2009年11月 5日 (木)

帝國ホテルに展示

Teikoku 今週、月曜日から年内一杯、日比谷に在る帝國ホテル、タワー館地下1階「ラ・ブラスリー」前のショウケースに私のツェ伯號グッズが飾られてゐます。お近くをお通りの際は是非ご覧下さい。11月3日で開業120周年なのださうです。その記念としてツェ伯號關連のオリヂナルの物が必要となつたやうです。

  ツェ伯號内厨房、廣告用寫眞
  ツェ伯號で使はれたデザート皿と珈琲杯と受皿
  帝國ホテルが糧食を擔當した初日晝食献立表

 それに日本飛行船提供のツェ伯號模型が一緒です。自分の蒐集品を貸し出すのも初めてであれば、學藝員の勉強を始めて、自分で手掛ける初めての展示でもありました。置く場所を決め、並べて見ても釣り合ひが取れなかつたり、思ひの他時間が掛かりました。自分の蒐集品を白手袋をして並べてゐると、もう美術品相手と云ふ感じで身が引き締まります。
 今回、ツェ伯の料理の中から、「フォア・グラのパテ」「ビーフティー(ビーフコンソメスープ)」が再現された特別料理もあるやうです。

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2009年9月 3日 (木)

飛行船ロボット

Zenhoui ブイヤント航空懇談會の総會があり、四谷へ出掛ける。産業技術総合研究所、知能システム研究部門の恩田昌彦さんの話。ご自身が開發中の「飛行船ロボット」に就いての説明なり。通常の推進用の回轉羽根(プロペラ)とは違ひ、全方位推進装置(サイクロイダルプロペラ)と云ふものを使ひ前後左右上下に移動できると云ふ。飛行機の翼は上と下では表面積が違ひ浮力を生むが、この全方位推進装置は羽根は上も下も全くく同じであり、角度を付けることにより浮力を生むと云ふ。外輪船の羽根3枚が横に附いた感じと云へばいいのだらうか。まだ開發途中とは云へ、小型で小回りが利く上、無人搭乘、無線操作故、山林での枯木の移動、災害時の携帶電話の中繼等可能性は多々あり。是非共成功を祈らん。

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2009年7月31日 (金)

ツェッペリン燒

Photo_2 1929(昭和4)年8月、日本飛び立った日の最初の晝食を再現したのですが、最後に驚きの一品を附けました。當時、東京市内で爆發的な人氣が出たと云はれる「ツェッペリン燒」です。鯛燒屋が擧って品物を替へたとの噂の燒き型を持つてゐるので、柳橋の梅花亭さんにお願ひして漉し餡入りで作つて頂きました。魚のやうに頭左にすると「ZEPPELIN」の文字が見えます。皮が多くて、餡が少なく申し譯ないと言つてをりましたが、どうして、どうして、美味でした。

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2009年7月30日 (木)

日本初の機内食

Lzmenu 昨夜の「ツェッペリン伯號の料理再現」は當初、飛行船と同じ20名樣を想定してゐたのですが、今週に入りあれよあれよと人數が増えて、35名樣の大盛況でした。

 人が増えると、器が足りない、グラスが足りない、とあちこち齟齬が増え、漸く準備萬端と思ひきや、始まると、料理が出て來ない、ワインが足りない等、大汗かきました。 ほんたうは携帶型蓄音器も持參して、當時の流行歌も掛けたかつたのですが、それも能はず。それでも、お客樣にはお樂しみ頂いたやうなので何よりでした。
 畫像は左がオリヂナル、右が今回、自分が作成したもの。かなり巧くできました。

Photo お客樣には和食器で箸をお使ひ頂きましたが、撮影用にオリヂナル食器に載せてみました。
ここに至る迄、構想、下調べ、蒐集と苦節10數年。幾多の道程がありました。

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2009年7月29日 (水)

80年前の料理再現

ZtWhite 1929(昭和4)年8月23日、日本を飛び立った獨逸の飛行船LZ127「ツェッペリン伯號」の太平洋上での最初の晝食を本日再現します。撮影用にはこのオリヂナル食器に盛り附けます。お斷はりしなければならない程の盛況故、朝からてんてこ舞ひしてゐます。

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2009年2月20日 (金)

持つべき者は友

Choko 猪口齢糖を飛行船仲間から戴く。普通に市販されてゐると聞いて更に吃驚。ジャムボジェット、ユンカース52「タンテ」、それに形から言つて「ヒンデンブルク號」!ミルク・チョコは甘くて苦手なのですが、これなら形に釣られて食べられさう。ありがたう。奇しくも本日、45歳の誕生日を迎へました(笑)。

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2009年2月19日 (木)

將來性

Luka 昨日は聖路加ガーデン内、新阪急ホテル築地の32階で日本飛行船社長、渡邊裕之さんの講演を聞く。川縁のこの眺望は飛行船に乘船してゐるやうな氣分を盛り上げてくれます。

 さて、日本で唯一の飛行船事業をされてゐる(株)日本飛行船は世界に三隻しかないツェッペリンNTの一隻を運行して、觀光、宣傳、調査等に利用してゐます。飛行機のやうに早く飛ぶと價格が上がり、船のやうに大量に運ぶと時間が掛かるのですが、飛行船はその中間を狙へるとのこと。鹿兒嶋にしかない格納庫を關東に造り、二隻、三隻と増やして行けば増収も期待できる爲、資本増資、私募債の發行を計畫してゐるのだとか。

 只の飛行船ファンには全く關係のない話かと思つてゐましたが、株主になると年一回の搭乘が約束されると云ふのは何にも代へ難い素晴らしい案。何時の日にか、「ヒンデンブルク號」級の巨船で日本の上空を旅できるといいですねえ。

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2009年2月 5日 (木)

空氣より輕い乘物

 ブイヤント航空懇談會の新年會が開かれました。自稱「飛行船料理研究家」兼ツェッペリン関連商品蒐集家として、飛行船に關する情報交換と研究成果を寄稿する爲に入つてゐるやうな感じの不埒な會員です。
 ところがこの懇談會は歴史があり、元は1970年代に氣球や飛行船と云ふ空氣より輕い乘物の研究者が集まりで、殆ど學會のやうな研究發表の場であつたらしいのですが、現在は飛行船運航會社に愛好家まで幅廣く、空の乘り物に夢を懐く人の集まりとなつてゐます。私のやうな新參者も居る爲、自己紹介を順繰りにしましたが、ほんたうに大學の先生から、ツェッペリンNTの追掛けて寫眞を撮つて居らっしゃる方、時折で競賣で張り合ふ吾人まで、飛行船が結んだ不思議なご縁です。

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2009年2月 4日 (水)

寫眞調査

Kyodo 廣嶋に住む飛行船研究家からの連絡で、共同通信社の寫眞調査部を一緒に訪ねることに。電通社長に見せる爲に當時編纂されたアルバムが發見され、調査されてゐるとのこと。そこには外電に使はれた貴重な寫眞がデジタル化されて、順繰りに調べられてゐました。場所や人物の特定をし、撮影日時なのか、納入日時なのか、確認作業をしてをかないと、素材としても使へないので地道な根氣の要る作業です。

 以前、堀内さんが調査された、ツェッペリン伯號の航路からどの方面を撮ったものだとか判つたとか、中には帝國ホテルで撮影された、日本最初の機内食を罐詰めにしてゐる珍しいもののありました。ビーフ・ティー、コンソメ等の表示も見えます。撮影用に構へてゐるだけのやうですが、黒光りした丸い塊は何の食材だか判りません。

 畫像は夕暮れ時の共同通信社からの眺望。弊社の目と鼻の先ですが、高さが違ふと景色もかなり違ひますね。生憎と富士山は見えませんでした。

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2009年1月13日 (火)

空中散歩

Nt 年末年始と日本飛行船の運航するツェッペリンNTが東京上空を遊覧飛行してゐました。どう云ふ譯か、我が家の行動範囲がこの範疇に収まる程度しかなく、幾度も出遇ひ吃驚(畫像)。

 或る時は歸へり道、夜の旋回音に氣附いて見上げると上空200米位でせうか、悠然と空中に留まつてゐました。尽かさず、携帶を構へると、近くのマンションの警備員が慌てて走り寄り、撮影を止めさせやうとして來ました。「何故」何が何だか判りません。こちらとしては、暗くて寫りが惡い中、少し開けた所で何とか綺麗に撮ろうとしてゐただけですが、エライ剣幕で近寄つて來るので、益々焦つて巧くいきません。
 傍まで來てやっと聞き取れたのは「住人以外撮影禁止」。こちらは、マンションを撮つてゐる譯ではなく、空中を指差し「飛行船!」と傳へるのですが、警備員の背中に當たり、なかなか分かって貰へません。
 もう、こちらの携帶を壊さんばかりの勢ひです。「彼方!彼方!」と指さし、振り向いた警備員も最初は「何」と云ふ困惑顔で状況が咄嗟に理解出来てゐませんでしたが、少し間が空いてから、「嗚呼… それなら結構です」と消えゆるばかりの小さな聲になりました。

 全くもつて迷惑千萬な話で、結局ぼやけて何だかはっきりしない畫像しか撮れず破棄。後で考へれば、一般にも開放した遊歩道上の出來事でしたが、其処はマンション内の敷地でした。警備員さんすみませんでした。

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2008年11月18日 (火)

飛行船見ゆ

Fukut1Photo 金曜日の晩、歸宅途中、プロペラの音がするので、ふと見上げると「ツェッペリンNT號」が飛んでゐました。薄曇の空に、新しいビル建築のクレーン車かと思ふやうな低い高度を優雅に飛び去りました。暫し空を仰ぐことに。ビルの蔭に消えて行くも、プロペラの音だけが殘ります。ヘリコプターとは違ふブーンと云ふ音なので、ずっと見てましたが、もう姿は現さず、後でテレビを見ると、どうやら撮影のやうでした。
 最初の畫像は新しい地下鐵、副都心線の地下通路の壁畫の一部です。

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2008年11月14日 (金)

日本初の機内食

Zepm2 1929(昭和4)年8月に世界一周の途中、獨逸から西比利亞(シベリア)上空を通り一ッ飛び、三日でやって來たLZ127「ツェッペリン伯號」。まだ、飛行機は航續距離が短く、日歐航路が開拓される前の冒險飛行でありました。
 次の寄港地羅府(ロス・アンゼルス)に向けて飛び立つ際に、帝國ホテルで調整された食事が罐詰めにされて積み込まれました。その初日の晝食オリヂナル献立表を落手。多色刷りの木版畫が浮世繪のやうでもあり、下にライト設計の帝國ホテル、そして富士山に飛行船の描かれた優雅な圖柄です。當時の新聞から献立内容は「けふのお晝はすき焼」と知つてをり、以前撮影用に料理を再現したこともあります。

 が現物を見たら、新聞記事と違ふ點を幾つか發見したので、また再現のやり直しです。考へやうによつては、お客さんをお呼びしての企劃「再現料理食味會」がまた實現できさうです。以前、ベルランに村上信夫帝國ホテル顧問(故人)をお招きして色々お尋ねしたのが懐かしい思ひ出です。帝國ホテルには六日目の豫備日の献立表しか殘つてをらず、戰後内容は確認したのはたぶん自分が最初でせう。一寸自慢!ツェッペリンの飛行船は生涯研究と勝手に位置附けて、料理再現を多く手掛けましたが、弊社で「すき焼」ができるのは嬉しい限りです。

 ※飛行船は船ですから、本來なら「船内食」とすべきところですが、これだと海上だと思はれる爲、初の空の上の食事と云ふ意味だと思つてくださいね。

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2008年10月14日 (火)

飛行船模型

Hori1 日本一、否、世界一の飛行船模型として親しくさせて戴いてゐた堀内 穣さんがお亡くなり、本日告別式がありました。以前、ベルランでツェ伯號の料理再現の際には必ず、模型をお持ち下さり雰圍氣を盛り上げてくれました。鹿鳴館やツェッペリンNTの模型を戴いたり、『ブイヤント航空』懇談會にもお誘ひ下さり、まだまだ、色々作りたいと伺つてゐただけにとても殘念です。暫く前から入退院を繰り返し、具合が惡いと聞いてゐましたが、そんなあっけなく逝つてしまはれるとは悲しいです。

 最期のお別れで見た堀内さんは病後とは思へぬ安らかな顔で少し安心しました。きっと、天上ではツェッペリン伯爵に直接構造を伺つて、新たに模型作りをされてゐることでせう。葬儀場の一角には、堀内さんの作品が並べられ、模型一筋の彼の人生が垣間見えました。只の紙からよくぞ、あそこまで作つてくれたものです。丁寧な仕事に人柄が現れ、以前お住まひの「ほのぼの荘」の名の通り、温かい作品ばかりでした。

 ツェ伯號船體の文字はもしかして赤でGraf Zeppelinと書いてあつたのではないか、と疑問を持たれてゐましたが、解決したのでせうか。少し大きめのゴンドラを作つたので見て欲しいとお持ちになつたり、思ひ出は尽きません。フルトヴェングラーの78回轉盤を蓄音機で聽く會にもいらして下さいましたねえ。

Hori2 貴君が蒐集された藏書や製作された模型が生かされることと共にご冥福を祈ります。合掌。

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2008年6月16日 (月)

ブイヤント航空

 今期から末席に入れて頂いたブイヤント航空懇親會の総會が上野文化會館で開かれたので初めて出席しました。會長は東大名譽教授、それに日本飛行船の社長、エアロノーツ社長、都立航空工業高等專門學校講師等、飛行船関連の仕事をされてゐるお歴々の中で、ひとり飲食店經營者は浮いてました。それでも、ツェッペリン伯號の船内料理を再現したのは私くらいなもので、今回そのことに就いて會誌に寄稿した爲、色々お話しもでき、収穫大でした。

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2008年5月14日 (水)

論文

 日本には飛行船專門の勉強會、ブイヤント航空懇談會と云ふのがあり、年に一度機關誌を發行してゐます。今まではお客さんを呼んで、再現料理を提供してをりましたが、飛行船に就いて調べたことを、此処に發表しようと思ひ、今週は執筆活動。卒論以來の論文に四苦八苦してゐます。何処かの記事で讀んだうろ覺えを、資料を當たり確認する作業に手間を取られ、畫像讀み取りがうまく行かず知人に頼んだり、從業員に添削をお願ひしたり、周りの方の協力を仰がないと進みません。情けない。

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2008年4月21日 (月)

紺碧の海

 大學1年の時なので、1982(昭和57)年か翌年であつたと思ひますが、オーケストラ部の同級生に早稲田實業のブラスバンド部出身者が居た爲、誘はれて夏の甲子園を目指す、東(ひがし)東京の豫選を應援に行つたことがあります。折りしも、荒木大輔が投手として活躍してゐた頃の神宮球場は早稲田の應援歌「紺碧の空~」の如くに晴れ渡り、快進撃を續け、地區大會で勝ち上がり、甲子園へ行つてゐます。

 「黒みを帯びた紺色」が「紺碧」の本來の意味だと思ひますが、飛行船のことで家頁を檢索してゐたら紺碧の海と云ふブログを發見。1930年代の豪華客船「ブレーメン」や「オイローパ」、ご自身の體驗された船旅、双発の河西飛行艇の話や飛行船に就いての記述が、思ひ附くまま書かれてゐます。私はかなりの飛行船關連書籍も蒐集してゐますが、生憎ときちんと讀んでゐません。以前、料理の再現をする際に當たりを附けて、その邊の記事だし抜き出した讀んだものばかりですが、この方はしっかり抜萃し乍ら翻譯文をブログに載せる位、立派です。久し振りに、ネット上で同好の士を捜せたことに大喜びしてメールして、こちらの資料をお送りしたところ、早速ブログに登場してました(笑)。

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2007年10月26日 (金)

遊覧飛行

 飛行認可が下り、愈、東京上空をツェッペリン新技術(NT)號で遊覧飛行が可能となりました。但し、JTBに因れば、平日日中の飛行で126,000圓、週末の夜間飛行で168,000圓になると云ふ。う~む、自他共に認める飛行船好きとしても、これは高い。獨逸のフリードリヒスハーフェンで乘船して、ボーデン湖上を1時間遊覧して確か4萬圓程度でした。獨逸では10人のお客を乘せたが、日本では8人しか乘せないらしい(12人乘りなのですが、2人は操縱士)。東京上空90分の旅で三倍では、幾ら物好きでも、躊躇しますが、乘つてみたい。詳細な報告書を書きますので、どこか雑誌社でも、出資して頂けませんか。

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2006年8月 4日 (金)

大型飛行船の最期

Hb2 1937(昭和12)年に入り、最初の北米飛行が5月3日からプルス船長、アドヴァイザーとしてレーマン社長も乘り込み、建造途中の新しい飛行船LZ130「新ツェッペリン伯號」の練習乘組員も含め乘員61名、乘客36名を載せてフランクフルトを20時15分に飛び立ちました。途中ケルンで郵便物を投下し、和蘭上空から英佛海峡を抜けて大西洋へ出ますが、低氣壓を迂回し、強い偏西風のお陰で珍しく遅延してゐました。

 5月6日の午後2時になつてやっと紐育上空を通過、ブルックリンのエベット球場上空を過ぎる頃にはブルックリン・ドヂャースとピッツバーグ・パイレーツの試合の真直中でしたが、觀客に空が見えるやうに試合は一時中斷しました。

 ニュージャージー州上空は極めて不安定な状態で雷雲が發生してゐるとの連絡が入ります。乘客には早めにお茶が振る舞はれ、午後四時、ヒンデンブルク號はレイクハースト海軍飛行場の上まで來たものの積亂雲を避ける爲一旦船を南のアトランティック・シティ方面に向けました。午後5時12分無線連絡が「雷雨ハ飛行場上空ヲ東ニ移動中」と入り、まだ時間が掛りさうだと判斷した船長の機轉で乘客にはサンドヰッチが配られました。

 5時22分、地上のローゼンダール司令官から「スグ着陸サレタシ」の無線を受け、飛行場に向きを變へると、地上では92人の海軍軍人、139人の民間人、繋留塔へも係員6名が配置に着き着陸の準備が完了します。6時4分、高度170米、南側の柵を越へ、着陸地點を越えてゆっくり時計とは逆回りに旋回し、15秒間瓦斯を放出し、バラストの水を捨てて高度を下げ、更に船尾が重い爲船首の瓦斯を放出して、非番の乘員を船首へ呼びました。6時21分、繋留塔の手前、地上60米にピタリと靜止、巻かれたロープが落とされ着々と着陸態勢が整ひます。併し、6時25分、突然船尾からボンと云ふ音と共に赤い炎が上がり、瞬く間に廣がり、二度目の爆發で船尾から落下し炎上しました。

 この大惨事はニュース・フヰルムと實況中繼をしてゐたシカゴ・ラヂオのアナウンサー、ハーバート・モリソンにより記録され、繰り返し放映されて來ました。この事故により乘客13名、乘員22名、地上員1名の尊ひ命が失はれましたが、97名の内62名が無事救出されてゐます。地上が砂地で飛び降りても平氣であつたことや、着地してから逃げ出せた人、水素の爆發でできた水を被つたり、偶然條件が重なつた人は助かつた模様です。
 16粍のこのニュース・フヰルムも蒐集してをり、一緒にモリスンの未開封LPレコードと共に寫眞を撮らうとしたことがありました。ところが、このふたつを一緒にした途端頭が痛くなり、死者の出た微妙な問題なので止めました。もしかして、LPの未開封なのもそれが原因?それ故、プレイヤーもないですし、開かずのLPのままです。

 事故原因は長い間不明とされて來ましたが、近年、米國航空宇宙局(NASA)の元研究員アジソン・ベインの獨自研究により出火原因が船體外皮塗料にあると解明されました。酸化鐵と粉末アルミニウムの塗料は實は燃え易く、雷雨により溜まつた靜電氣の火花(スパーク)でも火災が起きることが判りました。「ツェ伯號」には塗られてゐなかつたので、こちらは一度も事故を起こさず天寿を全うしてゐます。「火花説」は既に當時の事故原因研究にもありましたが、ナチス政府は威信を懸けた巨大飛行船の原因として公表せず、謎のままとしたやうです。

Youkosod また、この事故により巨大飛行船は息の根を止められた格好となり、それ以降小型のものしか開發されてゐません。併し、ツエッペリン社は21世紀を迎へるのに際しヘリウムを使ひ、全長七三米の小型飛行船を新造し、現在日本上空でも見ることができます。この一二人乘り最新設備を整へた「ツェッペリンNT(新技術)型」は、主に廣告飛行に使はれてゐます。

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2006年8月 3日 (木)

1936年の音樂

 日本では軍國主義が高揚され、軍歌が流れる中で民衆には渡邊はま子〈ああそれなのに〉や、美ち奴〈うちの女房にゃ髭がある〉等に人氣がありました。6月に入り〈東京ラプソディ〉が藤山一郎の明るい歌聲で發賣されると瞬く間に流行り出しました。
 風薫る5月、古賀政男は愛用のフォードで神宮外苑を運轉し乍ら、樂想を深めたと云はれてゐます。中山晋平の〈東京行進曲〉を念頭に、カサド作曲のマンドリン合奏曲〈西班牙の花〉の旋律を一部使ひ、昭和のモダン都市「東京」を謳歌する健康的な歌は、戰前最後のものでした。

Chaliapin この年には佛蘭西の提琴家、ジャック・ティボーが1928(昭和3)年以來、二度目の來日を果たし、露西亞の名バス歌手、フィヨードル・シャリアピン(左圖)も來日してゐます。日比谷公會堂での獨唱會では自分の持ち歌を印刷した紙を配り、お客の好みに合はせて歌ふと云ふ粋な計らひが人氣を博しました。併し、齒槽膿漏が酷くて好物の肉料理が食べられず困つてゐると聞いた、宿泊先の帝國ホテル、グリル料理長、筒井福夫が玉葱に漬け込んで柔らかくした「シャリアピン・ステーキ」を考案し、ここに名物料理が生まれました。

 歐州ではナチスに悉く反撥し、ナチス主催の演奏會で棒を振りたがらない指揮者フルトヴェングラーはこの年の秋冬の演奏會期にヒトラーの了解を得て、ツアーを含め指揮活動を中斷し作曲に専念しました。但し、一曲《アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク(小夜曲)》Polydor 67156/58 のみ録音してゐます。

 伯林を追はれた猶太人指揮者ワルターは維納國立歌劇場に落ち着き、束の間の蜜月を過ごし、和蘭ではメンゲルベルクがアムステルダム・コンセルトヘボウ管絃樂團を振つてゐます。反ナチスを旗印に掲げるトスカニーニは元氣に紐育フィルを振つてをり、ザルツブルク音樂祭はまだナチ色がなかつたので參加しました。

 蘇聯ではショスタコーヴィチの《ムツェンスクのマクベス夫人》が蘇聯共産黨中央委員會機關紙『プラウダ』に酷評され、交響曲第5番の作曲に着手、洪牙利ではバルトークが《絃樂器、打樂器とチェレスタの爲の音樂》を作曲してゐます。

 水曜日の會では、この大好きな《東京ラプソディー》Teichiku 245A、フェルカーの歌ふ《グラール聖杯物語》Telefunken Bayreuth SKB 02049、レーマンの歌ふ〈ヴェーゼンドンクの歌〉より《夢》Odeon RO 20100B、シュルスヌスの歌ふ《宵星の歌》Grammophon 35023B、そしてロスヴェンゲが獨逸語で歌ふ「イナバウアー」ぢゃなくて《誰も寝てはならぬ》Grammophon 10447B を食後に掛けました。

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2006年8月 2日 (水)

優雅な食事

Hdining1 1911(明治44)年の「シュヴァーベン號」にはキャビアやフォア・グラのテリーヌのやうな冷製食材やシャムパーニュが積まれてをり、1928(昭和3)年の「ツェ伯號」には温かい料理を調理する爲の厨房と専任コックが配置され、快適な空の旅を演出する重要な要素として食事が扱はれてゐました。

 更に「ヒンデンブルク號」ではオーヴンの數も増え、毎朝焼きたてのロールパンが供され、晝食にはスープまたは前菜、肉料理、デザートの三皿が出され、夕食にはスープ、前菜または魚料理、肉料理、チーズ(デザートなし)を樂しむことができました。

Hbsp2_1 淡い乳白色の厚紙で、開くと毎日、船内でタイプ打ちされた晝食と夕食が一頁に印刷されてゐます。1936(昭和11)年8月21日のオリヂナル献立表の晝食はコンソメ 細切りパンケーキの浮實、印度風チキン カレー味に御飯、豌豆添へ、苺 生クリーム添へ、珈琲。夕食はオクラのスープ、瑞典(スウェーデン)風玉子パン、ポーターハウス・ステーキ、シュヴェッツィンガー産ホワイトアスパラガス、馬鈴薯、アリーセ風サラダ、チーズの盛り合はせとなつてゐます。初めこの料理を再現するつもりでしたが、ポーターハウス・ステーキ(Tボーンステーキ)の材料、牛の背骨附肉がBSE(牛海綿状腦症)により手に入らず諦めたことは以前お傳へしました。

Hdining2 飲物は別紙に有り、ワインは11種、獨逸のモーゼルやラインの白ワイン9種、ボルドーとブルゴーニュの赤ワイン各一種、獨逸發泡酒(ゼクト)が4種、ミネラルウォーターも3種あり、それぞれ瓶の註文となりました。他に辛口シェリーにポートワイン、ヴェルモット酒、他にスコッチ・ウヰスキー、ブランデー、ラム、キルシュヴァッサー、ベネディクティンの強い酒もグラスで用意され、亞米利加で流行してゐる最新のカクテル、マティーニやマンハッタンも出されました。

 Bデッキのバーへ行けば直接カクテルの註文もでき、こちらにはまた専用のメニューがありました。バー奥の回轉式二重扉の向かうの喫煙室(右圖)で煙草が吸へるのも今までの火氣嚴禁の飛行船と大きな違ひです。但し、有事にはこの喫煙室だけ落下させる仕組みになつてゐたことをお客は知りません。

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2006年8月 1日 (火)

船内

Hlounge ヒンデンブルク號船内全體は電燈により明るく、真珠色の麻壁、モダンな調度は飽くまで清潔で、食堂には初期飛行船の繪が、サロンには世界地圖と海洋航路が描かれてゐました。

 客室乘務主任はハインリヒ・クービスは既に第一次世界大戰前の「ザクセン號」から飛行船乘務を勤め始め、「ツェ伯號」の世界一周の際には日本にも寄港した經驗豐かなサービスマンでした。その他六人の客室乘務員、子供の世話や婦人の髪結ひを擔當する乘務員が一人居り、二四時間體制で郵便の世話や紙幣の換算、靴磨きまで、きめ細かなサービスをしました。

Hkueche1 厨房はフリードリヒスハーフェン一のホテル・クアガルテンで修行した一流コック4人が、火を使はない電氣式のオーヴンや電熱器により調理し、昇降機で真上のAデッキへ上げられました。専任の給仕は一人だけでしたが、食事時には客室乘務員も手傳ひ、優雅な時間が過ごせたのです。

 船長以下高級船員(オフィサー)、一般乗務員(クルー)、機械員17人、機關員4人、整備員3人、電氣員3人、電氣技師、操舵員、昇降員、航空士等、50人前後の乘務員が働いてゐました。

Landung 16の氣嚢を水素瓦斯で滿たすと、236噸の重量が揚げられます。最大1200馬力を誇るダイムラー社製16氣筒V型エンヂンDB602型(LOF6)四機は水平に動かすだけで、上昇は水素の力で、下降は、瓦斯をやや抜き地上員200人が力を合はせて引っ張りました。船體とエンジンを差し引いてもまだ20噸以上が載せられるのは、飛行機と違つて大きな強みでした。また、最速であることから「航空郵便」も欠かせぬ存在です。

南米航路3日間の爲の食料積載物を見てみますと、
 肉類・ソーセージ    600瓩(キロ)
 バター          200瓩
 野菜           600瓩
 馬鈴薯         500瓩
 珈琲           25瓩
 紅茶            6瓩
 パン、菓子用小麦粉  80瓩
 葡萄酒、麦酒、水瓶 250本

Innen 乘務員にお願ひさへすれば、船内を見學することも可能でした。船の肋骨部分に當たるリングは最船尾からの距離を表すメーター數により番號が振られ、ツェッペリン社員は習慣で船内の位置をリングの數で表してゐました。船の底部に沿ふ主通路の「リング0」が最船尾となり、最船首は「リング246.7」となります。船客が普段過ごす部分は「リング173」から「リング188」の間でした。
 この主通路脇には、燃料タンク、貯水タンクを始め乘務員室、倉庫等が兩脇に並んでをり、浮遊力に餘裕のあるヒンデンブルク號は自動車や犬を乗客と共に運ぶこともありました。


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2006年7月31日 (月)

LZ129

129cnst5 先週の「ヒンデンブルク號の料理」再現で折角調べたので、今週はそれをお傳へしませう。
 
 國家社會主義獨逸勞働者黨(ナチス)政府援助の下、1935(昭和10)年末に、超大型硬式飛行船「ヒンデンブルク號」は完成しました。不燃性のヘリウム瓦斯を使ふことを念頭とした爲、「ツェッペリン伯號」より10米長い全長245米、最大直徑も10米長い41.2米、瓦斯容量はほぼ2倍の20萬立方米、巡航速度は時速125粁、積載量60噸、6日間は燃料補給なしで滯空できる最新の設備が整つた夢の飛行船でした。

Piano ツェッペリンの飛行船は全て「硬式飛行船」故、輕金屬アルミニウム材で強固な船體を造り、薄い氣嚢(瓦斯袋)が内部に入つてゐます。船體内部は一六の部分に分けられ、各區畫に一つの氣嚢がありますので、16の風船で飛行船を持ち上げる形です。當時、唯一のヘリウム産出國亞米利加は軍事利用を恐れて輸出を許可せず、水素瓦斯を使ふことになりました。それ故、浮力が増したのでブリュットナー社製のアルミ合金に淡い黄色の羊革を張られた「グランド・ピアノ」がサロンに設置されました。

Hbdeck 「ツェ伯號」ではゴンドラ内部に操舵室と客室が在りましたが、大容量となつたお陰で、「ヒンデンブルク號」では客室は船體下部に組み込まれました。船客は折り疊み式の階段を上がると下部のBデッキへ出ます。
 左舷にはシャワー室、乘務員食堂、厨房があり中央通路を挟んだ右舷にはお手洗ひ、事務長室とバーが在り、その奥には喫煙室が設けられてゐました。先程の階段をもう一階上がるとそこがAデッキで、船名の元となつたパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の頭像が迎へてくれます。

Hraum1 中央部に客室が25部屋、折り疊み式二段ベット、熱いお湯も出る洗面臺、机、椅子、戸棚まで在ります。左舷には食堂、右舷は奥に仕切られた圖書と書物室、手前はサロンとなり、長さ14米、幅4米の展望プロムナードでは長椅子も設置されて、ゆっくりと移り變はる地上250米の景色を眺めることができます。
 それまでの「ツェ伯號」南米航路は片道3000弗もしたのに對し、「ヒンデンブルク號」は大型化した爲400弗と破格な運賃も魅力で、百萬長者でなくても一般客でも手の届く乘り物となつてゐました。
 當時の北米航路の客船は凡そ一週間掛かり、この年に英豪華客船「クイーン・メリー號」が出した新記録でも亞米利加まで4日と27分でしたが、「ヒンデンブルク號」は通常2日、最大でも3日で紐育へ着きました。
 「一睡もしなくていいので、サロンに乘せてくれ」と云ふ客の要望もあり、この年の冬には客室が増設され70人収容できるやうになりました。
Hadeck

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2006年7月28日 (金)

1936年8月17日の夕食

 水曜日に再現した1936年8月17日の夕食は
Menu2クリーム・スープ ハミルトン風
舌平目のグリル パセリ・バター添へ
鹿背肉のロースト ボーヴァル風
馬鈴薯、シャムピニヨン、クリームソース
チーズの盛り合はせ

でした。但し、この「ハミルトン風」はどんな料理辭典を見ても、フリードリヒスハーフェンのツェッペリン博物館に問ひ合はせても判りませんでした。通常、土地の名前か人の名前ですが、蘇格蘭(スコットランド)の同名町に名産品はなく、亞米利加のアレクサンダー・ハミルトンに關する料理は傳はつてゐません。「ハミルトン風」は再現できませんので、これから秋に向けて獨逸で食される旬の杏子茸を使つたクリーム・スープをお出しします。また、鹿肉料理の「ボーヴァル風」も判らず、佛蘭西語直譯の「美しい谷」で獲れた鹿肉だらうと解釈しました。料理名にはその店獨自の名稱があるもので、これが料理再現に一番苦勞するところです。

Zyaki2 それに1929年「ツェッペリン伯號」來航時に東京府内の鯛焼屋がこぞって「ツェッペリン焼き」を焼いたと云はれる焼き型を入手したのでそれを使ひ、私共は洋食屋なので小豆餡の代はりにカスタードを入れて、46本用意しました。一度に3本、同じ數位の失敗もありましたので、うちのコックは腱鞘炎になるかと思ふ程朝からずっと焼き續けやっと開宴前に完了した次第。かう云ふものは職人が焼くもので、ワッフル程度の洋食のコックには難しかったやうです。
 この焼き型も前後に丸い部分が附くいてゐるので、何か枠があつたと思はれます。鯛焼きのやうに取手と、固定する枠か火の上で嵌める丸い窪みがあつのではないかと思ひます。

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2006年7月27日 (木)

無事終了

P7260107 LZ129「ヒンデンブルク號の料理」再現がやっと終はりました!冷房の効きが惡くなるので、床掃除用の大きな扇風機を回し、何とか適温を保つことができました。當時の飛行船に暖房はありましたが、冷房はありませんでした。それもその筈現在でも、獨逸の建物の多くや劇場、店舗(除チョコレート屋)に冷房はありません。だから7,8月はお休みなのでせう。

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2006年7月26日 (水)

完成

P7260103P7260099 何とか間に合ひました!遠くから見ると素敵ですが、間近で見ると接着剤がはみ出して結構汚いのが殘念です。模型製作の實力がない分、本來時間を掛けて解決すべき點が、時間に追はれ、片手間でしたから、今日の晩までに間に合つただけでもよしとしませう。

P7260106P7260109 LZ127「ツェッペリン伯號」と並べて見ると、その差歴然!何度も言ひますが、LZ129「ヒンデンブルク號」はでかいです。
 着席46名と過去最高のお客様ですから、準備もギリギリです。特に「ツェッペリン焼き」に調理場は苦戰してゐます。

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2006年7月25日 (火)

最終段階

P7250097 いよいよ本體の仕上げです。絲をどのやうに始末するかが、これまたたいへんです。それがあるだけで現實的になるから不思議です。それにしてもでかい!全長240米、半徑20米の大きさが實感できました。
 只、だいぶ粗も目立ちますので、ご覧になる際はご容赦下さい。

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2006年7月24日 (月)

エンヂン

P7240093 エンヂン細部を仕上げて、カバーを附けましたが、案の定中が全く見えません。何とも口惜しいこと!それでも息を吹きかけると四枚羽根が勢ひよく回るやうにしたのが自己滿足となつてゐます。最大1200馬力を誇るダイムラー社製16氣筒V型エンヂンDB602型(LOF6)4機は飛行船を水平に動かすだけで、上昇は水素の力で、下降は、瓦斯をやや抜き地上員200人が力を合はせて引っ張つたのです。人力で引っ張るところが凄いですね。

 尾翼の殘り部分も完成。但し、まだ絲を張ったり、2つの胴體の接合があります。一度木工用ボンドで試したものの敢へなく失敗。寫眞用のボンドで今晩試してみます。でかいものはでかいで難しい。明日一日で完成するでせう。

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2006年7月21日 (金)

1936年

Engin 他のことで忙しく、模型製作は全く進まず。厚紙を裏に貼つて強度を増すなどせねばならず、完成は週明けに持ち越し。そこで、資料用に調べてゐた1936(昭和11)年のことを此処に記しませう。

  日本ではこの年の2月26日、皇道派青年將校等が蹶起した「226事件」が起き政府要人を襲撃、殺害、その部隊解散放送「今からでも遅くない」がその年の流行語となりました。事件後は、東条英機ら統制派が實権を握り、政治的發言力が増しました。5月18日には「阿部定事件」、11月7日には國産物資のみで造られた「國會議事堂」が完成してゐます。

Hb4 歐州では7月17日に「西班牙内戰」が始まり、8月1日~16日の伯林オリムピック實況放送では河西三省アナウンサーによる競泳女子200米平泳ぎのラヂオ放送「前畑頑張れ」が語り草となり、日本は金メダル6個も獲得しました。4日の蹴球初戰では瑞典と對戰し、2對0で迎へた後半盛り返して逆轉勝利しました。これで、瑞典には随分精神的な痛手を與へたやうです。また、レニ・リーフェンシュタール撮影・監督による記録映畫《オリムピア》第一部〈民族の祭典〉、第二部〈美の祭典〉は各方面で絶賛され、不朽の名作と云はれてゐます。
 11月15日には日獨防供協定が結ばれ、英國王ジョージ5世の死去に伴ひ、長男エドワード8世が即位する筈が12月20日、シムプソン夫人との戀を選んで退位しました。

 また、翌年の7月7日には「蘆溝橋事件」が起きてゐます。日本の生命線と云はれた滿州や中國で「抗日統一戰線」の激しい抵抗を打ち崩す名目で、益々中國本土への侵略を押し進めることになりました。

 ヒンデンブルク號の飛び立つた1936年は戰爭の蔭がひしひしと寄る何とも不安げな年でした。21世紀を迎へた現在も、資源を持つBRIC新興國の隆盛に日本の外交は立ち後れ氣味。1930年代のやうなブロック經濟が敷かれないことを祈ります。

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2006年7月20日 (木)

ゴンドラ

P7180091 「ツェッペリン伯號」までは、ゴンドラにしか船客は乘れませんでしたが、「ヒンデンブルク號」は更に巨大な爲、客室は船體内部に収まり、ゴンドラ部分は操舵室になつてゐます。それにしても細かい!接着剤がはみ出して、随分汚れてしまひました。これを本體に接着すると、矢張り内部は殆ど見えません。次は4つの内燃機關(エンヂン)部分ですが、これまた細かい部品が多いのに閉口します。

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2006年7月19日 (水)

サロン

P7180083P7180088 Aデッキ、食堂の反對側、右舷サロン、讀書室部分も完成し、本船に設置しました。併し、窓越しには殆ど何も見えず、苦勞が全く偲ばれないのが口惜しいです。今度はゴンドラ部分へ移ります。

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2006年7月18日 (火)

食堂

P7140082 愈細部に取り掛かります。まづは食堂部分。卓子、椅子をそれぞれ別々に組み立てで接合。2人掛けの席でも4人前のセットが印刷されてゐるのは笑へます。日本人の設計模型なら、きっとこんなことにはならないでせう。それにしても難しい。どうせ、セロファンの窓越しにちらりと見えるだけなのですが、此処まで來ると手を抜きたくありませんね。

Dining2 當時の総天然色寫眞を見ると、色合ひの差は歴然ですが、200分の1の縮尺でも充分雰圍氣は傳はつて來ます。

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2006年7月17日 (月)

増設

P7130079P7130076 客室部分を増設。サロンと食堂の窓を開け、セロファンを貼りました。抜いた窓枠角に毛羽が殘り、決して美しくありませんが、程々の出來でせう。船尾にも中央部分を繼ぎ足し、船體番號が誇らしげに見えますが、長さがあり、どうしても接合部分が盛り上がらず、逆に引っ込んでしまふ爲、格好惡いです。


P7130074 大きさを實感して下さい。もう一部分を繼ぎ足すと、本船が完成し、ゴンドラ、方向舵、昇降舵、エンジン等細部に移ります。その前に難關となるサロンと食堂内があります。窓から見える爲、微細部品の接着し、卓子、椅子を作らねばなりません。

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2006年7月14日 (金)

前の部分

P7120070_1P7120071_1 前の部分は切り込みを入れて、カーブを附けて徐々に丸めて行きます。兩面印刷が紙により1粍程度ずれる爲、貼り合はせるとかなりのズレが生じてしまひました。それ故、接合部分に隙間ができて格好惡いです。

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2006年7月13日 (木)

後ろ部分

P7110067P7110068

 尾翼を本體に接合したので、少し飛行船らしくなりました。長さ40糎弱、だんだんと場所を取ります。細部は最後に纏めてやるやうになつてゐますので、部品部分を見るとその細かさに卒倒しさうです。26日までに完成できるか、やや不安になつて來ました。

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2006年7月12日 (水)

尾翼

P7100066 獨逸製の商品なので、矢張り獨逸製の糊との相性が良く、以前買つて來たものを使つてゐます。併し、殘り僅か故、プラモデルで昔お世話になつた「セメダインC」を試してみました。生憎、こちらは乾きが速く、然もはみ出すと銀色の皮膜部分が色變はりしてしまひ、非常に厄介!使ひ辛いです。
 特に尾翼の貼り合はせは、芯部分と接合面が少なく、難航を極めてゐる状態。更に細かくなる部分が心配です。

P7100063

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2006年7月11日 (火)

船尾

P7070026 説明書では最初に主だつた外皮部分を切り取り、折り目を附けて成形するやうに書いてありますが、さうすると場所が要るので、船尾から順番に接合して行きます。根氣の要る作業だと判つてゐましたが、貼り合はせる部分はアルミニウムの骨骼に沿つてゐるので、1粍の糊代しかなく結構たいへんです。接着剤が薄いとくっ附かず、多過ぎるとはみ出るし、思つた程器用でない自分を發見!

P7070027 内側にも綺麗に印刷が施されてゐますから、ほんたうにヘリウムのゴム風船でも入れれば飛びそうな感じがします。實に細かく完成すれば、さぞかし達成感は得られるでせう。但し、兩面印刷が微妙にずれるてゐる為、指示通りに接合しても白い部分が出てしまつたり、なかなか上手く行きません!

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2006年7月10日 (月)

紙模型

P7060024 7月26日(水)に「ヒンデンブルク號の料理」を再現すのですが、それまでに資料を纏め、當時飛行船に載せられたワインの年號違ひを発注し、料理内容もシェフと確認して、どこまで再現できるか檢討せねばなりません。また、ペーパークラフトを完成させて飾り、1936年の雰圍氣を作り出したいと思つてます。丁度、「ヒンデンブルク號」就航から70周年なのですよね。
 今暫くはこの紙模型の進捗具合でも眺めて下さい。

P7060025 言葉は殆ど書いてなくて、繪入りの説明があるだけですから、よく見乍ら頑張ります。片手間仕事ですから、毎日どれ位進むか不安です…

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2006年6月23日 (金)

ドルニエ Do X

  「ツェッペリン伯號」が世界一周へ飛び立つた頃、民間輸送機は精々10名運ぶのがやっとでしたが、100名を超す人を乘せて飛行機を飛ばそうと考へた人がゐました。それが、クロード・ドルニエ(1884 - 1969)です。彼はツェッペリン飛行船會社から獨立して、同じボーデン湖畔で、飛行艇の開發に勤しみました。大型飛行機では芝生の滑走路にめり込んで進めませんが、水上なら大型化が可能でしたから、飛行艇の研究が一歩先へ進んだのです。

Dox 何とも憎めない飛行艇「ドルニエDo X」は1929(昭和4)年7月12日に初飛行、10月21日には、169名も乘せて世界記録を打ち立てました。定員の乘客150名、乘務員10名、それに密航者が9名も居た爲、定員オーバーが逆に世界最多となりました。

 ご覧の通り、目立つのは翼上の6列のエンジンでせう。ジーメンス・ジュピター9型エンジン12基が附けられましたが、馬力不足で後に610馬力のカーチス・コンカラー水冷式V型12氣筒エンジン12基に替へられ、やっと大西洋横斷へ向かひます。全長40.05米、全幅48米に56噸とかなり重い爲、なかなか高く飛べませんし、速度も出ません。但し、客船の設備を基本に考へてゐた爲、乘客100名が旅中飽きないやうに、ラウンジ、喫煙室、シャワー室、食堂まで完備し、「ツェ伯號」を上回る設備でした。乘務員は通常14名程で、操縱室、機長室、航海室、機關室それに通信室まで調ひ、豪華なホテル並です。前後6列12基のエンジンは重い割に効率が惡く、設計上のミスもあり頑張つても速度が出ません。理想だけが先に行つてしまつた感じです。

 献立表は生憎殘されてをらず、厨房の寫眞も見たことがないので、冷たい料理が供されたこと以外詳しいことはわかりません。豪華なワインと共に珈琲、紅茶が沸かせたとしても、キャビアにフォア・グラのテリーヌ、3食共サンドヰッチだとしたら、何日も飛ぶのには耐へられませんね。それに艇内は防音が完備してゐませんので歩き廻れたとしても、かなり五月蠅かつた筈です。

 1930(昭和5)年11月2日に和蘭のアムステルダムから葡萄牙のリスボン、伯剌西爾のリオ・デジャネイロ、亞米利加のマイアミ、そして紐育へ華々しく向かふのですが、高温多湿の大氣では、通常の馬力も得られず、一度着水すると離水も出來ない始末。装備を減らし、内装を外し、乘員を減らして何とか飛び立ちますが、氣温の高い日中は精々高度3米、夜間でも50~80米しか飛べません。夢ばかりで鈍重なところが逆に愛らしい。6列エンジンは他の飛行機にはないだけに、私は好きです。故障も多かつた爲、ルフト・ハンザの印を附けて定期航路に就けず、博物館行きとなりました。Do Xの後繼艇のDo 24は實用化されましたが、定期航路には就かず獨逸空軍省で救難飛行艇として使用されました。
 パンナムの古いポスターで見たことがある程度で、詳しいことは知りませんが、飛行艇は1930年代に主に北米で活躍したやうです。

 この度、エア・バス社がボーイング社の「ジャムボ・ジェット」を越える世界初の総2階建て、超大型旅客機A380(最大853席、通常555席)を製造するとのことですが、どうなりますかね。空の上の豪華な食事は今も憧れの的です。

Dornier Do X

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2006年6月22日 (木)

空の女王

 水素は酸素と反應して水になりますので、環境汚染を解決すべく燃料電池への應用が期待されてゐます。併し、水素は空氣中の酸素に触れると爆發を起こします。それ故、風船に入れられるは瓦斯はヘリウムを使ひます。安定した元素なので爆發の危險はなく、最近では「風船の餌」として罐に入つて販賣もされてゐます。LZ129「ヒンデンブルク號」が飛び立つた頃、既に獨逸國家社會主義勞働者黨(ナチス)に危機感を抱いた亞米利加政府は唯一のヘリウム産出國でしたが、飛行船の軍事利用を恐れて輸出を禁止し、「ヒンデンブルク號」は仕方なしに水素を氣嚢一杯にしました。ヘリウムより水素の方は浮遊力が大きい爲、急遽重しの爲に特製のグランドピアノを載せ、釣り合ひを取り大西洋横斷へと向かひます。

Hbspeise 1936(昭和11)年3月31日、全長245米、最大直徑41.2米、最高時速135粁、空の女王「ヒンデンブルク號」が南亞米利加へ処女飛行を行はれました。フランクフルト・アム・マインに空港が新設され、北米航路ではニュージャージー州、レイクハースト海軍基地まで片道61時間38分、歸へりは48時間22分で結び、3日で亞米利加へ渡れることを宣傳にも使つてゐる程、速い乘り物でした。そればかりか、客船では一週間掛かり高いのに比べ、「ヒンデンブルク號」は片道400弗と破格です。「ツェッペリン伯號」でも北米航路片道1250弗もしたのに、その3分の1の値段です。これは、飛行船が大型化し、一度に50名も(後に改装して70名)運べるやうになつたからです。

ゴンドラ部分は操舵室だけになり、客室は船體部分下へ移り大きく使へるやうになりました。中央部に2段ベット式の客室、両翼に展望サロン、食堂、讀書室、シャワー室、厨房、バー、それに劃期的なのが喫煙室の増設です。靜電氣の引火を恐れ、「ツェ伯號」は禁煙でしたが「ヒンデンブルク號」には煙草を吸えるところがあり、これは當時の人々に非常に喜ばれました。但し、もしもの際にこの喫煙室だけ切り離されて落下する仕組みであつたことなど誰も知りません。

Hbsp2 食堂はバウハウスを引き繼ぐやうなモダンなもので、廣々として、白いリネンが映え、特製の銀器や磁器も真新し、く改良の加へられた厨房により豪華な食事が供されました。1936年8月21日(金)の献立表を見てみませう。中身の文章は船内でタイプ打ちされて謄寫版(ガリ版)印刷されたやうです。晝食と夕食が併記されてゐますので、一日一冊配られたのでせう。  晝食を見てみると、

コンソメ・スープ パンケーキの浮實
印度風鶏 カレーソース 御飯と豆添へ
苺 生クリーム添へ
珈琲

とあります。獨逸の街角のソーセージ屋で一番人氣がCurry Wurst(クリー・ヴルスト)なのですが、焼いたソーセージにケチャップを掛け、そこにターメリックの効いたカレーパウダーを掛けただけの實に單純な料理です。これにゼンメル(Semmel)と呼ばれる小さく丸い佛蘭西パンが一緒に附き、大きく口を開けて頬張ります。日本語風に「カレー・ヴルスト」と發音すると全然通じません。戰前からこれがあつたかわかりませんが、カレーソースはピリリとした辛さが異國を感じさせたことでせう。そしてワインと一緒に樂しめると考へると、今の飛行機の2等席のやうな感じなのでせうか。但し、2人用個室の寝臺でゆっくり眠れますし、殆ど揺れません。飛行船の方が優雅ですねえ。

 7月26日(水)にヒンデンブルク號の料理を再現致しますが、材料の關係により、この料理ではなく1936年8月17日の献立を使ひます。 

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南米航路

 第一次世界大戰で負けた獨逸は賠償金の一部として飛行船は接収され、格納庫は日本へ移譲され霞ヶ浦の海軍基地に組み立てられました。1929(昭和4)年のLZ127「ツェッペリン伯號」世界一周の際に利用されたのは言ふまでもありません。1924(大正13)年に亞米利加へ送られたLZ126は後にZRIII「ロス・アンゼルス號」と名を變へて米海軍で活躍しました。

 「ツェッペリン伯號」は世界一周で長距離飛行の安全性を世論に廣く訴へ、南米航路が開設します。獨逸のフリードリヒスハーフェン、西班牙(スペイン)のセヴィリア、伯剌西爾(ブラジル)のペルナンブコ、首都リオ・デ・ジャネイロを結び、後に獨逸から伯剌西爾まで直行し、多くのビジネスマンを運びました。リオから飛行機の接續で、亞爾然丁(アルゼンチン)のブエノス・アイレスまで飛ぶことも可能で、歐州から南米まで最も早い航路でした。この南米航路の献立表も幾つか蒐集してゐます。特に1935(昭和10)年邊りに使はれたものは、多色刷りで大きな椰子の木と夕日に「ツェ伯號」が描かれ、旅情を盛り立ててくれます。
Suedamerika
 例へば、ペルナンブコからフリードリヒスハーフェン間の1935年5月20日(日)の晝食
  クリーム・スープ アグネス・ソレル風
  若鴨のソテー 豆、馬鈴薯、林檎のコムポート添へ
  加州産黄桃 ライス添へ
  珈琲

と云ふのが載つてゐます。濃縮したコンソメはそれまで一般的でしたが、この頃になるとクリーム・スープも出され、船内で調理された温かい食事は特に魅力であつたことでせう。デザートのライスは甘く煮込んだライス・プディングのやうなものだと思ひます。食べてみたくなりますね。そのうちにベルランで再現する機會を作りたいと思つてゐます。

 飛行機には1919(大正8)年に倫敦・ブリュッセル間で初めて機内食が出されてゐますが、ランチボックスでサンドヰッチに果物、チョコレートが附いて3シリングと別料金でした。珈琲と紅茶は魔法瓶で、1930年代に歐米にこのランチ・ビックス形式が廣がります。2003(平成15)年に伯林からフリードリヒスハーフェンへハーン・エアライン社で飛行船に乘る爲に直行したのですが、ドルニエの18人乘り小型飛行機であつた爲、ライ麦パンにハムの挾んである獨逸らしいサンドヰッチとチョコレートがひとつ、それにポットから珈琲を入れてくれました。器こそ違ふものの、70年前と變はらない形式ですね。

 

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2006年6月21日 (水)

遊覧飛行

 アルミニウムと云ふ丈夫で輕い金屬の枠組みの中に風船を入れ、それにゴンドラを提げて飛ぶ、硬式飛行船LZ1は1900(明治33)年にフェルディナント・ツェッペリン伯爵が私財を投げ賣つてやつと成功しました。根っからの軍人であつた伯爵は軍事利用を考へてはいたものの海軍から註文も入らず、郵便と客船として飛行船事業を考へざるを得ませんでした。そこで世界初の航空會社「獨逸飛行船運輸會社(DELAG = Deutsche Luftschifffahrts-Aktiengesellschaft)」が1910(明治43)年に設立されてゐます。

 まづ、LZ7「獨逸號」が就航しますがエンジン故障で事故を起こしますが、「獨逸二世號」は30回もの國内遊覧飛行を行つてゐます。狭いゴンドラ内には向かひ合はせになつた籐椅子が並び、輕食も頂けました。LZ10「シュヴァーベン號」はバーデン、ゴータ、伯林、ポツダム、フランクフルトを巡回し安全で快適な飛行を見せ附けてゐます。1912(大正元)、13(大正2)年の2年間に250回の飛行はめざましい進歩でした。

Schwaben そこで何が出されたかが氣になります。アルベルト・ザムト元船長の自傳『飛行船に尽くした私の人生(Mein Leben fuer den Zeppelin)』 Verlag Pestalozzi Kinderdorf Wahlwies に「シュヴァーベン號」の色刷の美しい献立表が載つてゐます。それを見ると、キャビア・ベルーガ、ストラスブール産フォア・グラのパテ、佛蘭西産肥育鶏、サラダ、ピーチ・メルバが載つてゐます。ボトルワインは6種類、それに食後酒とミネラルウォーターもあります。調理場はありませんので、地上で皿盛りにしたものを幾つか載せたのでせう。暖かい料理はないにしても、現在の遊覧船も似たやうなものです。獨逸の觀光船でライン下りをした際に見た献立よりも高價な食材です。それは、誰もが乘船できなかつたことを意味し、富裕層を狙つたからです。それをきちんと最初から商賣にしてゐて、黒字經營であつたのも立派なことです、ワイングラス片手にキャビアやフォア・グラなんて、さぞかし美味かつたことでせう。

Nt_1 現在、南獨逸のフリードリヒスハーフェンを基點としてツェッペリンNT號が遊覧飛行をしてゐますが、こちらは12人乘りで食事はありません。戻るとゼクトで乾杯は致します。日本にも同じ型の飛行船が廣告にのみ使はれてゐますが、2003(平成15)年に乘つた時、確か335ユーロでしたので凡そ1時間の遊覧飛行で5萬圓と決して安くはありません。併し、それだけ拂っただけのことはあります!のんびりとボーデン湖の上を飛ぶのは非常に氣持ちいいものです。ただ、「窓や窓枠もプラスチックなので手を掛けないで下さい」との注意放送には吃驚しました。「確實に落ちます」なんてはっきり言はれると、自己責任の國なのだなあと思ひました。それ故、日本では遊覧飛行に使はないのでせうか。

ボーデン湖遊覧飛行

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2006年6月20日 (火)

優雅な食事

 飛行機は1903(明治36)年のライト兄弟初飛行以降で暫くは操縱士ひとりと云ふ單獨飛行かお客ひとりで、遠くまで飛べませんでしたから食事が出ません。1927(昭和2)年に大西洋單獨無着陸飛行を成し遂げたチャールズ・リンドバーグもサンドヰッチとミネラル・ウォーターだけでしたから、空の上で兩手の空いた人しか食事は無理ですね。

 1783(天明2)年に佛蘭西のモンゴルフィエの作つた人類初の熱氣球有人飛行では25分間巴里上空を飛んだだけですから、食べてる暇もなかつたでせう。そこで登場するのが伯剌西爾(ブラジル)の珈琲王から遺産を引き繼ぎ、伊達男として知られたアルベルト・サントス=デゥモンでせう。1898(明治31)年に日本産の絹と竹の籠を使ひ氣球を飛ばしてから、すぐに空での食事を思ひ附きました。勿論、慣れない大空での食事なので、訓練が必要だと考へ、高さ1・8米の卓子とそれに合ふ椅子を拵へてそこで食べる訓練をしたのです。最初は食堂の天井から卓子と椅子を吊したらしのですが、當然天井が落ちたので、こんなことを考へたのですね。

 「飛行にはシャムパーニュ附の贅澤な晝食が必要」だと考へてゐたので、固茹での玉子、冷製ローストビーフとチキン、チーズ、アイスクリーム、果物、ケーキにシャムパーニュ、珈琲、シャルトルーズ(食後酒)まで載せて、「かうして氣球に乘つて雲の上でとる晝食より美味いものはない」と言つてゐます。只上空に揚がるだけでは滿足せず、移動する手段を考へます。特に輕量で單純なガソリン内燃機関(エンジン)を使ふことを閃き、石疊よりも震動が少ないことを喜び、どんな反對にもめげずに獨自に飛行船を設計したのです。アンリ・ジファルによる蒸氣機關による飛行船の實驗が既に1852(嘉永5)年に行はれてはゐますが、實用化はされてゐませんでした。

 1898(明治31)年の「1號機」から數へて、1901(明治34)年の「6號機」で制限時間の30分間エッフェル塔の周りを廻る飛行に成功し、名譽ある「ドゥーチ賞」を獲得してゐます。サントス=デュモンは自分で航空機を設計し、自分で費用は賄ひ、自分の發明で特許を取ることもせず賞金の10萬フランの半分は助手たちに與へ、殘りは巴里の職人達が質入れした道具の買ひ戻しに使つてゐます。大金持ちだつたからこそできることでせう。この時は記録への挑戰が優先されて、晝食は食べなかつたと思ひます。

 「9號機」の〈バラドゥーズ(散歩人號)〉は全長33米の「6號機」に比べる3分の1の11米と小型で、命名通り空中散歩に使はれ、ブローニュの森のレストランへ行く時に、或ひはカフェのテラスに降り立ち、食前酒を一杯飲んだり、随分と優雅なことをしたものです。但し、これも一人で操縱する爲、空中で食事をしたのかどうかはわかりません。

 小柄であつた爲「プティ・サントス」の愛稱で呼ばれた彼は、お洒落で常に襟の高い(high collar)シャツを着てゐた爲、日本では後にお洒落な人を「ハイカラ」と呼ぶやうになつたさうです。また、飛行中懐中時計ではポケットから出していちいち時間を確かめるのが煩はしいと聞いたルイ・カルティエが腕時計を考案して贈つてゐます。それが角形で羅馬數字の有名な『サントス』です。これは1978年に金の龍頭、ステンレススティールのベルトで復活を遂げ、ご婦人用も賣り出されてゐますね。

 大空での優雅な食事は最初から、誰もが味はひたいと思ふものなのでせう。



空飛ぶ男 サントス‐デュモン


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著者:ナンシー ウィンターズ

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2006年6月19日 (月)

空の食事

 お客さんを連れてワイナリーやチーズ、それにお酢等の食品工場を訪ねる旅を年に一度企畫してをり、昨年の新西蘭は例外ですが、大抵歐羅巴へと旅立ちます。10年計畫で始めたこの旅行も今年で、既に6回目に當たり10月にトリュフを食べにピエモンテを訪ねます(只今參加者募集中です)。

 歐州航路は直行便で凡そ12時間。半日座りっぱなしなので疲れます。併し、就職して歐州へ向かふ冷戰の最中の1986(昭和61)年、蘇聯上空を飛べなかつた頃はアラスカのアンカレッジ經由でしたから、もっと辛かつたですね。8時間乘ると日本時間の深夜に起こされ、機體整備の爲空港に降りると眩しい明るさに時差ボケが進み、日本語の上手な二世のおばちゃん相手に何故か饂飩(うどん)をすすったり、お土産の燻製鮭(スモーク・サーモン)を買つたりしたものです。そして、再び乘り込んだ飛行機は6時間掛けてやつと歐州上空へ到達するのでした。その經驗があるので、12時間なんて決して長いとは思ひません。

 當時はまだ全面禁煙ではありませんでしたから、喫煙席すぐ後ろの禁煙席の場合、ふわーっと煙がやって來るので閉口したものです。銘柄なんか勿論知りませんが割合ひきつい煙草で、歐州人の吸ふものは日本のおじさんたちの「ハイライト」とは香りが全然違ひ、優雅な舶來ものだと感心したものです。聞き慣れない外國語が飛び交ひ、外國へ行くと云ふ實感がふつふつと沸き上がりました。通路を挟んで斜め前に座つた、でっぷり太つた佛蘭西人のおじさんの高い鼻穴からフーと紫煙を吐き出すところが、初代ゴジラ(1954年公開)を彷彿させました。頭の中ではすっかり伊福部昭の旋律が渦巻き、卓子の上に並んだ食べ殘しがミニチュアの町並みに見えて、「嗚呼、やられる」と云ふ氣分で退屈を紛らわしたのです。書き初めて、久し振りにその情景が目に浮かびました。「ジタン」だつたのかも知れませんが、灰が胸の上に落ちても差程氣にも留めず、旨そうに吸つては、鼻から大量に紫煙を吐き出す姿はゴジラそのものでした。

 それまで、布哇くらいしか行つたことがなかつたので、歐州系航空會社の食事の違ひは目を見張りました。「フィッシュ・オア・ミート」と順番に訊かれるのに、どんな調理法かもわからないのに決めねばならない苦痛と、自分で聲に出して英語で意思表示をする心配で舞ひ上がるものなのですね。そして、音樂を聽く爲のイヤホンや酒類はタダでしたし、ワインも種類があり、食後酒まで勸められたのにはさすが吃驚しました。味はどうと云ふことはありませんでしたが、昭和一桁の父親に嚴しく殘さず食べるやうに躾られた爲、食べ切るともう滿腹過ぎて、胃はムカムカするし、アルコールも利いて來て、時差ボケも重なり、折角の最新映畫を見損なはないやうに目を開けてゐるのも必死でした。氣にせず寝てもいいのですが、映畫好きとしては見逃すのは大損に思へて、つひ頑張つてしまひました。そして、また幾時間かすると食事が出て、食べ續けてゐると段々フォア・グラにされる鵞鳥の氣分にもなつて來るものです。

 飛行機で遠くへ移動する際に最も樂しみなのが實はこの「食事」なのですねえ。今週は大空の食事のお話しです。

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2006年3月17日 (金)

飛行船蒐集物

Tasse1 飛行船に關するかなりの本に目を通して來ました。飛行船研究では、中大獨逸文學の天沼春樹先生が第一人者ですが、料理の再現までした人は、私の他にをりません(獨逸のツェッペリン博物館が料理本を出版してゐますが)。それに、村上ムッシュから「飛行船博士」の稱號まで頂きましたから、日本では2番目位ではないかと、勝手に思ひ込んでゐます。

 英語や獨逸語の原書は、1920年代に出版されたものから最近まで、「飛行船」「Luftshiff(獨)」「Airship(英)」の表題本なら大抵のものが手元にあります。寫眞を眺めてゐるだけでも、次から次へと興味が湧き、想像力を掻き立てて樂しいものです(餘りに集まり讀み切れてゐません)。

Buecher この蒐集癖は小さい頃からでした。何故か古い物ばかりが好きでした。最初の記憶は溝(ドブ)の向かう側にアルマイトが鈍色に光る藥罐(ヤカン)が落ちてゐて、それに手を伸ばした途端に落ちてずぶ濡れになつたことでせうか。近くを通る人に助け出されましたが、臭くて、悲しくて大泣きしましたので、幼稚園前の筈です。「木口小平(キグチ コヘイ)ハ死ンデモ喇叭ヲ離シマセンデシタ」に近くて、助け起こされても、決して掴んだ藥罐は離さなかつたさうです。ご存じない方も多いと思ひますが、戰前の教科書に日清戰爭の美談として載つてゐたもので、同じ喇叭吹きとして忘れられない故事です。

 岳父は今も皇居でなくて「宮城」と言ひますので、70代の方とお話ししても、別段、違和感なくごく自然に昔話しができます。自分の目で見た、體驗した話しを聞けるので、歴史好きの私としては、ワクワクする位です。戰後、間もない頃は地下鐵銀座線、上野驛の改札を出た地下道に戰爭孤兒や浮浪者が溢れ、氣味が惡かつたとか、増上寺邊りは人っ子一人ゐなくて夜通るのは車でも厭だとか、散々祖母に聞かされました。すっかり、それらが染み込んでゐますから、何の違和感もなく、ごく普通にまるで見て來たやうに喋る爲、うちのかみさんに「あなたいったい何年生まれかしら」と呆れられます。

 戰國時代の本も結構讀みましたが、近代史、特に昭和の初めの方が親しみを感じます。特に「ツェッペリン伯號」のお陰で昭和4年8月の新聞はじっくりと讀み返しましたので、帝國飛行協會(現航空會館)の屋上には飛行機が置いて有つたとか、廣瀬中佐の銅像が萬世橋驛前に在つたことも知りました。日露戰爭の旅順港封鎖作戰の際に部下の杉野兵曹長を探す最中に戰死した廣瀬中佐や、現在の交通博物館の場所が中央線の終着「萬世橋驛」だなんて知らなくてもいいことを知つてゐますので、吃驚されますね。

Menus それで、飛行船に關する蒐集ですが、高いものでは飛行船内で使はれてゐた磁器、次いで献立表、稀覯本と續きます(畫像參照)。ここでお見せする磁器と献立表は實際に1929~1935年に使はれたものの一部です。以前競賣で6客一組の皿類、カップ類、大皿、羮器(スープ・チューリン)等かなりの數が出てゐましたが、一人の蒐集家がまとめて600萬圓位で落札してゐました。大金持ちになると、桁が違ふものだと吃驚したものです。

 献立表は結婚式でもさうですが、持ち歸へるのが禮儀ですので、大事にしてゐた人から傳はつて來たものでせう。宮中晩餐會で献立表を忘れると、わざわざ届けてくれるさうですよ。
 料理内容を見ますと、スープ、肉料理、デザートが基本で、夕食は輕いものになつてゐます。それは、今も獨逸の人々が頑なに守る食生活と一緒なのです。今も晝食は家に歸へつて食べて、また學校へ行つたり、會社へ戻る人も大勢居て、晝食後も働くので力を附けなくてはいけません。併し、夜は夜遊びは別として、基本的に寝るだけですから、冷たい食事(kaltes Essen)で何ら問題ない譯です。黒パンにチーズやハム、それにワインだけで火を使ひませんから、食事の支度も樂ですね。

 献立ひとつから材料や料理だけでなく、食生活もわかるのですから、面白いのです。何時かは全献立料理の再現をしたいと思つてゐます。

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2006年3月16日 (木)

和食の再現

 ベルランを飛び出して「ツェッペリン伯號」に關する再現料理を作つて頂いたこともあります。今も土浦で營業を續ける料亭〈霞月樓〉の會長堀越恒二さんは、實際に係留した飛行船に乘つた数少ない証言者のひとりです。

Kmenu 1929(昭和4年)8月19日、海軍霞ヶ浦航空隊の基地に降り立つた飛行船は、すぐにテント下で歡迎祝賀會が開かれ、乘客は帝國ホテルを目指して常磐線の臨時列車の1等席に乘り込み、エッケナー博士以下11名の士官たちは枝原司令主催の歡迎會へ招かれます。それがその〈霞月樓〉に、献立表も殘されてゐました。和食の献立表はそもそも、主人若しくは板長が料理人に作らせる爲の覺へ書きのやうなものでしたから、詳細に食材が羅列してあります。

 椀盛、刺身、取り肴、焼物、甘煮、小丼、茶碗、水菓子と8品もある、立派な會席料理です。一人當たり4圓したと記録されてゐますので、今のお金に換算すると凡そ40,000圓です。金額からしても、納得のいく最高級の純和食で異國情緒を味はつて貰つたことがわかります。
 梶木鮪(カジキマグロ)、車海老や鮎の塩焼き、鮑の塩蒸し、鼈(スッポン)、葡萄(ぶだう)等普通に手に入るものばかりではありません。火どりきす、大葉百合 うま煮、とうがん壽司等調理法のわからないものも澤山ありました。再現に一番困つたのは「真桑瓜(マクワウリ)」でした。昔は軒先、畦道によく植ゑられて食された夏の甘い果物ですが、高度成長期以降、すっかりメロンに驅逐されて栽培農家が殆どなく、數が揃ふかどうかもわからない状況が續きました。レーマン船長が殘した原書に書かれた料理の印象から、調理法を探し出して確認したり、農家を尋ねたりで、全て揃ふことがわかつたのです。

Mfrlay そして、會長のみならず、現ご當主の堀越恒夫社長、堀越雄二専務、大橋靖弘調理長等の並々ならぬご協力により、2003年7月5日、〈霞月樓〉に於いてこの料理を再現しました。46名と云ふ大勢の参加で、最初に15分位會議室で私があらましを話してから、廣間に移りました。更に、料理が出される度に解説を加へ、飛行船に乘せられてゐたモーゼルワイン(年號違ひ)と共に頂きました。海のもの、川のもの、繊細な味はひが口に廣がり、終始和やかな優雅な食事會でした。真夏日のお晝でしたが、霞ヶ浦を渡る風も心地よく、同じ廣間で食せたことは幸運です。
 以前にもツェッペリン伯爵のお孫さんや乘組員等が來日した際にも再現したさうですが、料理人も替はり、同じ食材を得ることが如何に難しいかを知りました。再現料理の寫眞は料理寫眞家山家學さんに、動畫映像もイーアンドイープロダクツの平向榮さんにお願ひして記録しましたので、何時かこれらを本に、または番組して世に出したいと云ふのが私の夢です。

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2006年3月15日 (水)

ムッシュ

 ベルランの「ツェッペリン伯號」に関した再現料理で一番盛り上がつたのは、1929(昭和4)年8月20日、滯在先の帝國ホテルでの歡迎晩餐會の再現でせう。献立表自體は國内に保管されてをらず、獨逸のツェッペリン博物館併設の圖書館探し出しました。現首相の祖父で入れ墨のあつた逓信大臣小泉逓信大臣、財部(たからべ)海軍大臣、宇垣陸軍大臣の主催です。運輸、郵政が一緒の逓信省の時代です。それにまだ、飛行船は軍事に轉用できると考へられてをり、寄港地も霞ヶ浦海軍航空隊基地でした。それ故、格納庫に居る間に綿密な構造調査もされてゐます。噂に聞く最先端技術が其処にあつたのですからね。

1 冷製キャビア、冷製コンソメ、殻附オマール海老 カルディナール・ソース、牛フィレのステーキ ロッシーニ風、氷菓 シャムパーニュ風、冷製鶏肉 ムース添へ、アイスクリーム 富士山型、果實、珈琲とその頃望み得る最高級の佛蘭西料理です。もてなされた船長以下乘客たちはさぞかし喜んだことでせう。ステーキの後にもう一品肉料理が出て來るのは、傳統的な食事形式だからですね。また、宴會料理ですから、一皿づつ運ばれるのではなく、大皿で持つて來られたものを取り分ける形式でした。

 手に入り難い筈の食材は如何にして手に入れたのか。キャビアは船員たちが買つてくれと持つて來とたとか、伊勢海老ではなくオマール海老も使ひ、黒毛和牛が喜ばれ、名物の富士山アイスが好評で、果物は殆どメロンと云ふ決まりであつたとか、詳しい裏方事情も知ることができました。それは故村上信夫、帝國ホテル料理顧問に直接尋ねることができたからです。(撮影:山家學)

Am そこで私共では、2003(平成15)年の11月20日に、村上信夫氏をゲストとしてお招きし、盛大に再現料理食味會を開きました。勿論、私も燕尾服でお出迎へです。合はせるワインはその時手に入る國産ワインの粋を集めました。キザン・スパークリング・トラディショナル・ブリュット、02年産ルバイヤート〈シャルドネ〉金ラベル「舊屋敷畑収穫」、1999年産シャトー・メルシャン〈長野メルロー〉、岩の原「深雪花」、1994年産サッポロ・グランポレール・北海道餘市貴腐〈ケルナー〉です。

 お話し上手なムッシュは當時7歳の子供でしたが、實際に千住にお住まいで「銀色の葉巻」が海軍の複葉機十三式艦上攻撃機の先導でゆっくり飛び去る姿を物干し臺に寝轉がつて見物したことや、先輩から機内食を作る苦勞話しを聞かされたことなど、昨日のやうにお話し下さいました。長年の立ち仕事により膝を惡くされてをりましたが、80歳を過ぎたとは云へ料理もワインの一滴も殘さず、綺麗に召し上がり「何時でも呼んで下さい。近いですから、すぐにまた來ますよ」とも言つて下さいました。

Monsieur 忘れられないのは、まづ調理場に挨拶に來られ、食後には、一皿一皿調理法を解説してきちんと評價して下さり、歸へる前にもシェフを始め從業員に勞をねぎらふ言葉を掛けて下さいました。同業者だからと云つて、なかなかできないことではありません。これには感動しました。優しいお言葉に足が震えたものです。飛行船の結んだ大きな思ひ出です。

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2006年3月14日 (火)

飛行船の料理

 1929(昭和4)年8月19日、世界一周の途中霞ヶ浦の海軍航空隊基地に寄港したLZ127「ツェッペリン伯號」は不況の續く緊縮財政下、熱狂的な歡迎を受けました。大和和紀原作のアニメーション《はいからさんが通る》の中で、西比利亞(シベリア)出兵後行方不明となつた伊集院忍少尉が飛行船で歸國してゐました。1978(昭和53)年から翌年に放映されたものなので、記憶は定かでないのですが、もしかするとこの「ツェッペリン伯號」であつたかも知れません。

 さて、凡そ80年前の話しですので「銀色の葉巻を見た」と云ふご長寿な方幾人にもお遇ひしましたが、もう殆ど風化してしまつた、歴史上の出來事です。霞ヶ浦畔の土浦ではツェッペリンで町興しをしようと、畫策してゐますが、思ふやうな成果をまだ上げてゐません。當時、乘客と士官は東京へ行きましたが、乘組員たちは整備の爲に飛行船と共に殘りました。彼等の勞をねぎらふ爲に馬鈴薯の入つたカレーを作つたところ、非常に好評であつた故事に習ひ、古老にレシピを聞き出して、「土浦ツェッペリン・カレー」と題して再現してゐます。地元名産の蓮根や馬鈴薯等野菜がふんだんに入つたものです。
 カレーそのものは帝國海軍と共に廣がりましたから、横須賀は「カレーの街よこすか」と正面切つて「横須賀海軍カレー」を出し、長岡には出身の山本五十六(いそろく)に肖(あやか)つた「五十六カレー」、呉には「海軍肉じゃがカレー」等全國の海軍縁の地にカレーがあります。今でも海上自衛隊でも金曜日の夜は必ずカレーが出されてゐます。

Zmd1  一方飛行中の「ツェッペリン伯號」の中では、最高級の料理が供され、ベルランではgramophon肝入りで幾度か再現しました。
 これは1929年8月15日、獨逸のフリードリヒスハーフェンを飛び立ち日本へ向かふ日の最初の晝食です。ブイヨンスープ 小團子入り、鮭のムースとマリネ グラーフ・ツェッペリン式、鹿背肉の蒸煮、根セロリのサラダ、クレーム・キャラメル 果物添へ、珈琲と云ふ素晴らしいもの。
 1927(昭和2)年、大西洋單獨無着陸飛行を果たした「スピリッツ・オブ・セント・ルイス號」のチャールズ・リンドバーグが狹い操縱席にサンドヰッチと水だけで33時間過ごしたことを考へると、雲泥の差です。真っ白なテーブルクロスの掛かる卓子に、給仕が船内で調理された料理を運び、磁器の器に銀器で頂くなんて、夢のやうな世界です。然も、燃え易い水素の詰まつた瓦斯嚢へ引火を防ぐ爲、火は使はず、厨房は完全電氣化されてゐたのです。勿論、男女別れたトイレもありました。

Zmd2 然も、事前に印刷された美しい献立表は今でも競賣で取引されてゐます。乘客の實筆が入るものなら、急騰して全く手も出ませんが、自信に滿ちたデザインも素敵で、私も幾つか所有してゐます。順番に再現して行きたいものですが、献立表は料理名だけですから、當時と同じ食材を探すのもたいへんです。既に手に入らないものもあります。それでも、何とか食べられる形にして、お客さんに浪漫を召し上がつて頂きたいのです。

 似たやうな考へ方をする人が居るものです。外見を似せ、本人になりすますと、自然に考え方も似てきて、「本人」を擬似體驗できるという理論(本人術的理論)を實踐してゐる南伸坊さんに共鳴しました。そっくり同じ料理を作り、似た服装で同じやうに食べることが大事なのではないか。この追體驗により、その當時の人と同じ感じ方ができるだらうと、私も考へてゐます。
 ですが、私は給仕に忙しくて未だに口にしてゐません。




本人の人々


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本人の人々


著者:南 文子,南 伸坊

販売元:マガジンハウス

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2006年3月13日 (月)

銀色

 映畫「ヒンデンブルク」が飛行船好きになる切掛だとお話しました。1930年代に大勢を運べる最速の乘り物であつたにも拘はらず、1937(昭和12)年の事故以降旅客に用ひられず幻と化したこと、そこに、ヴィスコンティにも通じる滅びの美學も見出してしまひます。併しそれだけでなく、空飛ぶ優雅な旅行そのものに夢を感じ、また單純にキラキラ輝くあの「銀色」が未來を感じさせてくれるのです。

 輕い金屬と云へばアルミニウムであり、丈夫な合金はジュラルミンでしたから飛行船だけでなく、飛行機の機體も銀色に輝いてゐたものです。1897(明治30)年にツェッペリンに先驅けて、墺地利のシュヴァルツの理論に基づくガソリン内燃機關(エンヂン)附きのアルミニウム製飛行船の實驗が行はれ、1929(昭和4)年には加利福尼亞(カリフォルニア、略して加州)で全金屬、蒸氣機關による飛行船も試運轉されたり、銀色の飛行船は常に飛んでゐました。

 銀色をしたツェッペリンの飛行船と云へば1928(昭和3)年に初飛行した「ツェッペリン伯號」と1936(昭和11)年に北大西洋横斷飛行に就航した「ヒンデンブルク號」が有名です。「空飛ぶホテル」と讃えられる豪華な室内も當時話題でした。英國の「R100號」や「R101號」、亞米利加「アクロン號」や「ロス・アンゼルス號」も皆銀色です。

 それに、初期の宇宙飛行士の宇宙服も銀色でしたし、特撮テレビ番組「ウルトラマン」も銀色で、最先端技術だとか、宇宙を感じさせるものは悉く皆銀色をしてゐました。

 1968(昭和43)年から日本の空を飛んでゐた「日立キドカラー號」や、1973(昭和48)年に飛んだ岡本太郎デザインの「レインボー號」や、1988(昭和63)年に麦酒の宣傳の爲の「アサヒスーパードライ號」だとか、これまた皆船體は銀色でした。

 勿論、光を吸収して熱を持たないやうに反射効率の良く、雨を彈くものが飛行船の船體にはよく、銀色がその答へでした。月面に降り立つたアポロ11號(1969年)の頃から宇宙服も白いやうに、現在の飛行船「ツェッペリンNT」は帆布を銀色に塗装したものでなく、白くて丈夫な合成繊維です。銀色の帆布を持つ1930年代のツェッペリン飛行船ですと、銀色塗装だけでは雨に遭ふと外皮が水を吸つてしまひ、重たくなつて航行に影響がありました。

 おもちゃではありますが、ちゃんとヘリウムで飛ぶ室内用ラヂオ操作の飛行船「スカイ・シップ」が賣られてゐます。これであなたも「銀色」の虜になること請け合ひです。



飛行船―空飛ぶ夢のカタチ


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飛行船―空飛ぶ夢のカタチ


著者:天沼 春樹

販売元:KTC中央出版

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