山鹿流陣太鼓
本日、討ち入りの日也。山鹿流陣太鼓はドン・ドン・ド~ンと「一打ち、二打ち、三流れ」で打ったらしい。歌舞伎座では《假名手本忠臣藏》が掛かつてゐるが、來月の〈山科閑居の段〉が觀たい。文樂では此処が一番の山場であり、住大夫のCDで聽き慣れてゐるだけに聽きたいところだが、今更席も取れないであらうし、新年會で忙しく、きっと店も空けられないと思ふ。
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本日、討ち入りの日也。山鹿流陣太鼓はドン・ドン・ド~ンと「一打ち、二打ち、三流れ」で打ったらしい。歌舞伎座では《假名手本忠臣藏》が掛かつてゐるが、來月の〈山科閑居の段〉が觀たい。文樂では此処が一番の山場であり、住大夫のCDで聽き慣れてゐるだけに聽きたいところだが、今更席も取れないであらうし、新年會で忙しく、きっと店も空けられないと思ふ。
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東西冷戰の頃は伯林に中央驛はなくて、西側は動物園驛を主とし、東側は東驛を主として使つてゐた。「ツォーローギッシャーガルテン(Zoologischer Garten)」を約めて「ツォー(Zoo)」と呼んでゐたが、公衆便所の臭ひが漂ひ、立ちんぼがゐて、麻藥の賣買もあり、東から特赦でやって來たおばあさんたちがバナナを大量に買ひ込んで家族との別れを惜しむ、一種獨特な雰圍氣であつた。今ではごく普通の驛に成り下がってしまひ、變に健康的で明るい驛となつて、觀光客が溢れてゐる。
さて、2006年の蹴球、世界杯獨逸大會に合はせて、運河脇のレアーター驛を改築して、硝子張りの「伯林中央驛舎」が完成した。建設途中は見たことはあつたが、今回初めて利用した。
地下2階には地下鐵、地下1階には近距離列車、地上階は中央移動路となり、地上2階に市電、地上3階に長距離列車と云ふ立派な現代建築である。獨逸の首都たる顔だから仕方ないにしても、或る意味詰まらない。最近、評判を落としてゐるDB(獨逸鐵道)の案内係には長蛇の列、切符は全自動の機械だけ。面白味に欠ける驛となつた。
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以前、ベルランで再現料理を試みたことがある南滿洲鐵道の特急亞細亞の料理。この時は資料のなさに泣かされ、結局、大連のヤマトホテルの祝賀會の料理を再現したのであつた。最近になつて、この亞細亞を見直さうと云ふ動きがあるらしく、天野博之 『滿鐵特急「あじあ」の誕生』原書房 が出た。
蒸氣機關車であり乍ら、最先端の流線型の車體を持ち、冷暖房が完備した素晴らしい汽車の印象があつたが、實際には、當初少ない試運轉から故障も多く、線路の不備、冷房の効きの惡さなど、手放しで喜べなかつたことが解る。それでも、旅情の郷愁を誘はれるのは、戰前の日本が世界に誇れる數少ないものであつたからであらう。乘つてみたかつたのは云ふまでもない。神戸から船に乘り、大連から乘車して哈爾濱迄乘つてみたかつたのは言ふまでもない。
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先日の晝食に、日本モダンガール協會代表の淺井カヨさんより、お誘ひを受け、資生堂パーラー創業110周年紀念、昭和3年の復刻メニューを頂いた。すき燒今朝でのツェッペリン伯號の再現料理もさうだが、帝國ホテルの再現料理も思ひ出深いが、此処では丁寧に出汁を引いたコンソメーを給仕がスープチューリンから注いで呉れ、ソースが下に敷いてあるシュリンプ クルケット(所謂コロッケ)、薄切りの上品なロースト ビーフ、戰前から紹介されていた伊太利料理のトマト マカローニ、銀杯に盛られ、バニラビーンズの効いたアイスクリーム、パン、バター、そして珈琲。祖母とよく食べに來た昭和の味はひの數々。と云つても、子供の頃は資生堂パーラーの「ビーフカレー」が大の好物でしたね。銀盆のご飯も自分で自由に皿に載せられ、ソースチューリンからカレーを注ぎ、たっぷりと粉チーズ、辣韮漬けの刻んだもの、福神漬けも載せて食べたのが忘れられない。
祖父は一人でパーラーの階段下の二人席に座り、一品を頼んで全部食べ切れずに殘してゐたと祖母から聞いてゐた。あすこの席だと毎度教へられるのにも閉口したが、新しい建物になつてからは初めてのことである。
今回は當時の格好をしたモボ2人、モガ2人と同席。それで、白麻のスーツを着て出掛けた。給仕の若人も詰め襟七つ釦の當時の制服が映える。雰圍氣作りに一役かった所爲か、店長や調理長自らご挨拶に見えられ恐縮した。
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淺草寺横に、貫首大僧正の住まひとして使はれた傳法院の庭が今だけ公開されてゐる。この庭は 寛永年間に小堀遠州により作庭されたと云はれる「廻遊式庭園」なのだ。
大繪馬寺寶展にも吃驚。芝居の元となつた故事を描いた大繪馬はまるで襖の板繪のやうであり、奉納者の迫力が傳はる貴重なもの。そして、傳法院の側へは初めて這入ったが、德川將軍の休憩所にも使はれたことも納得した。高床で一間の周り廊下と云ひ、しっかりした書院造りで、雰圍氣がいい。建物内には這入れないが、後ろに見える五重塔と云ひ、東京だと云ふ感じがしない。一萬平米に築山や池の配置が絶妙であり、角を曲がると別の風景が見られるのは、桂離宮にも通じる。氣分轉換になり、元氣恢復。 拝觀料は全額震災復興支援に向けられると云ふのも嬉しい。
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洛北の京都國際會議驛から更に奧まった所にひっそりと實相院は在る。此の邊りに幕末の動亂の最中、岩倉具視は隠れてゐたらしい。
天皇家縁の尼寺ではあるものの、廃佛毀釈以降荒れてしまひ、修復の費用を捻出するのもたいへんだと聞いてゐた。本堂入り口からして、柱に支へ棒があり、柱がだいぶ傾いてゐるだけでなく、素人目にも危ない箇所があり。但し、中には狩野永敬の襖繪や黒漆の板床に新緑や紅葉が映るとさぞかし映えるであらう。表庭は枯山水、裏庭は借景に池があり、も靜かでよい。文化財の保護と云ふ觀點からも、是非、修復して欲しいところ。瓦一枚と違ひ、解體復元にはだいぶ掛かりさうである。蓄音機の演奏會を此処でやれば、また趣が違つていいだらうな。そんなことで修復に繋がるなら幾らでもお手傳ひをしたいが、運搬を考へると躊躇を隠せない。
顔本で繋がつたお陰で普段は締め切つた廣間にも這入らせて頂き、ご靈驗新かなる「蛙」のお守りを購入。
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關でたっぷり遊んだ翌朝は犬山城へ。かなり雲行きが怪しいが登城することに。木曽川沿ひの小山に立つ天守閣は1537(天文6)年に織田信長の叔父、織田信康が築城したもの。その後、德川の時代に尾張藩家老、成瀬家のものとなり、昭和の時代迄個人所有されてゐた。
小振りの白だが三層(中は四層)造りで急階段でしか上がれない。併し、その景色は絶景だ。見渡す所が支配下と云ふ感じが傳はつて來る。眼下の木曽川の翠も美しい。
そろそろ、歸へらうかと思つた矢先の土砂降り。googleで雨雲を調べて貰つても、全く止む氣配がなく、天氣豫報は午後からの筈がもう降り出した。仕方がないので城内のお土産屋で傘を買ひ、觀光案内状で目と鼻先の犬山驛までタクシーを頼む。するとどうだらう、途端に小降りになる。そして、驛へ着く頃にはもう止んでゐた。何と云ふ間合ひの惡さ。忘れられない犬山城となつた。
また、旅行の話に戻るが、關市を流れる長良川上流の小瀬の鵜飼ひの歴史は古いらしい。小學生の頃は此処でよく泳いだ。向かう岸は岩場で流れが急なので、素人が渡ると戻つて來られない。嘗て、野球の田淵選手でさへも歩いて橋を渡つて戻つたと云ふくらい。
18時過ぎに舟に乘り込み、持ち込んだスパークリングワインで乾杯し、靜かに日暮れを待つ。途中、鵜匠の足立さんが解説に來る。装束の話から、茨城で捕獲した海鵜を飼ひ慣らして漁に使ふ。小魚はそのまま喉を通るやうにし、光と音に驚いた鮎が上流へ逃げるところを、鵜が潜って捕まへる。鮎だけでなく、鮒も捕るらしいが、鯰はヒゲが邪魔をし、鰻は難儀するので鰻なんだとか。前回は岩佐さんであつた。
さうして、19時半過ぎ、山陰で手相が見えなくなる頃に鵜飼ひの始まり。砂地には鮎が居ない爲、岩場へ來る頃に幾つか跳ねる。鵜がしっかりと掴むところも見えるが、暗くて冩眞にならない。奈良時代から續くと云ふ漁法で捕まへると、友釣りと違つて傷が附かず高く賣れるらしい。年に決まった回數、天皇家へ献上するので、今も宮内廳職員。
關市を流れる長良川上流の小瀬の鵜飼ひの歴史は古いらしい。小學生の頃は此処でよく泳いだ。向かう岸は岩場で流れが急なので、素人が渡ると戻つて來られない。嘗て、野球の田淵選手でさへも歩いて橋を渡つて戻つたと云ふくらい。
18時過ぎに舟に乘り込み、持ち込んだスパークリングワインで乾杯し、靜かに日暮れを待つ。途中、鵜匠の足立さんが解説に來る。装束の話から、茨城で捕獲した海鵜を飼ひ慣らして漁に使ふ。小魚はそのまま喉を通るやうにし、光と音に驚いた鮎が上流へ逃げるところを、鵜が潜って捕まへる。鮎だけでなく、鮒も捕るらしいが、鯰はヒゲが邪魔をし、鰻は難儀するので鰻なんだとか。前回は岩佐さんであつた。
さうして、19時半過ぎ、山陰で手相が見えなくなる頃に鵜飼ひの始まり。砂地には鮎が居ない爲、岩場へ來る頃に幾つか跳ねる。鵜がしっかりと掴むところも見えるが、暗くて冩眞にならない。奈良時代から續くと云ふ漁法で捕まへると、友釣りと違つて傷が附かず高く賣れるらしい。年に決まった回數、天皇家へ献上するので、今も宮内廳職員。
「日本料理の素顔 日本人なら知っておきたい料理の知識」柳原先生の第一回目の授業は歴史と流れを大きく捉へ縄文から現代までの和食に就いての話で、「出汁」と云ふ素晴らしい發明があることを習つた。
二回目は「本膳」。平安時代に基礎はできたものの、膳組作法では最初から主食であるご飯は左に置かれたと云ふ。日本では古來左側に位置する者は格上なのだが、これは北を背にして南向きに座る天皇が日出る方角の東に近いと云ふことから來たらしい。從となるお味噌汁は右側となる。正面から見ると左右あべこべで分かり辛いが、天皇から見て左に左大臣(格上)、右に右大臣なのだなあ。
實物の朱塗りの本膳を持つて來て下さり、永平寺の應量器と云ふ入れ子式の漆器や、東大寺の荘園時代に年貢が納められた後に振る舞つた結解(ケッケ)料理、それに大皿を取り分ける卓袱料理等の影響から懐石ができたことなど、懇切丁寧に教はつた。そして、ベジタリアンの福茶料理、酒主體の割に自由な會席料理などもあり、序でに箸も正しい持ち方も傳授された。和食の基本中の基本であり、きちんと箸が持てないと、摘むだけでなく、裂いたり、切ったりできない。今度の親子すき燒教室で教へてあげよう。
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