るやうにわかるので、まるで一緒に乘船してゐるやうな浮遊感すらありました。

 ナチスに對する思ひは様々でリッター大佐ですら西班牙内亂で息子を失ひ、アン・バン・クロフト演じる伯爵夫人はペーネミュンデの土地をロケット開發の爲に取り上げられたり、國家秘密警察(ゲジュタポ)以外、何かしら漠とした不安を感じてゐることも旨く描いてゐます。見習ひの少年がサービス係で同乘してゐますが、これは實在する人物がモデルで、彼の體驗も映畫に生かされてゐるのでせう(邦譯はありませんが、手記が獨逸語で出てゐます)。
 97人の乘員乘客の内、乘客13名、乘員22名、それに地上係員1名、計36名が亡くなつた大事故でした。 儚く消えた飛行船ですが、その夢が大きかつただけに悲しみも大きいのです。

 この映畫に触發され、まづ、中學の選擇授業「歴史」で飛行船の歴史を調べてからと云ふもの、獨逸でも「飛行船」と聞くとのこのこ出掛けて調べて來ました。この數年は飛行船内で食べられた食事の再現に力を入れてゐます。時折、海外の競賣に船内の献立表が出ることがあるのです。1929年に來航したLZ127「ツェッペリン伯號」に関することを調べて、霞ヶ浦へ赴いたり、一生の仕事と感じてゐます。

 最近になつて、元米國航空宇宙局(NASA)の研究者アジソン・ベインが、ヒンデンブルグ号の出火原因は、船体外皮に塗られていた塗料の所爲だと結論附けました。酸化鐵と粉末アルミニウムが防水用に塗られてゐたのですが、これは固形燃料ロケットの推進剤にも使はれる程の燃え易いもので、靜電氣の火花(スパーク)により、外皮が燃え出し、瞬く間に船全體に炎が廣がつたことを証明しました。當時のツェッペリン社の記録にも、その可能性が示唆されてゐましたが、保險の問題やナチスに威信の爲に明らかにされなかつたやうです。

現在、ヴィデオテープ及びDVDの國内販賣はありませんが、同じヒンデンブルクを題材にした小説があります。



ヒンデンブルク炎上〈上〉


Book

ヒンデンブルク炎上〈上〉


著者:ヘニング ボエティウス

販売元:新潮社

Amazon.co.jpで詳細を確認する




ヒンデンブルク炎上〈下〉


Book

ヒンデンブルク炎上〈下〉


販売元:新潮社

Amazon.co.jpで詳細を確認する


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 1日 (水)

アラビアのロレンス

 1989年に倫敦に住んでゐた頃、丁度デビット・リーン監督が1962年に撮つた《アラビアのロレンス》を再編集した完全版が公開され、それに合はせて實在の「トーマス・エドワード・ロレンス」を偲ぶ回顧展も開かれ話題を呼んでゐました。1962年度のアカデミー賞7部門を征した、この映畫を初めて見たのは、テレビだつたと思ひます。前編後編に2週に分けて放送してゐました。かうして見ると、3時間を超える映畫ばかりが好きなやうです。映畫館の上映でも、途中に「interval(幕合)」が入り、トイレへ行つて安心して後半を見た氣がします。

 ブラフ・シューペリアSS100と云ふ「バイクのロールス・ロイス」の異名を持つ998ccの大型バイクに跨り、颯爽と田園を走るロレンスの事故死(1935年)から始まります。第一次世界大戰の際に考古學者としてシナイ半嶋の地圖作りをしてゐたところ、亞剌比亞(アラビア)地域の諜報活動へ回されます。其処で、獨逸側に附いた土耳古(トルコ)軍に對する亞剌比亞人の反亂軍を組織し、砂漠を乘り越えて海にしか砲臺が向いてゐないアカバを襲撃して、成功を収めます。併し、英國政府の中東政策に利用されてゐると感じ始めたロレンスは、一時は潜入した先で土耳古兵に捕まり拷問を受け、逃げ出すものの列車爆發、敗殘兵の襲撃等残虐な行爲にのめり込んでしまひます。理想を求めるロレンスの人間性、複雑な性格、後半では一轉して挫折と英雄視しない描き方も丁寧で、人間味溢れる映畫に仕立ててあります。

 遠く地平線に誰も見えない砂漠で井戸を見附けたロレンスの從者が水を飲むと、射殺されてしまひます。暫くすると砂漠の向かうからオマー・シャリフ演じる部族の王子が駱駝でやって來る場面は特に印象的です。何でそんな遠くが見えるのか、我々の常識なんて通じない世界だと思ひ知らされます。
 ロレンスは最初英國軍の軍服に、足下は茶色のデザート・ブーツです。名前のとおり「砂漠長靴」で、踝を包む程度のブーツで、横が護謨(ゴム)になつて履き易すさうですが、亞剌比亞人に認められてからは勸められるままに純白の民族衣装にターバンを巻いて、砂漠で一人悦に入る場面も印象的です。若干28歳でロレンス役に大抜擢されたピーター・オトゥールの金髪が砂漠の黄色い世界に輝きました。

 アンソニー・クイン演じるベドウィン族の首長の迫力、亞剌比亞人の部族抗爭、現在のパレスチナ問題の發端ともなつた英國政府の二枚舌外交やら、ファイサル王子(アレック・ギネス)の頭の切れるところ、ダマスカスを占領した英國軍將軍が呑氣にフライ・フィッシングの練習をしたり、戰場場面以外も奥の深い作りです。できれば、大畫面のワイド・スクリーンで見ると、モーリス・ジャールの雄大な音樂と共に、眩しいどころか刺すやうな日の光と暑さの爲にクラクラして、喉が渇くこと請け合ひです。




アラビアのロレンス 完全版


DVD

アラビアのロレンス 完全版


販売元:ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

発売日:2005/07/27

Amazon.co.jpで詳細を確認する


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月28日 (火)

バベットの晩餐會

 何故だか、10代後半から20代の多感な時に見た映畫の数々が、忘れられません。それらを何度見ても、また、新たな感動を呼び起こすから不思議です。

 1987年度アカデミー賞外國語映畫賞を受賞した丁抹(デンマーク)映畫、ガブリエル・アクセル監督の《バベットの晩餐會》。イサク・ディネーセンの原作で、19世紀後半、ユトランド半嶋の小さな寒村に、パリ・コミューンにより父と息子を亡くして流れ着いた佛蘭西女性バベットを女中として置くことにした、新教徒(プロテスタント)の牧師を父とする老姉妹。月日は流れ、幾年も經た後、富くじで1萬フランを當てたバベットは、その金を使ひ村人たちの爲に、豪華な佛蘭西料理を御馳走すると云ふお話しです。そこに、料理がもたらす奇跡の妙と云ふものが美しく描かれてゐます。

 シドニー・ポラック監督、ロバート・レッドフォード、メリル・ストリープ主演の映畫《愛と哀しみの果て》(原題Out of Africa)の原作もディネーセンでした。こちらは、阿弗利加の大地に生きる力強い女性の物語でした。複葉機から見る草原、燃える珈琲園、男性専用の倶楽部にずかずか乘り込んでしまふものの、最後に旅立つ際、認められて逆に招待されたり、途中、卓上型蓄音機で猿にモーツァルトを聞かせる面白い場面もありました。

 《バベットの晩餐會》は、佛蘭西と云ふ現世の樂しみを享受するカトリック世界と、寒村で世俗的な慶びを拒否して來た新教世界の對立でもありました。初めは、見たこともない恐ろしい料理になかなか手を出さないものの、徐々に打ち解けて來て、にこやかに食事をするのです。唯一、老姉に大昔戀をした將軍だけが、海外駐在をしてをり、その料理の價値、ワインの銘柄すらも理解してゐるのです。どうしてこんなところで、巴里の一流店でしか出せないものが、食べられるのか不思議で仕方がありません。併し、一緒に食べる先代縁の村の人々は、惡魔に魅入られないやうに、黙つて口に運ぶだけなのです。そのうち、一皿一皿食べる毎に固くなつてゐた人々の心もほぐれ、思ひ出話しに華も咲き、温かい心を手にして行くところが、素晴らしい。

 日本では料理屋は水商賣として、低く見られてゐますが、歐州では専門家として客と同じ人として、對等に扱つてくれます。最も、短期勞働者(アルバイト)ばかりのカフェやレストランが多い日本では、致し方ないのかもしれませんが、顎で使ふことが客のステータスだと勘違ひしてゐる年配者には腹が立ちます。
 真心こもつた料理の素晴らしさは、確實に心に響くことを教へてくれた大切な映畫です。



Book

バベットの晩餐会


著者:イサク ディーネセン

販売元:筑摩書房

Amazon.co.jpで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月27日 (月)

山猫

 昨年、デジタル処理により往時の美しい映像が蘇つた、ヴィスコンティ監督《山猫》は忘れられない映畫のひとつです。

 1963年にカンヌ國際映畫祭でパルムドールを授賞したこの作品は3時間を越える大作であつた爲、64年の公開當時は英語短縮版で舞踏會の場面が大幅に省略されましたが、81年にオリヂナルの伊太利語完全版が見附かり公開されてゐます。その時も真っ先に岩波ホールへ行きました。確か前年に《ルートヴィヒ 神々の黄昏》完全版が上演され、座り切れず次回上映を3時間もホール外の階段で待つた翌年だつたと思ひます。

 使ひ古された表現ですが、「豪華絢爛」な「時代絵巻」!没落して行く誇り高きシチリア嶋の貴族の憂ひが見事に描かれ、歐州貴族文化の厚みや弊害、伊太利統一戰爭の戰場情景、嘘のない小道具、見事なカメラワーク等、細部まで脳裏に焼き附いて離れませんでした。それから、暫くヴィスコンティが流行り、立て續けに小さな映畫館で公開されたものは、殆ど見に行つたものです。大學卒業後に「歐羅巴で働く」と決心させたのは、この《山猫》だつたのかも知れません。

 19世紀の貴族の屋敷では、ミサを行ふ最中に、男はハンカチを敷いて片膝を附くことを初めて知りました。頬髯(ホホヒゲ)の似合ふ威嚴のあるバート・ランカスター、端役のジュリアーノ・ジェンマが歌を歌つたり、成り上がり者の娘が招かれた食卓で、齒を出して大笑ひをした爲に、誰もが憮然と席を離れてしまふ夕食の情景、瑞々(みずみず)しいアラン・ドロンの碧き瞳、若さと生を象徴するクラウディア・カルディナーレ、この若い二人が古い屋敷の部屋から部屋へ戯れる場面、舞踏會の待合ひ所でソファに飛び跳ねる女の子たちを猿のやうだと莫迦にするサリーナ公爵、大寫しの場面で額から汗の流れ出るところ… 忘れられませんね。

 革命戰爭の最中に例年通り避暑に出掛けた公爵一家を出迎へる町の樂隊が、下手糞乍らも當時流行つてゐたと思はれる、ヴェルディをブンチャカ、ブンチャカ奏でるところは笑へます。その上、ミサの入場曲にもヴェルディが使はれてゐました。舞踏會の場面でも見事な踊りを披露するランカスターとカルディナーレを支へるのは、優雅なヴェルディの旋律であつたと思ひます。

 そして、サリーナ公爵のお洒落なこと。既製服のない當時のこと、自分の體型に合はせて誂へるので、當たり前なのですが仕立てのよい服が、次々出て來ます。狩りに行く時、夜會服、普段着、それぞれの着こなしが何とも言へません。曲馬團(サーカス)出身の肉體派男優のランカスターが誇り高い伊太利貴族を好演してゐたことも特記すべきことでせう。絨毯敷きの部屋の真ん中にバスタブはがあり、石鹸一杯に體を洗いそのままタオルで拭いてしまふなど、我々日本人には信じ難い行爲なのですが、彼等貴族には當然のことだつたのに違ひないのです。

 80年代前半は伊太利なんぞ、そんなに注目もされてゐないどころか、「伊太飯」なんて云ふ言葉すらない時代でした。高校生であり乍ら、かういふ濃厚で重たい作品を好んで見に行くのですから、ませたガキでしたね。ヴィスコンティ映畫にハリウッドにない本物を見た氣がしました。

 横長のワイドスクリーンでDVDも發賣されてゐます。



山猫 イタリア語・完全復元版


DVD

山猫 イタリア語・完全復元版


販売元:紀伊國屋書店

発売日:2005/06/25

Amazon.co.jpで詳細を確認する


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年2月21日 (火)

壁の上

Berlin 伯林と云へば、一昔前まで「」が在りました。勞働力の流出を防ぐ爲に、1961年8月13日に突然東側に建設された壁は、未来永劫存在すると思はれてゐました。1989年の晩秋にはまだ伯林に住んで居りましたので、あの時のことはよく覺へてゐます。

Mauerv 89年の夏に洪牙利が墺地利との國境の有刺鐵線を外した頃から、西側への人々の脱出が始まりました。それまでは、一日査証(ヴィザ)5馬克(マルク)と強制兩替25馬克をすると東へ入れたものですが、確か9月末になると、當時蘇聯のゴルヴァチョフ書記長が來伯し、東のホーネッカー書記長と會見することになると、西と東の檢問所は騒然として來ました。「伯林の壁」が崩壊するだ何て、本氣で考へてゐる人は誰もゐませんでした。21世紀になつても無くならないモノと意識、理解してゐました。そして、運命の11月9日がやって來ます。

 その翌日の金曜日は試驗を終へた私は學校も休みで朝寝坊をして外へ出たところ、いつもと様子が違ひます。ラヂオは持つてゐましたが、たまたま朝聞いてゐませんでした。シャルロッテンブルクに在る住居を出て、街中を歩くと、雰圍氣が違ひます。かう云ふことは肌で感じるものなのですね。よく見てゐると、やや貧相な服装の人々が窓越しに商品を見とれてゐました。嗚呼、彼等は東側の人間だ、とわかるものです。波蘭(ポーランド)人勞働者にしては、家族連れが多いし、いつもと感じが違ふのです。

Mauern 地下鐵に乘ると、「壁」がどうのかうのと云ふ會話が聞こゑ、「壁が開いた」とも耳にしました。そんなこと、あらう筈はないけれど、萬が一にもあるならばと思ひ、背中のリュックの中に寫眞機(いつも持ち歩いてゐました)があるのを確認して、そのままポツダム廣場へと向かつたのです。壁際に櫓が立つてゐて、東側が見えるやうになつてゐましたから、其処へ行けば何かわかるだらうと思つたのです。近附くに連れて、どんどん、どんどん人集りが増えて、列を成して向かつて來ます。解放されたのはほんたうだとた、とその時初めて理解しました。

Mauer2 ならば、早速ブランデンブルク門を歩いて通つてみたいと云ふ衝動にかられ、國會議事堂の方へ歩いて行きました。すると、門前の壁はそこだけでやや低く、幅廣なので壁の上が黒山の人集りです。壁の上へ上がれるだなんて、夢にも思ひませんでしたから、驅け寄ると梯子がひとつ掛けてありますが、これは下り専用で上り口はありません。でかい獨逸人の若人たちは走ってよじ登るのですが、私のやうなチビではどうすることもできません。

Mauer3 そんな時、救ひの手は差し伸べられるものなのですね。兩手を擧げてウロウロしてゐる東洋人を見るに見かねたガタイのよい兄ちゃんが、ニコッと笑ふや否や足首を持つと、そのまま、バーベルでも上げるかのやうに、輕々と然も高々と持ち上げてくれました。兩手が壁の上に届くと、上にゐる人々が皆で引き揚げてくれました。まだ、東側には國境警備隊が居り、勝手に行き來はできませんでしたので、早く行かせろと言ふ人々、單に酔っぱらってる人、私のやうな野次馬だとかで大混雑。結局、東側の國境警備兵に守られてブランデンブルク門は通ることはできませんでしたが、その時の昂奮は未だ忘れられません。

 文中の畫像は私が實際に撮つたものです。勝手に複寫引用はご遠慮下さい。

 壁に就いては「ベルリンの壁」に詳しく書かれてゐます。地圖畫像は「ベルリンの壁」から許可を得て掲載しました。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年2月20日 (月)

 店の名前「ビストロベルラン」は獨逸の都市伯林(ベルリン)を佛蘭西語讀みした「ベルラン」に、氣輕にワインと料理を樂しんで頂けるやうにレストランではなく、ビストロと名附けました。「ビストロ」は本來「居酒屋」とでも譯しませうか。それ故「カフェ」とは違つて、隣の話し聲が氣にならない位にテーブルの間隔も廣げ、店内は絨毯ではなくて板張りにし、カウンターバーも併設したのです。
 私共の歐州料理は、ビールとソーセージの獨逸料理ではなく、所謂(いはゆる)佛蘭西料理ですが、佛蘭西で修行を積んだ譯でもないので、敢へて佛蘭西料理とは名乘らず、佛蘭西語讀みの「ベルラン」に捻つてある譯です。また、特に最初から音響を考へた譯でもなかつたのですが、歐州並に高い天井が好きで、彎曲した天井で間接照明にしたところ、結果としてよい響きをもたらしてくれてゐます。

Shild_2 店の袖看板には、ワインを象徴する「葡萄」と日本酒を表す「稲穂」、そして中央には「熊」が描いてあります。これは伯林市の紋章から頂いたものです。勝手に使つてはいけないと思ひ、1990年の開店前に獨逸大使館へ行き、三等書記官に面談して確認しました。「公式に使ふものと全く同じではいけませんが、同じ向きだとか、似たものが駄目となると、伯林中の店を取り締まらなければなりません。この絵柄で許可を取る必要は全くありません。」と快く解答を頂き、掲げることとなりました。

Baer 何故伯林に熊なのか。これは街の名に由來します。
 その昔、シュプレー川の湿地帶で狩りをしてゐた獵師は大きな熊に脅かされました。大きな獲物を見附けた獵師は、これをを仕留めてやらうと追つて行くと、これは母熊で小熊を守る爲に威嚇したことがわかつたのです。子を思ふ親の氣持ちは人だらうと、動物だらうと變はりません。獵師は打つことを諦め、それからと云ふもの、この森の熊は狙はず、大事にしました。そして、幾年も經て此処に町が出來ると、雌熊(Baerin)に因んで、伯林(Berlin)と名附けられたのです。

Flagge 1237年(日本は鎌倉時代)に、シュプレー川を挟んで「ケルン(Coelln)」と云ふ村の對岸に「ベルリン」と云ふ二つの村が公式記録に初めて出て來ます。それが1244年に合併して「伯林」だけとなり、1415年にはブランデンブルク邊疆(へんきょう)選帝侯、フリードリヒ1世(ホーエンツォレルン家)が居城を構へ、大伯林へと發展して行きます。熊の紋章は1280年に採用されてから、ずっと現在でも市の象徴として使はれてゐるのですね。

 ただ、この由來説はどうも眉唾ものらしく、今では湿地を表すスラブ語音節「berl」まで遡るとされてゐます。私としては「熊説」が好きですが…

 孰れにしても、伯林の人々が今も街のシンボルとして熊を愛してゐることに變はりありません。伯林國際映畫祭(Internationale Filmfestspiel Berlin)では「金熊賞(Goldener Baer)」が送られ、土産物屋には熊の人形や熊の置物が澤山賣つてゐます。
 「日本に於ける獨逸年」でした2005年にはそれを記念して、以前ポツダム廣場で見掛けたものと同じ、2米の熊のオブジェが六本木ヒルズに並んでゐました。平和の願ひを込めて各國の藝術家が思ひ思ひに圖柄を描いた熊を飾るこの企畫で、世界中を熊が回るさうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)